第八章 動き出す時

動き出す時 1

 灰に染まった大気が領地一帯を覆っていた。風は弱く、しかしどこか湿り気を含んでいる。まるで空そのものが喪に服しているかのようだった。


 アイニスは鎧に身を包み、静かな礼拝堂の中で棺の前に両膝を落としていた。


 セイリアの遺体が収められているその棺の上には、彼女の生家であるオルセル家の紋章が静かに据えられていた。双頭の竜。かつての高貴と、今は亡き誇りを象徴する意匠。


 アイニスはじっと義姉が入っている棺を見つめていた。泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、そこに静かに。ただ黙って棺を見守っている。


 だがその静けさの奥には、幾重にも折り重なった思念が渦巻いていた。


 そっと足音を忍ばせて近づいた一人の従者が、アイニスの耳元にささやいた。


「――すでに城門を通過されました。到着は目前かと」


「手勢は?」


「二千あまりです」


 アイニスは僅かに瞬き、そしてほんの少し、口元を緩めた。やはり軍勢を引き連れて来たか、予想通りだ。


 目はそのまま棺に注がれている。だが、胸中では計算の石が音もなく組み替えられていく。


 オルセル家が動いた。セイリアの死に呼応して。


 ──カルゼ様も酷い御方ね。兄の妻の死を利用してオルセル家を味方に引き入れ、ヴィグラン家を潰そうとなさるとは。いや、兄の妻を殺してが正しいか……兄も哀れね。


 アイニスは心で呟いた。セイリアの死は、オルセル家を味方に引きずり込んだ。これも、セイリアが皆から愛されていたからこそだ。


 ――セイリア、あなたはもういない。あなたの平和への願いもこれまでよ。サーヴェの下で穏やかに暮らしなさい。


 アイニスが笑みを浮かべた時、祭壇に灯る火が左右に揺れた。



 やがて礼拝堂の外で足音が重なり始めた。甲冑の擦れる音、馬のいななき、規律正しい兵士たちの隊列。それらすべてが一つの塊となって近づいてくる。否応なく、場に緊張が走った。


 アイニスは立ち上がらなかった。彼女はまだ膝をついたまま、冷たい石床に片手を置き、棺の前で目を閉じていた。


 礼拝堂の荘厳な扉が、重々しい軋みとともにゆっくりと押し開かれる。その隙間から、外の曇天が切り取られ、淡い光が細く堂内へと差し込んできた。


 姿を現したのは、黒い礼装に金の刺繍を施した男だった。


 長い髭を生やした彼の名はラドウィン・オルセル。セイリアの兄にして、オルセル家に名を連ねる諸侯の中でも影響力を持つ人物。そして最も感情に流されやすい男。


「セイリア……!」


 ラドウィン・オルセルはまるでアイニスなど見えていないかのように棺に駆け寄った。そして棺の前で崩れ落ちた。


「セイリア!」


 その声は震えていた。いや、震えているのは声だけではなかった。全身が、魂の芯から震えていた。


「なぜだ……なぜ、おまえが……!」


 堂内に響く嗚咽。男の涙は、まるで子どものように純粋で、痛ましいほどだった。


 激しく揺れる祭壇の火。まるで兄のわめき声に応えているかのようだ。


 白いマントに鎖帷子と兜。ラドウィンの背後に立つ従者たちは、主人と彼の妹の前で頭を下げ、静かに目を閉じて祈りの言葉を口にする。


 アイニスはその様子を、ただ見つめていた。


 ──これで、オルセル家の立場は決定的になるわ。



 ラドウィンの嗚咽が、しばし礼拝堂を支配していた。空気は重く、誰もその場にふさわしい言葉を持たず、ただ頭を垂れるか、沈黙の中に身を置いていた。


 やがて、嗚咽の合間にラドウィンが絞り出すように言葉を吐いた。


「……おれは……ヴィグラン家を許せない……妹をこんなふうに──」


 だがその先は続かない。声が掠れ、言葉が涙に呑まれていった。


 アイニスはラドウィンの側に近寄る。そして涙を流し、鼻を啜った。


「ラドウィン殿」


 アイニスの涙声がラドウィンの耳に届いた。


 ラドウィンは顔を上げる。涙に濡れたその目に、アイニスの姿が映った。


「私は……この死を、無にするつもりはありません。たとえ兄や王が許しても私はヴィグラン家に復讐するつもりです。親愛なる義姉の為に。あなたも同じお気持ちですか?」


 その言葉に、ラドウィンは深く頷いた。「もちろんだ……」涙の溜まった目でアイニスを見つめながら。


 

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