第24話

 9月に入っても街を包む蒸し暑い空気は、まるで街全体が大きなため息をついているかのようだった。


 七瀬さんとは、会えなくなると言われてから本当に一度も会えていなかった。たまに送られてくるのは部屋や旅館で1人飲みをしていると思しき写真と『ななぱー』という酔っぱらいからのメッセージくらい。


「で、どうなのよ? あのそっくりさんとは」


 昼休みのカフェ。目の前でパスタを巻きつけながら、同僚の鳴海が悪戯っぽく笑った。彼女の快活な声は、この気だるい午後には少し眩しすぎる。


「いや、それが最近会えてなくて……」


「えっ、なんで? なんかやらかしたわけ?」


「ちっ、違うよ!? なんでも、大きな仕事が佳境なんだってさ」


「ふーん。ま、いいけど」


 鳴海が興味なさそうにフォークを置いた、その時だった。俺は、店内の隅の席に座る男の視線に気づいた。キャップを目深にかぶり、マスクで顔の半分以上が隠れている。その男が、じっとこちら……いや、鳴海の方を見ている。


「鳴海、あの人……こっちをずっと見てる気がする……」


 俺が小声で顎をしゃくると、鳴海も怪訝そうにそちらに目をやった。そして、サッと顔色を変える。


「……うそ。もしかして……」


「知り合いなの?」


「なわけないでしょ! いやぁ……苦節24年。ついに私もモテ期が来ちゃったかぁ……」


「それも『なわけない』に入るんじゃ――」


「あ゛?」


 鳴海の圧が強まる。


「鳴海さんは誰からも愛されるビジュアル、内面ともに素敵な御方です」


「うんうん。よろしい」


 鳴海が満足気に頷くも、尚も俺達から視線を外そうとしない様子に背筋に冷たいものが走った。


 ……ストーカー?


 まさか。


 鳴海は快活で敵を作るようなタイプじゃない。でも、男の視線は粘着質で、明らかに好意的なものではなかった。


「けっ、けど本当に大丈夫? 仕事終わりとか待ち伏せされたりとか……ないよね? しばらく送ろうか?」


「……うーん……その提案は助かるけど、本当にストーカーだとしたら一緒にいるのが男の人だと逆に危なくない? 『彼氏だ!』って勘違いして余計にヒートアップするかも」


「アイドルじゃないんだから……」


「あの人にとっては私がアイドルかもしれないってわけ。んー……ま、でも少し脅かしとくのはアリ?」


「脅かすのは無しだよ……俺が一度話してみようか?」


「えっ……余計に危なくない?」


 鳴海が少し息を潜めて尋ねてきた。


「大丈夫大丈夫」


「根拠は?」


「……ないけど。でも結構な頻度でランチを一緒に食べてるから、俺も変な勘違いをされててもおかしくないんだよね」


「私の恋人だって?」


「まっ、まぁ……そういうこと」


 二人して見つめ合う。そして同時に吹き出し「ないない」と同時に言った。


「じゃ……ちょっと話ししてみよっか。ここの店を出て……そこのカレー屋の曲がり角で待ち伏せるっていうのは? 私は店に一回入って背後に回り込んで挟み撃ち」


「うん。いいよ。それで行こう」


 鳴海と簡単な作戦会議を済ませ、俺達はランチもそこそこに店を出る。


 二人で並んで歩いていると、鳴海は手鏡を取り出して顔を見始めた。


「こんな時まで気にしなくても……」


「ううん。後ろからついて来てる。さっきの人」


「うえっ……マジで?」


「うん。じゃ……ご武運を」


 直角に曲がり、後ろの人から見えないように自販機の陰に身を隠す。鳴海も見えないようにカレー屋に入店していった。


 少しすると足音が近づいてくる。心臓があり得ないくらいバクバクと跳ねている。


 足音が大きくなる。意を決してその陰から飛び出した。


 そこにいたのは見知らぬ男性。だが、ランチをとっていた店から俺達を見ていたその人に違いない。


「うっ、うわっ!?」


「店からついてきてますよね? 彼女の知り合いですか?」


 緊張から『彼女』のイントネーションが変になるが訂正している暇はない。


「かっ……彼女? やっぱりそうなんですか?」


「えっ? いやまあ……そうというか……そうなんじゃないですか?」


「なるほど……分かりました」


「わ、分かってくれるんですか!?」


「はい。もうここには来ませんので安心してください」


「は、はぁ……」


 その人はそれだけ言い残して去っていく。少し空けて挟み撃ちをするために回り込んでいた鳴海がやってくるも、俺しかいないため首を傾げた。


「あちゃ……逃げられた?」


「いや、話したよ。『そうなんですか?』って聞かれたから『そうですね』って答えたらもう来ないってさ」


「なっ、何それ……」


「いや……分かんない……まぁ、しばらくは気をつけなよ……今日は家まで送るから……」


「ほーい。ありがと。頼りになるじゃん」


 鳴海はニコッと笑って俺の肩を叩く。その笑顔といい仕草といい、アイドルオタクにプライベートを全振りをしていなければ余裕で彼氏もいるんじゃないかと思ってしまった。


 ◆


 事務所のあるビルの会議室、黒田美咲は依頼をしている興信所の担当と通話をしていた。


「――はい、はい。なるほど? 録音のファイル……はい。えぇ。開いてみます」


 黒田が再生ボタンを押すと相川の声が流れる。


『店からついてきてますよね? 彼女の知り合いですか?』


 彼女の知り合い。そのイントネーションは恋人を指す時の言い方にも聞こえなくはない。


「これが……相川陽介が鳴海千晶と交際している証拠だと?」


「はっ……はい。後、二人で定時退社をした後に親しげに話しながら鳴海の自宅に二人で向かいました」


「部屋には入りました?」


「いえ、エントランスの前で別れ、相川は河川敷を経由して家に帰りました」


「ふむ……もう少しきちんと確認しても良かったのでは? これではベジータの死を確認しなかったザーボンさんですよ?」


「はっ……ザーボン?」


 黒田は内心で「ドラゴンボールネタは通じない年代か」と舌打ちをする。


「なんでもありません。まぁ……一旦これで大丈夫です。ありがとうございました」


 電話を切り、黒田は一人で考え込む。


「熱烈なファンの彼氏……彼女のために近づき……便宜を図ってもらう? ただいつかは鳴海も会わないと意味がないのでは? あわよくばのワンチャンス狙い? 二股? まぁ、狙いは何にしても……恋人がいることは確定」


 このネタを使うのは今ではない。夏の仕事ラッシュが一段落した頃。その頃にもう一度凪と話せばいい。


「相川陽介……やはり貴方は無害な人ではありませんでしたね」


 恋愛禁止が暗黙の了解とされているアイドルに近づく人に碌な人はいない。黒田の中でそれがまた確固たる確信に変わっていった。


 ◆


 時は流れ、虫の声が秋の訪れを告げ始めた九月の夜。


 再開の日、俺は吸い寄せられるように、いつもの河川敷へと足を運んでいた。


 そこに、彼女はいた。


 前と何も変わらない見慣れた後ろ姿。座って川の向こう岸を眺めている。


 俺は、どう声をかければいいのか分からず、少し離れた場所で立ち尽くしてしまった。


 やがて、彼女がこちらに気づく。気まずい沈黙が、りん、りりり、と鳴く虫の声に支配される。


「……少し、髪伸びました?」


 ようやく絞り出した俺の言葉に、彼女はこくりと頷いた。


「ふふっ……敬語やめて。笑っちゃうじゃん。陽介も伸びたね、髪」


 それきり、また会話が途切れる。以前よりも少しだけ遠くに感じる距離。


 缶チューハイ4本分の距離を開けて座ると、七瀬さんの方から缶チューハイ2本分の距離を詰めてきた。


 彼女は、持っていた缶のプルタブをプシュッ、と小さな音を立てて開けた。


 そして、探るような目で俺を見つめる。


「……彼女できた?」


「なわけないじゃん……ずっと仕事。七瀬さんは?」


「同じく。ずーっと仕事。平日も週末もないよね。いやぁ……大変だった。見てみて。ここ、日焼けした」


 七瀬さんは足首を見せてくる。どうやらサンダルの形状に合わせて点がまばらにつくように日焼けしてしまったらしい。


「うわぁ……大変だね」


「大変でしたよぉ……ま、乾杯。久々」


「うん。久々」


 二人で缶チューハイをコツンとぶつける。少しだけ冷たい風が吹き抜ける。


「ね、陽介。夏、終わったね」


「何にもしてないけどね」


「秋は何するの?」


「何もしない」


「冬は?」


「何もしない」


「ん、最高。何もしないことをしてよう」


 俺が淀みなくそう言うと七瀬さんはケラケラと笑い、缶チューハイを口にしてタイトルの分からない歌を口ずさんだ。


「誰の歌?」


「や、フジファブリック。このところずっと歌っててさ」


「へぇ……」


 広がらない会話。だけどそれでいいと思えるくらいには七瀬さんとの再会に安心感を覚えていた。



 家に帰り、SNSをぼーっと見ているとこの夏のルミナスティアーズのライブ動画と思しきものが流れてきた。


 『最高のカバーだ……全員神だ……』


 どうやらカバー曲を披露していたらしい。それは七瀬さんが河川敷で口ずさんでいた曲と同じメロディーだった。


「スタッフで帯同しててずーっと聞いてたんだろうなぁ……何回も聞いてると耳に残っちゃうよなぁ……」


―――――


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