【第36話】夜明けの後の、甘い気まずさ

 工房での、あの、あまりにも濃密な夜が明けた。

 リアンは、夜が更けてから、侍従にも知らせず、一人で自室へと戻っていった。その背中は、どこか、ふらついているようにも見えた。

 一人残された私は、彼が流した涙の熱が、まだ、自分の肩に残っているような気がして、なかなか、寝付くことができなかった。


 翌朝、王宮の自室で目を覚ましたリアンは、深い後悔と、そして、生まれて初めて経験するほどの、猛烈な羞恥心に襲われていた。

(私は、一体、何を……!)

 天蓋を見上げたまま、彼は、動くことができない。

 昨夜の記憶が、鮮明に、蘇ってくる。

 セレスティア先生の姿をしたルシエルの前で、我を忘れ、子供のように、声を上げて泣いてしまった。彼女の手に縋りつき、十年分の孤独と弱音を、全て、吐き出してしまった。

 挙句の果てには、彼女に、抱きしめられ、あやされるように、背中を撫でられた……。


〝氷の王〟。

 邪魔者は、実の兄であろうと、情け容赦なく断罪する、冷徹な君主。

 それが、今の、私だ。

 その私が、たった一人の女の前で、全てを、さらけ出してしまった。

 王としての威厳も、男としての矜持も、何もかも。

「…………っ」

 リアンは、呻き声を上げると、枕に顔をうずめた。耳まで、真っ赤に染まっている。

(……どんな顔をして、彼女に会えばいい)

 会いたい。一刻も早く、彼女の顔が見たい。声が聞きたい。

 だが、同時に、合わせる顔がない。

 昨夜、私は、確かに、彼女に「妃になってほしい」と伝えた。そして、彼女は、それを受け入れてくれた。

 私たちは、恋人同士になった、はずだ。

 だというのに、その、最初の夜に、私は、求婚した相手の胸で、赤子のように、泣きじゃくったのだ。

 これでは、求婚ではなく、まるで、母親に「僕とずっと一緒にいて」と、駄々をこねたようなものではないか。

(……軽蔑、されただろうか。呆れられただろうか……)

 十年という歳月をかけて、手に入れた、絶対的な権力と、王の威厳。

 それが、昨夜、一瞬にして、全て、崩れ去った。

 リアンは、シーツを固く握りしめ、一人、悶絶していた。


 ◇ ◇ ◇


 一方、その頃。

 ルシエルもまた、自室の鏡台の前で、自分の真っ赤な顔を、両手で覆っていた。

(……私、王様を、子供みたいに、あやしてしまった……)

 昨夜の出来事を思い出すだけで、心臓が、大きく跳ねる。

 セレスティアの仮面を被っていたとはいえ、リアンを導き、彼の涙を受け止めたのは、紛れもなく、私自身だ。

 王の、あの、誰にも見せたことのない、無防備な姿。

 私だけが、知っている。

 その事実が、私の心を、甘く、そして、くすぐったいような、罪悪感で満たしていた。

(……どんな顔をして、今日、彼に会えばいいの……)


 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、侍女のエルアが、朝食の準備を整えて部屋に入ってきた。

「おはようございます、ルシエル様。……まあ」

 エルアは、私の顔を見るなり、小さく、目を見開いた。

「どうかなさいましたか? お顔が、昨日よりも、ずっと赤いようですが……」 「な、何でもないわ! 少し、部屋が、暑いだけだから……!」

 慌てて取り繕う私の様子に、エルアは、何かを、完全に察したように、くすりと、悪戯っぽく笑った。その、全てを見透かしたような優しい笑顔が、今の私には、ひどく、気恥ずかしかった。

「ルシエル様、本日の朝食は、陛下が、東のテラスでお待ちでございます」

「え……!」

「『二人で、ゆっくりと話がしたい』と。……昨夜から、ずっと、お待ちかねのご様子でしたよ」

 エルアの、その言葉に、私の心臓は、もう、はちきれんばかりに、高鳴った。

 逃げることは、できない。

 私は、深呼吸を一つすると、戦場に向かうような覚悟で、頷いた。


 東のテラスは、今日も、朝の柔らかな陽光に満ちていた。

 だが、そこに座るリアンの姿は、昨日までとは、明らかに、違っていた。

 彼は、私が近づいてくるのに気づくと、びくり、と、肩を震わせ、そして、あからさまに、視線を逸らした。その頬も、耳も、ほんのりと、赤く染まっている。

 その姿が、あまりにも、いじらしくて。

 私の緊張も、少しだけ、ほぐれていく。


「……おはよう、リアン」

 今度は、私の方から、彼の名前を呼んだ。

「……あ、ああ……。おはよう、ルシエル」

 彼の返事は、しどろもどろだった。

 私たちは、どちらからともなく、席に着く。

 テーブルの上には、今日も、美味しそうな朝食が並べられている。だが、私たちは、どちらも、それに、手を付けられない。

 気まずい、沈黙。

 時折、目が合うと、二人して、慌てて、逸らす。

 その、あまりにも、初々しい、恋人同士のようなやり取りに、私は、もう、笑ってしまいそうだった。


「…………あの」

 沈黙を破ったのは、リアンだった。

「昨夜は、その……。……取り乱した。すまない」

 彼は、顔を真っ赤にしながら、そう、言った。

 その姿に、私の胸に、愛しさが、込み上げてくる。

 私は、テーブル越しに、そっと、彼の手の上に、自分の手を重ねた。


「いいえ」

 私の声は、自分でも驚くほど、優しく響いた。

「……あなたの、本当の気持ちを聞けて、私は、嬉しかった。……ううん、幸せだった」

 私の、その、素直な言葉に。

 リアンは、金色の瞳を、大きく、見開いた。

「……ルシエル……」

「だから、謝らないで。……これからは、何でも、話してほしい。あなたの、喜びも、悲しみも、……そして、弱さも。全て、私も、一緒に、背負いたいから」

 それが、私の、答えだった。

 妃になる、という約束への、本当の、誓いの言葉。


 私の言葉に、リアンの瞳が、ゆっくりと、潤んでいく。

 彼は、私の手を、強く、強く、握り返した。

「……ああ。……ああ、分かった」

 彼の声もまた、幸福に、震えていた。

 気まずい空気は、もう、どこにもなかった。

 そこにはただ、互いの想いを確かめ合い、未来を誓った、一組の恋人たちが、いるだけだった。

 この、穏やかで、甘い朝の光の中で、私たちの物語は、また、新しいページを、開いたのだ。

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