【第25話】北の吉報と、蘇る記憶の欠片

私が作った〝防護の香り〟が、北の最前線へと旅立ってから、十日が過ぎた。

 その間、私は、リアンが用意してくれた膨大な資料と向き合い、来るべき「自分のための香り」の研究と、彼を支えるための新たな香りの試作に、没頭していた。

 香りと向き合っている時間は、私を無心にさせた。王宮での、籠の中の鳥としての不自由さも、自分が「死んだことになっている」という、奇妙な現実も、その瞬間だけは忘れることができた。

 だが、心のどこかでは、常に、北の遠征隊のことを案じていた。

 私の作った香りは、本当に、兵士たちを、リアンの期待を、裏切らずに済んだのだろうか。


 その日、私がいつものように「店」で、集中力を高めるための新しい香油の配合を試していた時だった。

 扉が、ノックもなしに、勢いよく開かれた。

 驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはリアンだった。彼の表情は、王としての冷静さを保ってはいるが、その金色の瞳の奥には、抑えきれない興奮の光が宿っている。

 そして、彼の後ろには、いかつい鎧に身を包んだ騎士団総長と、王宮の侍医長が、神妙な、しかしどこか晴れやかな顔で控えていた。

 ただごとではない。私は、直感的にそう悟り、立ち上がった。


「ルシエル」

 リアンの声が、部屋に響く。

「北から、第一報が届いた」

 彼はそう言うと、隣に立つ騎士団総長に、目で合図を送った。

 厳格なことで知られる壮年の総長が、一歩、前に進み出る。彼は、以前、私が王の執務室で会った時の、あの懐疑的な視線とは全く違う、畏敬の念に満ちた目で、私を見つめていた。そして、軍人らしく、深く、力強く、一礼した。


「ルシエル様。……いや、殿、とお呼びすべきか。あなたの功績に、心から、感謝申し上げる」

「まあ……」

「あなたが陛下に託された〝防護の香り〟。あれを、最前線に届けさせた。……結果は、奇跡、としか言いようがない」

 彼は、懐から、一通の羊皮紙を取り出した。それは、北の遠征部隊から届いた、伝書鳥の報告書のようだった。

「瘴気が最も濃いと言われる岩場地帯へ、あの香りを染み込ませた革袋を身につけた兵士五名を、斥候として送り込んだ。……五名全員、一切の体調不良を訴えることなく、無事に帰還した。それどころか、『あの香りを嗅いでいると、頭が冴え、体の疲れさえ感じなかった』と報告してきたのだ」

 騎士団総長の、厳格な顔が、興奮と、そして賞賛の色で、僅かに高揚している。

「おかげで、我々は、瘴気の発生源の特定と、安全な進軍ルートの確保に、成功した。さらには、あなたが依頼していた、現地の土壌と、瘴気そのものを封じ込めた容器のサンプルも、無事に持ち帰ることができた。……これも、全て、あなたのおかげだ」


 次に、隣に立っていた侍医長が、おずおずと口を開いた。彼の顔には、以前のプライドの高さは微塵もなく、ただ、己の無力さを認める、学者の誠実さだけがあった。

「……私も、帰還した兵士たちを診察させていただきました。脈拍、呼吸、いずれも正常。瘴気による後遺症の兆候も、一切見られませんでした。それどころか、総長の申される通り、彼らは遠征前よりも、むしろ活力がみなぎっているかのようでした。……信じがたいことです。我々医師団の知識では、到底、説明がつかない」

 侍医長は、私に向かって、深く、深く、頭を下げた。

「ルシエル殿。我々の不明を、お許しいただきたい。そして、どうか、その大いなる知識を、我々にお貸しいただきたい。このサンプルの分析に、ぜひ、ご協力をお願い申し上げる」


 国の重鎮である二人が、私に向かって、敬意を払っている。

 私は、ただ、呆然と、その光景を見つめていた。

 私の作った香りが、役に立った。遠い北の地で、誰かの命を、救うことができた。

 その事実が、じわり、と、私の心に温かい光を灯していく。

「……よかった」

 私の口から漏れたのは、ただ、その一言だけだった。


「見事だ、ルシエル」

 静かに様子を見守っていたリアンが、私の肩に、そっと手を置いた。その声は、誇らしさに満ちていた。

「君は、見事に、私の、そして、この国の『盾』となってくれた」

 彼の言葉に、私は、顔が熱くなるのを感じた。

「さあ、これが、君が望んでいたものだ」

 リアンが合図をすると、屈強な兵士が、厳重に封をされた、ガラスと金属でできた特殊な容器を、私の調合台に運んできた。

 中には、北の地から運ばれてきたばかりの、瘴気に汚染された土と、圧縮された空気が入っている。

「これで、本格的な研究が始められるわね」

 私は、目の前のサンプルを見つめる。もう、私の中に、迷いはなかった。

 私には、為すべきことがある。この国のために、そして、私を信じてくれた、たった一人の王のために。


 宰相と騎士団総長たちが、丁重な礼を残して退出した後、部屋には、再び、私とリアンだけが残された。

「……君は、私の誇りだ」

 リアンが、静かに、しかし、心の底からの声で、そう言った。

「君の力が、兄上の派閥に傾きかけていた、軍の一部を、こちらに引き戻すきっかけにもなった。……君の勝利は、私の勝利でもある」

 その言葉に、私たちの関係が、本当に、新しいステージに進んだのだと、実感した。

 だが、その時だった。

 私が、分析のために、容器の中から、瘴気に汚染された鉱石の一つを、ピンセットで取り出した、その瞬間。


 ツン、と、鼻をつく、微かな、しかし、鋭い金属臭。

 それは、硫黄の匂いに似ていたが、もっと、何か、人工的な……。


 ――その匂いを嗅いだ瞬間、私の頭の中に、閃光が走った。


(……熱い。息が、できない。煙が、目に……)


 いきなり、目の前に、光景が、蘇る。

 燃え盛る、炎。黒い煙。人の、怒号。

 そして、私の目の前で、崩れ落ちていく、見覚えのある屋敷の、梁。


(……いや。違う。これは、最初の襲撃の記憶じゃない)


 路地裏でリアンを助けた時の記憶ではない。もっと、恐ろしい、絶望的な記憶。

 焼き討ち。

 そう、私は、あの夜、リアンの屋敷に、駆けつけていたのだ。

 そして、そこで……。


「うっ……!」

 激しい頭痛と共に、私は、その場に、よろめいた。持っていたピンセットが、床に落ちて、甲高い音を立てる。

「ルシエル! どうした! 」

 リアンが、血相を変えて、私の体を支える。

「……分からない……。今の、匂いで……何か、記憶が……」

 私が、途切れ途切れにそう言うと、リアンの顔が、険しくなった。

 だが、彼が何かを言う前に、部屋の外から、エルアの、切羽詰まった声が聞こえてきた。


「陛下! ルシエル様! 大変です! 第二王子殿下が……!」 エルアが、息を切らしながら、部屋に駆け込んでくる。 「第二王子殿下が、ご自身の派閥の貴族を、大勢引き連れて、王宮の正門前に……! 『国王の予算の私的流用に関する、国民への説明を求める』と、座り込みを……!」


 また、兄上の、妨害か。

 リアンの纏う空気が、再び、氷のように冷たくなる。

 だが、私は、彼を見上げて、首を横に振った。

 今、私を苛んでいるのは、第二王子の策略ではない。

 私の、失われた、過去の記憶だ。

 私の頭の中に響く、あの夜の、轟音。

 そして、最後に見た、誰かの、鎧に刻まれた、紋章の、一欠片……。


 私の戦うべき相手は、目の前の政敵だけではない。

 私自身の、記憶の中に眠る、本当の「敵」なのだ。

 そのことに、私は、今、気づき始めていた。

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