【第23話】夜明けの余韻と、新たな共犯関係

 あの夜、リアンが足早に部屋を去った後も、私はしばらく、その場から動けなかった。

 唇に残る、彼の熱い吐息の感触。私を見つめていた、欲望と理性の間で激しく揺れていた、彼の金色の瞳。そして、私自身の、雷に打たれたような衝撃。

(……私、リアンのことが、好きなのだわ)

 その自覚は、すとん、と、あまりにも自然に、私の心の中心に落ちてきた。

 十年という歳月。年の差の逆転。王と、囚われの元家庭教師という、あまりにも懸絶した身分。そんな、理性で考えれば絶望的としか思えない障害の数々が、その瞬間、全て意味をなさなくなった。

 ただ、一人の男性として、彼に惹かれている。その事実だけが、燃えるように熱く、私の胸を焦がしていた。

 その夜、私が眠りにつけたのは、空が白み始める、ずっと後のことだった。


 翌朝、目を覚ました私は、寝台から起き上がると、無意識のうちに鏡台の前に立っていた。

 そこに映っているのは、間違いなく、いつもの「地味顔」の私だ。血色の良くない白い肌、色素の薄い瞳と髪。だが、何かが、昨日までとは違って見えた。

 頬が、ほんのりと、上気している。

 瞳が、潤んで、熱を帯びているように見える。

 鏡の中の女は、十年ぶりに、恋を知った顔をしていた。

(……みっともない)

 私は、自分の顔に両手を当て、その熱さに、さらに顔が熱くなるのを感じた。これから、どんな顔をして、彼に会えばいいのだろう。


 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、侍女のエルアが、朝食の準備を整えて部屋に入ってきた。

「おはようございます、ルシエル様。……まあ、どうかなさいましたか? お顔が、少し赤いようですが……」 「な、何でもないわ! 少し、のぼせているだけだから……!」

 慌てて取り繕う私の様子に、エルアは、何かを察したように、くすりと小さく笑った。その、全てを見透かしたような優しい笑顔が、今の私には、少しだけ、気恥ずかしかった。

 そして、彼女が告げた言葉は、私の予想を超えたものだった。

「ルシエル様、本日の朝食は、陛下が、東のテラスでお待ちでございます」

「え……?」

「『二人で、ゆっくりと話がしたい』と。ルシエル様の体調がよろしければ、と仰せでした」

 今までは、私の体調を気遣って、食事は全てこの部屋に運ばれてきていた。彼が、私を部屋の外へ、それも、二人きりの食事に誘うのは、初めてのことだった。

 昨夜の出来事が、確かに、私たちの関係を、新しい段階へと進ませたのだ。

 断る、という選択肢は、私の頭には、もはやなかった。


 エルアに手伝ってもらいながら、私は、昨日よりも少しだけ、念入りに身支度を整えた。生成りの、シンプルなワンピースを選び、髪を丁寧に梳かす。特別な化粧をするわけではない。けれど、少しでも、彼に良く見られたい、と思ってしまう。そんな、乙女のような自分の心境の変化に、私は、戸惑いながらも、どこか、くすぐったいような喜びを感じていた。


 東のテラスは、朝の柔らかな陽光に満ちた、美しい場所だった。色とりどりの花が咲く庭園を見下ろす、小さな円形のテーブル。そこには既に、リアンが一人、静かに座っていた。

 彼は、王の正装ではなく、昨日と同じような、動きやすい簡素なシャツ姿だった。その方が、私を緊張させないための、彼の配慮なのだろう。

 私が近づくのに気づくと、彼は立ち上がり、その表情に、ほんの少しだけ、気まずそうな色が浮かんだ。どうやら、緊張しているのは、私だけではないらしい。そのことに気づくと、私の心も、少しだけ軽くなった。

「……おはよう、ルシ"エル"」

 彼は、私の名前を呼ぶ時、ほんの少しだけ、どもってしまった。

「おはようございます、陛下」

 私が、わざと、いつも通りにそう返すと、彼は、少しだけ、拗ねたような顔をした。

「……リアン、と呼んでくれ。二人きりの時は、そう呼ぶと、約束したはずだ」

「……善処します」

 私がそう言って小さく笑うと、彼も、ようやく、いつもの穏やかな表情を取り戻した。


 席に着くと、テーブルの上には、焼きたてのパンや、色とりどりの果物、そして温かいスープが、並べられていた。

 だが、昨夜の出来事を意識するあまり、私たち二人の間には、どこかぎこちない沈黙が流れる。私は、俯きがちに、ただ、目の前のフルーツを、フォークでつつくことしかできなかった。

「……ルシエル」

 沈黙を破ったのは、リアンだった。

「昨夜は……すまなかった。私が、見苦しいところを……」

「いいえ!」

 私は、思わず顔を上げた。

「見苦しいだなんて、そんなこと……! 私は、ただ……驚いただけだから」

「だが、君を、怖がらせてしまっただろう」

「……怖くは、なかったわ。ただ、あなたが、もう、私の知っている少年ではないのだと……。はっきりと、分かってしまったから」

 私の言葉に、リアンは、金色の瞳を、切なそうに細めた。

「……そうか」

 彼は、それだけを言うと、また、黙り込んでしまう。

 このままではいけない。そう思った私は、意を決して、話題を変えることにした。

「……あなたの、お話を聞かせて」

「私の?」

「ええ。あなたが、十年もの間、どんな風に生きてきたのか。〝氷の王〟と呼ばれるあなたが、この国を、どうやって……。私は、もっと、あなたのことを、知りたいの」

 それは、香薬師として、彼の「ための香り」を作るためでもあり、そして、一人の女性として、愛しい人のことを、もっと深く理解したい、という、私の心からの願いだった。

 私のその言葉に、リアンの表情が、ぱっと輝いた。

 彼が、自分のことを話したがっているのは、分かっていた。だが、彼自身の優しさが、衰弱している私に、過去の辛い話をすることを、躊躇させていたのだろう。

「……ああ。もちろんだ」

 彼は、嬉しそうに頷くと、それから、ゆっくりと、語り始めた。

 兄たちとの確執、王位継承会議での逆転劇、そして、王になってからの、貴族たちとの闘争。彼の口から語られる十年は、私の想像を絶する、孤独で、壮絶な戦いの歴史だった。


 その話に夢中になっていた私は、自分の食事がほとんど進んでいないことに、気づかなかった。

 ふと、リアンが、私の皿に、自分の皿から、温野菜のソテーを、そっと取り分けた。

「え……?」

「それだけでは、栄養が偏る。これも、食べなさい」

 その仕草は、あまりにも自然で、そして、ひどく、優しかった。

 私は、頬が熱くなるのを感じながら、こくりと頷く。

 そして、私たちは、また、言葉を交わしながら、穏やかな朝食の時間を、続けた。

 それは、まるで、本当の恋人同士のような、甘やかで、そして、少しだけ、ぎこちない時間だった。


 食事を終えた頃、宰相が、一人の伝令兵を連れて、テラスに現れた。

「陛下、北の遠征部隊より、第一報です」

 その言葉に、リアンの顔が、王のそれに戻る。

 伝令兵が、リアンに巻物を手渡した。リアンは、それに目を通すと、その眉を僅かにひそめた。

「……どうしたの?」

 私が尋ねると、リアンは、私に巻物を見せてくれた。

 そこには、ドラゴンの牙連峰の、詳細な地図と、現地の気候や、蛮族の勢力分布などが、記されていた。

「〝生命石〟の探索が、難航しているらしい。山脈は、我々が想定していた以上に険しく、有毒な瘴気が立ち込めている場所も、少なくない、と」

「瘴気……」

「ああ。兵士たちが、原因不明の体調不良を訴えている、と。このままでは、探索どころではない」

 彼の言葉に、私は、巻物と、自分の記憶の中にある、薬草の知識を、頭の中で繋ぎ合わせていた。

 瘴気を中和する薬草。高地での疲労を回復させるための、滋養強壮の処方。

(……私なら、できるかもしれない)

「リアン」

 私は、顔を上げた。

「私に、手伝わせて。その瘴気を防ぐための、香薬を、私なら、作れるかもしれないわ」

 私の言葉に、リアンと、そして、隣にいた宰相も、驚いたように、目を見開いた。

「ルシエル、しかし……」

「私は、もう、守られているだけじゃない。あなたの、力になりたいの。あなたの、共犯者に」

 私は、まっすぐに、リアンの瞳を見つめ返した。

 私の瞳に宿る、揺るぎない決意を見て、リアンは、やがて、力強く、頷いた。

「……分かった。君を、信じよう」

 その瞬間、私たちの関係は、また一つ、新しいステージへと、進んだのだ。

 私は、もう、鳥籠の中の鳥ではない。

 王の隣に立ち、その叡智で、国を動かす、秘密の香薬師。

 その自覚が、私の心を、誇りで満たしていた。

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