第7話 蘭の帰郷

蘭の帰郷-1

 蘭は夢を見た。


 北条町に住んでいた頃の夢だ。


 住んでいたといっても街中ではなく、南の外れの山の中の猫の額ほどの平地に建てたあばら屋に祖父の刀吉と2人で住んでいた。父母は蘭が幼いときに失踪し、蘭は刀吉に育てられた。


 刀吉は70歳を超えても筋肉隆々の偉丈夫で、主に鹿やイノシシを狩って暮らす狩人だった。鹿は山を荒らし、平地に現れるイノシシは畑に害をなす。村人に感謝され、肉は食べられるし、毛皮はなめして売れるので、大変ではあるが暮らしに困っていなかった。


 蘭は刀吉と拳を合わせる。刀吉と同じだけの力を込めて、バランスを保つ修行だ。この修行に必要なのは腕力だけではない。刀吉が拳を通して伝える力は身体全体で受け止めないと吹き飛ぶので足腰の力のバランスも大切だった。


「力の出し方が0と100ではいかん。1つずつ上げて下げる精緻が必要だ」


 刀吉はいつもそう言う。要するに巨大な力を出せても、コントロールは精緻にできなければならないのだ。精緻なコントロールを見せるように、刀吉は最初は軽い力から出し、徐々に力を増し、最後に本気を出す。刀吉が本気を出すと蘭は『はず』すことが必要になる。『外』したあとも力任せにその力を揮ってはならない。そういう修行でもある。


 最後は刀吉も『外』しあと、その上更に、人の身でありながら文字通り虎の神である天虎を降ろして変化へんげして『虎身とらみ』となり、蘭を吹き飛ばして終わる。


 現実でも蘭の夢の中でも、大概同じ終わり方だった。


 森の茂みの奥まで吹き飛ばされ、蘭は下刈り作業がされていない自然の森から這い出しながら、刀吉に文句を言う。


「じいちゃんに虎になられたら、僕が『外』したってどうにもならないじゃん」


「たまには虎にならないと忘れるからな」


 そして刀吉は虎に変化した身からいつもの姿に戻るのだった。


 修行が終わった後は食事だ。鹿肉の塩漬けと季節の野草で汁物を作り、あとは芋、肉と交換して得た粟やひえを食べるときもある。刀吉はとにかく肉だ、といつも言っていた。


 鹿肉は美味しいが、いつも同じなので飽きる。今はないが、イノシシの肉は臭い。イノシシだって豚みたいなものだから、とんかつにしたら美味しいのかもしれない。お殿様にご馳走して貰ったとんかつは本当に美味しかった。サクサクして、噛みしめると肉汁が出て、そして噛んでも柔らかくて……。


 そこまで考えて、ここが夢の中だと蘭は気付いてしまう。


 せっかくじいちゃんに会えたのに。


 お椀で汁物をかき込むようにして食べる刀吉は笑顔だ。


 この後、刀吉は倒れ、半年以上寝たきりになった後、蘭に北条家を頼るように言い残してこの世を去る。


 蘭が夢だと分かってしまったからか、笑顔の刀吉の姿が消えていく。


 夢でも会えて、本当に良かった。


 そう思いながら、蘭は目を覚ます。


 自然と涙が流れていて、枕は濡れていた。




 蘭は初めての長距離列車の旅に心を躍らせた。


 美桜の夏休み初日、真夏の白い入道雲が目に眩しい朝だった。


 今回、里帰りするのはお殿様と大奥様、そして美桜と蘭の4人だ。国鉄の駅まで馬車で行き、使用人がホームまで荷物を担いでくれたが、その先の荷物持ちは蘭1人である。それぞれ荷物が入った手持ち鞄を持っていても、今回の滞在は長い。なので汽車の一等客室に持ち込む際、蘭は大きな旅行鞄4つを縛ってまとめて担いで運んだ。


「蘭、すごいのう」


 指定のボックス席に先に座ったお殿様が褒めてくれる。


「大したことはありません。をとるのが大変なだけです」


「さすが刀吉さんのお孫さんね」


 みつ大奥様は続いて席に座り、目を細める。祖父の怪力を重ね合わせているのだろう。『外』さなくてもこれくらいは持てる。網棚の上に旅行鞄を載せ、美桜と蘭が隣り合い、お殿様と大奥様と向かい合う形で座ると、ちょうど車掌が笛を吹き、汽車が動き出した。


「蘭はもしかして汽車の席に座るの初めてじゃない?」


 美桜がくすりと笑う。


「路面電車の席には座れたことがありますけどね」


 蘭は窓際の席に座り、車窓を楽しむ。八幡から下りの列車に乗るのも初めてだ。


「何時間くらいで着くんですか?」


「6時間くらいよ」


「早い! そんなに早いんだ!」


 蘭は驚く。なにしろ彼はこの春、北条町から野宿しながら3日以上かけて歩いて上京した。比較にならない速さだ。


「汽車、すごいなあ……」


 蘭はもう車窓の外に夢中だ。総武線沿線は、まだそれほど市街化は始まっていないが、高架がない時代なので、線路の周りにはだいたい建物が建ち並んでいる。もちろん街を通り越すとと田んぼや畑があり、たまに陸軍の基地が見える。そんな感じの車窓の風景である。


 すぐに海岸線に沿った線路になり、1時間ほどで千葉の蘇我駅に到着。しばらく停車する。蒸気機関に負担をかけないためだが、この間に給水や石炭の補給、乗員の交代が行われる。


 この時間を利用してホームに駅弁売りがやってくる。蘭は八幡の北条邸で朝ご飯を食べてきたが、もう駅弁を食べたくて仕方がない。口にはしないがそれを美桜に悟られ、美桜がお小遣いをくれる。


「やったあ。いいんですか」


「わたしたちはお茶だけでいいわよ」


 お殿様と大奥様も頷き、蘭は駅弁1つとお茶を4本、買い求める。列車が走り出す前に蘭は駅弁の蓋を開ける。


 ゴボウ、黒豆、かまぼこ、卯の花、粕漬け大根、カツオの煮付け、そして白米。これで15銭だったと当時の新聞記事にある。蘭が食べた駅弁もそんなに変わらないお弁当だっただろう。ライスカレー1杯分と考えるとライスカレーの方が安い気もする。お茶は陶器製の瓶で提供され、1本5銭だった。


 当時は、舗装されていない道を馬車や自動車で旅行するよりも、鉄道を使った方が遙かに快適で気楽でメジャーだった。実際、房総に鉄道が開通したことで明治の終わり頃から海水浴客が急増し、一等も二等も、客車は海水浴客と思しき旅行者でいっぱいだ。


 蘭は蘇我駅で駅弁を買い求めたが、美桜たちは姉崎駅で駅弁を買い、お昼ご飯にした。もっともこのときも蘭は駅弁を買って貰った。最近はとにかくお腹が減る。身体がエネルギーを貯め込もうとしているのだと蘭は考えていた。


 2度の小休止を経て、列車は終点の安房勝山に到着する。実はあと数日で20キロほど先の那古船形まで開通するのだが、お殿様はそれを待つことなく、里帰りを決めた。それは少しでも早く蘭の祖父の墓参りをしたかったのと、シベリア情勢を巡っての国会の紛糾具合を顧みて、そうしたのだと考えられた。


 なお、明治維新からこの大正の世まで延々と、房総安房と対岸の三浦半島は帝都防衛のために軍事拠点化が進んでいる。鉄道の延伸は軍事拠点としての安房への物資輸送が必須だった面が多大に見受けられる。そしてこの軍事拠点化・要塞化は第二次世界大戦の敗戦まで続くのである。


 安房勝山から先は馬車である。蘭が4つの旅行鞄を担ぎ、駅前に待機している馬車をつかまえ、北条家はキャビンの中に、蘭は御者台に収まる。蘭は列車の中ではしゃぎすぎて、万が一の襲撃に備えていなかったことに気付き、反省しきりだ。接近戦のスペシャリストである大奥様がいるとはいえ、油断しすぎだった。

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