蘭、女学校への美桜の送り迎えを始める-3

 ここでカフェで待っている蘭の方に戻る。時間もちょっと巻き戻る。


 ようやく11時が過ぎ、蘭は通りかかった女給さんに、ご飯のメニューを見せてくださいと頼んだ。


 女給さんはメニューの中のオススメの日替わりランチを指さし、今日はサバ味噌定食だと教えてくれた。当時はカフェとはいっても洋食を出せるところばかりではなかった。数が出にくい洋食を作るのはまだハードルが高かったのである。


 提供されたサバ味噌定食はとても美味しく、自分は贅沢をしているなあと蘭は思う。値段は15銭。駅弁と同じ値段ならしかたがないし、長い時間、席を独占しているのでそれくらいは払わないといけないのかもと考える。


 サバ味噌定食を食べた後はまたコーヒーを頼み、教科書を読んだが、眠くなってきたし、飽きても来た。外で待っていたいと思う。外だったらいろんなことができるのに。


 蘭は目を閉じて、頭の中だけでいろいろな動作を繰り返す。対するのはじいちゃんだ。頭の中の仮想じいちゃんと蘭は戦う。なんどやっても結局組み敷かれるか、顔面寸止めか、吹き飛ばされるかで終わる。いつか仮想じいちゃんに勝ちたいと思うが、そのためには鍛錬しかない。しかしカフェの中でどうやって鍛錬したものか……。


 そう考えて壁の時計を見るともう3時になっていた。


 ドタバタと階段を上ってくる音がした後、チャリチャリーンと入り口のドアのベルが鳴り、美桜が現れた。彼女はゼイゼイと肩で息をしていた。


「美桜お嬢様。どうされたんですか」


 蘭は席から離れ、まだ息が整わない美桜の元に歩いて行き、彼女からカバンを受け取る。


「……なんでもない。なんでもないったらなんでもない」


 美桜はまだゼイゼイ言いながら答え、蘭の両肩に手を乗せる。


「どうされたんですか?」


「ううん、蘭がいてくれてよかったなって」


 美桜は額の汗を光らせながら微笑んだ。


「僕、ここにいますよ。変な美桜お嬢様」


 蘭も釣られて微笑む。


「そうね。わたし変よね」


 蘭には美桜が何を言っているのかさっぱり分からないが、美桜お嬢様が笑っているのならいいか、と疑問を置いておくことにする。そして懐から手ぬぐいを取り出して美桜の額の汗を拭う。手を伸ばせば蘭でも届く身長差だ。美桜は真っ赤になって一歩引き、蘭はわけがわからずきょとんとする。


「どうされました?」


「やっぱり、なんでもないったらなんでもない!」


 美桜は俯いて蘭に顔を見せようとはしなかった。


 蘭はお会計を済ませ、25銭の釣りを貰う。10銭銅貨2枚、5銭銅貨1枚である。半分になったとはいえ、蘭にはやはりまだ大きなお金である。


 美桜も平常心を取り戻し、気を取り直したように蘭の前に立ち、聞いた。


「どうだった初めてのカフェは?」


「コーヒーが美味しかったです」


「まあ、大人ね」


 そして店の出入り口のドアを開け、外に出る。カフェは校門から出たばかりの場所にあるので、大勢の帰りの女学生たちと出くわす。ここ以外の近辺のカフェにいた付き添いが校門の周辺で待っており、女学生と合流する姿も見える。


 蘭は終業後の女学校はこんな感じなのか、とその様子を見ていたが、すぐに自分が多くの視線を受けていることに気付いた。


「さあ、お姉さんと一緒に帰りましょう」


 美桜は上機嫌だ。蘭は美桜に手を引かれ、路面電車の停留場に歩いて行く。しかし歩いて行った先でも自分に周りの視線が集まったままだ。


「な、何が起きているんです?」


「超級美少女の登場にみんな目を見張っているのよ」


「えええ~~っ。僕、男の子なのにー!」


 しかしおかっぱ頭で女物の着物にエプロン姿である。普通に女給メイドさんにしか見えないことは自分でも分かる。だがしかし。男としてのプライドが連日危機に見舞われる蘭であった。


 路面電車に乗り、私鉄に乗って八幡まで。今度は八幡駅の前でお腹が鳴った。


「しょうがない子ねえ」


 美桜は言葉と裏腹に嬉しそうだ。


「もうすぐ帰宅ですから我慢します」


「今日は何がいいかしら」


 蘭の言うことなど聞いていない。やっぱり美桜は嬉しそうだ。買い食いの大義名分になると思っているのだろうか。それともからかいがいがある子だと思っているのだろうか。


 和菓子屋さんでお団子を2本買って、2人は歩きながら食べる。


「ふふ、はしたないかしら」


 美桜が食べているのはこしあん、蘭が食べているのはみたらしだ。


「東京の団子は美味しい気がします」


「みたらし美味しい?」


「はい」


「じゃあ、交換しましょ」


 美桜が2個まで食べたところで、蘭はもう3個食べてしまっている。


「でも……」


「蘭の方がわたしより胃袋が大きいから、夕ご飯に影響しないでしょう?」


 美桜が笑いながらいうものだから、蘭は美桜とお団子を交換する。みたらしも美味しかったが、美桜と交換したこしあんの団子は本当に美味しいと思った。そして桜色の美桜の唇が触れた団子を自分が食べているかと思うと、蘭は自分の頬が熱くなるのが分かった。


 帰宅し、夕ご飯を一緒に食べ、蘭が美桜の風呂釜の番につき、そして自分も最後に入浴して、お風呂を洗って、部屋に戻ってくる。


 隣の部屋の美桜の部屋にはまだ明かりが点いていた。お風呂の後、すぐに寝られるように先に布団を敷いて置いたので、もう寝ているとばかり思っていた。


 そっと襖を開けると美桜は文机について、勉強をしているようだった。邪魔しない方がいいと思い、閉めようとしたところで美桜に気付かれた。


「お仕事終わった?」


「はい。お勉強ですか?」


「そうね。復習になるかしら」


「あまり遅くならない方がいいと思いますよ」


「そうするわ」


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 そして蘭は襖を閉めた。少し教科書を開けて、書き取りなどして、電気を消す。襖の隙間から電気の明かりが漏れている。まだ美桜は勉強をしているようだ。


 柱時計が11回鳴った。もういい時間だ。


 明日、しっかり美桜様を起こさないと。


 そう考えながら、蘭は眠りに就いた。




 朝になると、蘭が起こすことなく美桜は自分で起き出してきた。そして一緒に朝ご飯を食べ、登校の準備を終えると朝日が眩しい中、黒松が茂る通りを並んで歩いて私鉄の駅に向かう。


 まだ2日目だというのに、蘭は昔から美桜と一緒にこの道を歩いていた気がする。


 それほど同じ時間を過ごしているわけでもないのに、ものすごく美桜と仲良くなっている気がする。


 それらはとても不思議な感覚だ。


 美桜の横顔を見ているとほんわかしてくる。


 美桜は『お姉さんと呼んで』と言っていたが、確かにそんな気もする。姉がいたらきっとこんな感じだったに違いない。しかし蘭は、やはりそうは呼びたくない。


「? 髪型おかしい?」


 蘭の視線に気付いたらしく、美桜が聞いてきた。


「いいえ。考え事をしていました」


 しかし直前に考えていたことは美桜に言いたくないので、蘭は別のことを言葉にする。 


「……昨日の夜、どんな勉強をされていたのかなと」


「ふふ。カフェまで内緒にしておこうと思ったけど……」


 美桜は嬉しそうだ。蘭は疑問符を頭の上に浮かべる。


「蘭が効率よく小学校の授業に追いつけるようにノートを作ったの。問題集も作ったから、カフェで解いてね」


「僕のために夜更かししていたんですか?!」


「ええ。いけない?」


「いえ……嬉しい、です」


 勉強があまり好きではないので複雑だ。しかし夜遅くまで自分のために美桜がノートというものを作ってくれたのは嬉しい。


「よかった」


 美桜は蘭より少し前を行き、振り返り、微笑む。


 蘭は美桜のその微笑みを目の当たりにして、どうにもこうにも、自分が制御できなくなっていることに気付く。


 頭の中で何かが弾けて、ぱあっと全身に広がっていく。


 その広がった何かが蘭の身体をしびれさせ、震わせ、甘い何かに包まれたような感覚を覚える。


 何が自分の中で起きているのか、さっぱりわからない。


「蘭?」


 蘭は自分の足が止まっていることにすら気付いていなかった。


「あ、え、はい、すぐ行きます!」


 蘭は美桜に追いつこうと小走りで走り出す。


「今日も遅刻するわけにはいかないのよ」


 美桜は笑って蘭を待っている。


 蘭はまた嬉しくなる。


 だけどもう嬉しいだけではない。


 その気持ちの名前に気付くまで、幼い蘭にはもう少し時間が必要なのであった。

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