蘭、女学校への美桜の送り迎えを始める-2
路面電車に十数分乗って女学校の前に到着する。当時、帝都には数十校もの女学校があり、男子が通う中学校の倍以上設置されていた。専攻によって教える内容がそれぞれ異なり、家事を主に教える学校が一番多く、次に商業、普通教育と続いた。
路面電車を降りると校門の前に文房具屋があり、2階はカフェになっていた。美桜はカフェに上る階段の前で蘭にお小遣いをあげる。
「このお店で待っていてね。お金はあげるから、ここでお昼ご飯も食べて」
「僕は何をすればいいんですか?」
「教科書を持って来たから、とりあえずは通して読むことかな。わからないところまできたら、そのページを折っておいて」
「は、はい……」
そして美桜から50銭銀貨を1枚渡された。駅弁1個が15銭の時代である。こんな大きなお金を持ったことがない蘭は、盗まれたら大変とばかりに懐の奥の方にしまいこむ。
壁に掛かっている時計を見ると8時をとっくにすぎている。それに気付いた美桜は慌てた顔をした。
「もう始業時間だから行くね! いい子にして待っているのよ!」
「はい!」
美桜は蘭の元気な返答を聞いて笑顔で去って行った。
恐る恐る2階に上がり、蘭がドアを開けるとドアベルが鳴った。
すぐに女給さんが来て、お好きな席をどうぞと蘭に言った。しかし蘭が戸惑っていたのが分かったからだろうか。蘭が事情を説明しなくても、すぐに笑顔で窓際の席を案内してくれた。
窓際の席からは洋風の建物である女学校がよく見える。店内を見回すと、スーツ姿の人もいれば、蘭のような着物にエプロンの人もいる。どうやら女学校の付き添いの人が待つ場所として活用されているらしい。
カフェに来て、席に座っているからには何かを注文しないとならないことくらいは蘭にもわかる。しかしどうすれば注文できるのかわからない。
幸い、先ほど対応してくれた女給さんが来てくれ、メニューを見せてくれた。メニューにはコーヒー、紅茶、ココア、ソーダといろいろな飲み物があった。しかし今度はどれを頼んでいいのかがわからない。
「そうねえ。まずはコーヒーから挑戦してはどうかな?」
女給さんがメニューにあるコーヒーを指さした。1杯5銭。とても高い。サンマが2匹買える値段だ。しかし居場所代だと割り切ってコーヒーを頼む。
コーヒーが来るまでの間に小学校の教科書を広げる。蘭が使っていた教科書とは違うが、項目だけはなんとなくわかる。小学校に通っている間の記憶を呼び覚ましながらパラパラと読むが、学習すべき内容がもともと頭に入っていないことがわかった。
そもそもがじいちゃんがつけてくれる修行が過酷すぎたのだ。小学校にもあまり行けなくなった最初の理由がそれだ。そしてじいちゃんが倒れてからは看病のために、そして日銭を稼がなければならなくなったために行けなくなった。
そんなここ1年間だったので、こうして勉強を再開することに意味があるのかどうか、蘭にはまだ分からない。だが、美桜に言われたからには勉強するのが仕事だとも思う。
コーヒーはすぐに来て、女給さんが飲み方を教えてくれた。
「苦かったら砂糖とミルクを入れるのよ。そこに置いてあるから」
テーブルの脇に小さな容器が並んでいた。
蘭はお礼を言って頷いた。
コーヒーカップの中には黒い液体が入っている。とてもいい匂いがする。カップにそっと口を付ける。匂いはいいのに女給さんがいうとおり、苦い。このまま飲もうか悩んだが、せっかくなので砂糖とミルクを入れる。するととても美味しくなった。甘さとクリーミーさが加わるとコーヒーはとても美味しい飲み物だと蘭は認識した。一通りメニューは試してみるつもりだが、飲み物はコーヒーに落ち着くのではと予感した。
ここで女学校に向かった美桜の方を見ることにしよう。
彼女の家族が心配しているとおり、女学校での美桜はクラスで浮いた存在である。学科も体操(当時の体育)も成績優秀だが、コミュニケーション能力に難があった。家族や家人とは普通に話をしているが、教室ではからっきしだ。
まず担任の教諭が朝礼にやってくる。
普段は余裕をもって教室に入る美桜であるが、今日は教諭と一緒に入った。ギリギリセーフであった。
あら珍しい、と担任教諭に言われても愛想笑いすることすらできず、美桜はただ小さく頭を下げるだけだ。やはり級友たちも珍しいものを見たという顔をするが、美桜に話しかける子はいない。級友たちの間で美桜は『雪女』とあだ名されている。表情を変えることがほとんどなく、また、細く鋭い目をしているのがその由来だ。また、趣味がエアライフルというのも何故か知れ渡っており、それだけでももう女学校で仲間はずれになるのに充分な理由だった。
女学校は当時の上流階級の子女にとって数少ない息抜きの場所で、自由を満喫できる空間だった。美桜のように本気で勉強に取り組み、男勝りで流行のエアライフルなどを嗜む女子は異端そのものだった。
もちろん美桜はそのことを重々承知している。共感はできないが、彼女たちには彼女たちの理屈があり、彼女たちなりの自由があることはわかる。だからそれを邪魔したくないし、自分も邪魔されたくない。なので美桜は今日も級友とは壁を作り、女学校ではひたすら勉学に打ち込む。
しかしもし普段から美桜を見ている級友がいたのであれば、今朝の美桜がちょっと違うことに気付いたはずだ。教科と教科の間の休み時間に算数の問題をニヤニヤしながら作っていたのだ。しかし級友は自分たちの友人とのおしゃべりに夢中で、教室では極めて珍しい美桜の笑顔に気付かない。お昼休みになっても美桜はどこにも移動せずに1人でお弁当を食べ、蘭のためのノート作りに精を出した。
午後一の授業は体操で、今日は50メートルハードル走だった。美桜の順番が来たが、美桜の頭の中はカフェで待っているであろう蘭のことでいっぱいだ。
今頃、何をしているだろう。教科書だけでは飽きてしまっているに違いない。お行儀良く待ってくれているだろうか。
そう考えると美桜はまた自然とにやけ、頭の中で気持ちを言葉にする。
蘭ほどの美少年が自分を待っていてくれるなんて、わたしは幸せだ。昨日、浅草で蘭を拾ったことは自分にとってはすごい幸運だった。蘭も同じように思ってくれているといいのだけど。
美桜は全力で蘭をフォローする決意があった。
美桜の番が来てしまった。心ここにあらずのまま50メートルハードル走にチャレンジし、見事に全てのハードルをなぎ倒した。しかしそれでもタイムはクラスで1番だったので、級友が引くのも無理がない運動能力だ。
美桜の祖母はかつて女ながらも祖父を補佐して幕末を戦った。今も美桜に古武術を教えてくれている。その祖母の運動神経が遺伝しているに違いないと美桜自身は考えている。
体操が終わって、最後に修身の授業を受け、ようやく下校時間になる。
蘭はカフェでちゃんと待っていてくれているだろうか。退屈して外に遊びに出かけたりなんてしていないかしら。いや、そもそも蘭ほどの美少年が自分のお供になってくれるなんてことがわたしの妄想だったりしないのだろうか……そんなネガティブな想像をいろいろしてしまう。
それ故に美桜は終業の鐘とともに教室を飛び出し、一目散にカフェに向かって走り出したのだった。
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