第42節:写本師の仕事

 その日からカインの新しい日常が始まった。エララは彼に里で最も静かで光がほとんど差し込まない、洞窟をくり抜いて作られた一室を与えてくれた。そこが彼の研究室であり、同時に彼が自らの忌まわしい過去と呪われた魂に初めて正面から向き合うための聖域となった。洞窟の空気はひんやりと肌を撫で、発光する苔の青白い光だけが壁に並べられたいくつかの古い書物をぼんやりと照らしている。


 彼はその洞窟の中央に置かれた質素な木の机の上に、あの一枚だけの羊皮紙の断章を広げた。


 それは彼がこれまで扱ってきたどの文献とも異なっていた。紙は動物の皮にしてはあまりに滑らかでそして強靭であり、インクは黒ではなく光の角度によって錆びた銅のような鈍い赤黒い光を放つ。そこに記されているのは見たこともない古代の言語で、その文字の一つ一つが鳥の足跡のようでもあり、あるいは狂った天文学者が描いた未知の天体の運行図のようでもあった。


 カインはその写本師としての全ての知識と技術を総動員してこの人知を超えたパズルの解読に挑んだ。彼はまず工房から持ち出してきた自らの商売道具を机の上に並べる。


 繊細な木炭のスティックや目盛りの刻まれた真鍮のカリパス、そして様々な種類のペン先。それらは彼がこれまで信じてきた人間の「知恵」と「論理」の象徴だった。

 彼は丸一日を費やして木炭でその文字の丁寧な写しを取り、次に精巧な測定具で文字の大きさや傾き、そして法則性のない間隔をミリ単位で計測しては自らの羊皮紙に記録していく。その姿はもはやただの写本師ではない、失われた叡智を蘇らせようとする古代の学者そのものだった。


 だが数日が過ぎても解読は一向に進まなかった。文字の規則性や文法の法則が全く見えてこないのだ。彼は自分がこれまで培ってきた全ての知識がこの一枚の断章の前では全く無力であることを痛感させられた。それはまるで壁に向かって話しかけているかのような虚しい作業だった。


 行き詰まったカインは疲れ果てて椅子に深く身を沈めた。その時彼の脳裏にエララの静かな声が蘇る。


「その器で感じてみるのじゃ。文字を読むのではない、その文字に込められた魂の声を聞くのじゃ」と。


 器で感じる、それは即ち彼が最も恐れそして忌み嫌ってきたあの虚無の力を使えということだった。この得体の知れない古代の遺物に自らの魂を直接接続しろと彼女は言っているのだ。それは下手をすればこの断章に込められた未知の力に自らの精神が乗っ取られかねないあまりに危険な行為だった。だがもう彼にはこの方法しか残されてはいなかった。


 彼は意を決してその古代の羊皮紙の上に自らの震える指先をそっと置いた。そして目を閉じ意識を集中させると、彼の内に眠る虚無の力が魂を媒介としてその文字に込められた書き手の「想い」や「感覚」を探り始める。


 指先が羊皮紙に触れた瞬間、彼の魂が確かに感じ取ったのは言葉ではないイメージの奔流だった。


 果てしなく広がる暗黒の宇宙とその中心で眠る巨大な何か。そしてその眠りから全てを喰らい尽くす混沌の闇と全てを停止させる静寂の光という、二つの相反する悪夢が生まれる様を彼は垣間見たのだ。


 そのあまりに壮大で人智を超えた宇宙的なビジョンは、カインのちっぽけな人間の精神に許容量を超えた情報を流し込んだ。


 彼の頭が割れるように痛み鼻からどろりとした血が流れる。彼は悲鳴を上げて羊皮紙から手を引き剥がすと、洞窟の冷たい床に倒れ込み激しい吐き気に襲われた。


 だが彼のその苦痛に満ちた表情の奥には、確かに一つの確信の光が宿っていた。


 この断章こそが世界の根幹に関わる途方もない秘密を秘めている鍵であり、自らの呪われた力こそがその鍵穴に差し込める唯一の鍵であることを。

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