第40節:石腕の守護者

 助かったのだという安堵はしかし、溶けかけた氷のようにすぐその形を失い、肌を刺すような冷たい緊張へと取って代わられた。


 入り江を囲む鬱蒼とした亜熱帯のジャングルの深い緑の闇の中からカサリと木の葉が擦れる音がしたかと思うと、次の瞬間には無数の鋭利な黒曜石の槍の穂先が音もなく静かに、しかし確実に二人へと向けられていた。彼らは最初から見られていたのだ。


 闇の中からその闇自体が人の形を取ったかのように十数人の人影が姿を現す。日に焼けたしなやかな肉体にはこの島の植物から抽出したであろう染料で描かれた複雑な文様の刺青が施されていた。その動きは無駄がなく統率が取れており、彼らがただの島民ではなくこの聖域を守るために長年訓練を積んできた熟練の戦士たちであることを示していた。


 その戦士たちの輪の中から一人の青年がゆっくりと前に進み出た。歳はカインたちとそう変わらないように見えるが、その野性の獣のように引き締まった身体からは他の者たちとは比較にならないほどの強い闘争心と、この島を守る者としての揺るぎない自負心が発せられている。そして何よりも異様なのは彼の右腕だった。その腕は肩から指先に至るまでまるで黒い花崗岩でできているかのようにごつごつとし、人間離れした太さを持っていた。月光を鈍く反射するその石の腕が彼の異能の本質を雄弁に物語っていた。


「何者だ、おまえたち」


 青年が大地を揺るがすかのような低い声で言った。その言葉にはこの島の古い訛りが混じっている。


「守り神の霧がただの遭難者をここへは導かぬ。霧がおまえたちを選んだ理由を聞かせてもらおうか」


 アグネスは咄嗟にまだ体力が回復しきっていないカインを自らの背後に庇いながら一歩前に出た。彼女はもはや審問官ではないが、その身に染み付いた数々の修羅場を潜り抜けてきた戦士としての気迫はいまだ健在だった。


「私たちはただの遭難者だ。嵐で船が壊れ何日も海を彷徨っていた。どうか信じてほしい。この島とあなた方に危害を加えるつもりは決してない」


 彼女はできる限り穏やかにそして誠実にそう告げた。だが青年ジンはその石の腕を持ち上げ拳を固めた。


「遭難者だと?その女の魂からはあの忌まわしき鉄の十字架に仕える者の硬い匂いがする。そしてその後ろの男……」


 ジンの鋭い視線がアグネスの背後にいるカインを射抜く。


「その男からは生命そのものを嘲笑うかのような、冷たい虚無の悪臭がするぞ」


 アグネスは息を呑んだ。この青年はただの蛮勇だけの戦士ではない、彼もまた他者の魂の本質を感じ取る鋭敏な感覚を持っているのだ。青年ジンの瞳に明確な敵意の光が宿った。


「この島はおまえたちのような穢れた外の人間が土足で踏み入れていい場所ではない。ここで死ね」


 ジンがそう言い放つと同時に彼は大地を蹴った。凄まじい速度だった。アグネスが反応するよりも速く、彼はその石の拳を彼女へと叩きつけようとする。アグネスはその圧倒的なパワーを正面から受け止めず、その卓越した体術で紙一重その攻撃を回避した。だがジンの拳が掠めた背後の巨大な岩は、まるで内部から爆発でも起こしたかのように粉々に砕け散る。その恐るべき破壊力にアグネスは戦慄した。


「ほう、避けるか。その動き、やはり教団の狗だな!」


 ジンはさらに攻撃の速度を上げる。彼の石の拳が嵐のようにアグネスに襲いかかった。アグネスは傷ついた身体でその猛攻を必死に捌き続ける。もはや聖なる力を持たない彼女は、ただの人間としての技量だけでこの怪物と渡り合わなければならなかった。だがその攻防も長くは続かなかった。ジンはアグネスの卓越した技量を認めるとその狙いを変え、彼女を無視してその背後でただ立ち尽くすことしかできないカインへとその殺意を向けたのだ。


「まずはその穢れの根源からだ!」


 ジンの石の拳がカインの無防備な身体へと迫る。アグネスは咄嗟にカインを庇おうとするがもう間に合わない。その瞬間だった。


「――やめろ!」


 カインが叫び、彼の足元の影が一瞬だけ黒い盾となって彼の前に立ち塞がった。ジンの石の拳はその影の盾に激突して凄まじい衝撃音と共に防がれた。だがカインもまたその無理な力の行使によりその場に膝から崩れ落ち激しく咳き込む。その明らかに人ならざる生命の理に反する力の顕現を目の当たりにして、ジンとそして他の戦士たちの警戒が頂点に達した。


「……やはり化け物か」


 ジンが低い声で吐き捨て再びその石の拳を振り上げる。彼の中ではすでに目の前の二人は排除すべき災厄として確定されていた。もう問答は無用、ただここで完全に息の根を止める。彼のその瞳がそう語っていた。カインもアグネスももはや抵抗する力は残っていない。絶対的な窮地。二人の命運が尽きようとしたその時、凛とした、しかしどこか温かい老婆の声がその張り詰めた空気を震わせた。


「――そこまでですよ、ジン」


 その声にジンと戦士たちが一斉に振り返り、その場に膝をつき頭を垂れた。ジャングルの闇の中から一人の老婆がその杖をつきながらゆっくりと姿を現した。


 彼女こそこの島の長エララだった。彼女のその閉ざされた瞳が、確かにカインとアグネスの二人、そして彼らの魂の奥底を捉えているのが分かった。

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