第12話 メアリー・ヘイデン
メアリー・ヘイデンはヘイデン侯爵家の末娘として生まれ、オータム王国第一王子の婚約者となった。
母は隣国ロッシュ王国の王女だったが、現ヘイデン侯爵の後妻として嫁いだ。格上のオータム王国からすれば釣り合う縁談だったはずだが、母はそれに不満を抱いていた。父はロッシュ王国との貿易拡大のため、その提案を受け入れ、母と政略結婚した。最初から父には、母への関心が微塵もなかったのだ。
その影響か、両親の仲は冷え切っていた。父と義兄は社交シーズンのみ王都へ戻るが、ほとんどの時間を領地で過ごしている。母に至っては、子育てを乳母と侍女に丸投げし、別邸で自由に暮らしていた。
八歳で、当時九歳の第一王子アーノルド殿下の婚約者候補に選ばれ、十二歳で正式な婚約者となった。父は「これでロッシュ王国との関係がより固く結べる」と喜び、母はまるでオータム王族の一員になったかのように振る舞った。そんな中、義兄は相変わらず私に無関心だった。
第一王子の婚約者という立場になっても、誰も私に目を向けようとはしなかった。これが貴族というものだと、乳母のヘレンは教えてくれた。
「お嬢様は、お一人ではございません。今のお嬢様には、第一王子のアーノルド殿下がいらっしゃいます」
そうだ、私はもう孤独な子供ではない。私には第一王子アーノルド殿下という婚約者がいるのだ。
国王陛下と瓜二つのダークブロンドヘアに漆黒の瞳、そして非の打ち所がない端正な顔立ち。アーノルド殿下には、常に女性たちからの熱い視線が集中した。そんな殿下の隣に当然のように立つ私に、人々が羨望の眼差しを向けるたび、私の自尊心は満たされていった。
しかし、その優越感が、他人の目にはいかに滑稽に映るか、私は気づいてしまったのだ。
アーノルド殿下は、どんな女性に対しても、常に適切な距離感を保ち、平等かつ礼儀正しく接した。
婚約者の自分にも、だ。
この状況に気づいたのは、私だけではなかっただろう。私という婚約者がいるにもかかわらず、自分の娘を積極的に殿下の前に出す者が増えていった。
それでも、私はれっきとした正式な婚約者だ。殿下は、贈り物や挨拶の手紙、ドレスの用意など、婚約者としての義務を寸分違わず果たしていらした。
だが、殿下にお目にかかれるのは、月に一度のお茶会と王家主催のパーティーのみ。それ以外の個人的なお茶会やパーティーにお誘いしても、殿下にやんわりと断られた。
最低限の交流しかできない、自分はただの婚約者だ。それ以上でもそれ以下でもない。
私が婚約者に選ばれた理由はただ一つ、北大陸に位置するルーゼリア帝国を牽制するためだった。中央大陸を二分するオータム王国とロッシュ王国が、この婚約を通じて友好関係をアピールし、戦争を抑え込もうとしているのだ。
政略で決められた婚約だとわかってはいたが、それでも私はそれなりに仲良くなろうと努力した。この婚約を、そしてアーノルド殿下を決して諦めたくはなかったのだ。
この悩みは誰にも相談できなかった。
「お嬢様、諦めないでください。お嬢様は殿下の婚約者、もし王家の都合で一方的に変えられたら、貴族たちも反発するでしょう」
ヘレンの一言でハッとした。
何の落ち度もない私を、婚約者の座から引きずり下ろすことなどできないはずだ。何より、利益を最優先する父が、それを許すはずがない。
アーノルド殿下の婚約者は私だ。誰にも譲らない!
その日から、私は一層妃教育を積極的に受け、学園の成績を上位にキープできるよう、あらゆる工夫を凝らした。
(上位にいらっしゃる平民の方々は、一体どのようなお考えでいらっしゃるのかしら?もっとご自身の立場をお弁えいただきたいものだわ)
自分の成績を上げられない時はライバルの成績を下げればいい。成績優秀の平民は所詮平民だ。周りに護衛がいないからいつ不慮な事故に遭ってもおかしくない。
しかし、三年生に進級してすぐに予期せぬ大きな壁にぶち当たった。
現在受けられる妃教育は全て修了していた。ところが、この先の妃教育は、冒険者ランクを上げなければ受講できないと告げられたのだ。
この実力主義のオータム王国では、貴族はランクC、王族に至ってはランクB以上に上げる義務がある。それが叶わぬ者は、最終的に居場所を失い、その地位と家名を捨て去ることになる。
人目を避け、護衛に守られながら討伐依頼をこなし、どうにかランクDまで昇格した。しかし、Dランクの依頼は想像以上に難易度が高く、護衛の犠牲が出るほどだった。
護衛の犠牲は許容範囲だと、私は自分に言い聞かせた。あくまで事故として報告したが、これ以上死傷者が増えれば、王家にこの事実が露見する恐れがある。
納品依頼は、指定された品物を持ち込めば完了する。闇市場で買い揃えれば簡単に達成できる類の依頼だ。しかし、討伐依頼はそうはいかない。魔道具が討伐数を自動でカウントし、直接依頼書に書き込む仕組みになっている。
ソロ討伐の場合、魔道具が他人の魔力を検知すると、その討伐はノーカウントになる。護衛にできるのは盾になることだけで、依頼達成の直接的な手助けは一切できないのだ。
同ランクの者とパーティーを組めば、魔力検知に引っかかることもないし、もっと楽に討伐数を稼げるはずだ。
魔力の少ない私には、最初からパーティーを組むという選択肢など存在しなかった。私の魔力が平均値のわずか五分の一しかないという致命的な事実が露見すること。それが何よりも恐ろしかったからだ。
(この実力主義の国の王家が、私の魔力の少なさを知れば、婚約解消の口実にされかねない)
悩んだ末、ヘレンに頼み、平民の護衛を雇った。身分が露呈しないよう変装して討伐に赴いたが、道半ばで平民護衛が全滅してしまい、泣く泣く討伐を断念した。
為す術もなく焦燥に駆られていると、そこへ王妃からの使者が王室依頼書を持ってきた。
その依頼書には、「女神の森に二人の異界賢者が現れた。メアリーと年齢が近いこともあり、明日から一週間限定で家庭教師として赴任してほしい」と記されていた。
王家からの依頼は高いポイントが得られる一方で、失敗すればランクが一つ下がるという厳しい条件がついていた。
私はすぐに依頼書を受け取ったが、胸騒ぎがしてどうにも落ち着かなかった。
最後に異界賢者が現れたのは、今から約百年前、大寒波が女神の大地を襲った時だった。長い寒波の後に冷夏が続き、さらに翌冬には再び大寒波に見舞われ、食糧不足と厳しい寒さで人口は半減した。その絶望の中、異界賢者が現れたのだ。
異界賢者は大寒波を止めることはできなかったものの、それを乗り越える術を教えてくれた。そのおかげで、女神の大地は数年後には無事復興を遂げたのだ。このオータム王国も、その時救われた国の一つに数えられている。
今回の異界賢者が何のために現れたのかは不明瞭だが、今の私にできることはただ一つ、オータム王国第一王子の婚約者として、彼女たちに失礼のないように接することだ。
そう思いながらも心がざわめく。
二人の異界賢者のことをどこかで耳にした母が、わざわざ別邸から本邸にやって来た。
「母上…」
「私の可愛いメアリー、女神の森に可愛いお嬢さんが二人現れたらしいね。ただの侵入者に過ぎないのに、この国の人間は異界賢者だと大騒ぎだ。ふふふ、こんな平和な世の中に異界賢者なんて、本当に現れるのかしら?
でもね、メアリー、この国の人々は異常なほど女神を崇拝しているのよ。特に王室はね」
「母上、不敬ですよ」
母は鼻で笑った。
「貴族と平民の支持があれば、次期王妃の座をその『異界賢者』に首をすげ替えることだって簡単にできるよ?」
「っ!!」
母の言葉が、私の胸を強く締めつけた。ああ、ようやく胸騒ぎの理由が理解できた。
私とアーノルド殿下との婚約は、あくまで政略的なものだ。もし本当に女性の異界賢者が現れたら、国にもたらす利益と諸外国への牽制力を考えれば、私に勝ち目などない。
異界賢者である初代王妃を持つオータム王国にとって、新たな異界賢者が王族と縁を結ぶことは、まさに願ったり叶ったりだろう。
「メアリー、王家の策に騙されないように気をつけなさい」
母はそう言い残して別邸に戻った。
アーノルド殿下が見知らぬ女性と婚約する姿を想像するだけで、恐怖で手の震えが止まらなかった。
異界賢者ではない可能性はあるのか?王家の策なのか?王家の依頼書は…私を嵌めるための罠なのか?
母の言葉がじりじりと心を蝕む。
翌朝、揺れる馬車の中で、私は小さくため息を漏らした。一晩中考えたが、結局答えは見つからない。異界賢者であると証明できる明確な証拠があれば、こんなにも悩まずに済むのに。
女神の森の前でギルド会長代理のフェネルと合流し、森の中の小さなコテージに入った。
「メアリー・ヘイデン侯爵令嬢、ここで少しお待ちください」
(第一王子の婚約者たるわたくしが、応接室の前で待機を命じられるなど、あまりにも無礼でございませんこと?)
フェネルの対応に不満を覚えながらも、ここで拒否するわけにはいかなかった。
コテージの中に「異界賢者」がいるからだ。
メイドの合図に、私はすっと背筋を伸ばし、部屋へと足を踏み入れた。
「お初にお目にかかります。メアリー・ヘイデンと申します」
両手でスカートの裾を軽く持ち上げてカーテシーする。
「…ナギサ・アイザワです」
素朴な水色のワンピースをまとった女性が、感情の読めない表情で自分の名前を口にした。心なしか、その目線は冷たく感じられた。
ふーん、どこにでもいる平民にしか見えない。もう一人は?
ナギサ・アイザワの後ろからもう一人の顔がひょっこり現れた。
「ミワ・イチノミヤです」
その顔を見て心が凍りついた。
透き通る夜空のようなブルーブラックヘアに漆黒の瞳、ふっくらした唇が左右に薄く伸びて口角を上げている。その大きな目の中に強張った自分の顔が映る。
昨日想像していたアーノルド殿下と婚約する見知らぬ女性の顔が、今はっきりとミワ・イチノミヤの顔に変わったのだ。
(許せませんっ!)
次の瞬間、まるで背後から強大な力に引きずり込まれるかのように、手足が宙に放り出された。体は宙を舞い、恐怖に包まれながらも、遠ざかるミワ・イチノミヤの瞳が大きく見開かれ、驚愕に染まっていくのが見えた。
ドォーーン。
その音と共に、全身が押し潰されるような激痛に襲われ、息すらできずに意識が暗転した。
* * * * *
暗く、深い穴の底に落ちたかのようだった。藻掻こうにも手足は動かせず、瞼を持ち上げる力すら残っていない。ただ、歪んだ人の声が微かに耳に届く。
「まだ……」
「お嬢様は……」
僅かに聞き取れたその断片的な言葉を頼りに、私の意識は少しずつ浮上していく。
(体が重い、だるい…)
体の不調を感じながら、どうにかして重い瞼を持ち上げた。すると、ベッドの横に人影が立っているのが目に入った。
「…ぁ、アーノルド、殿下…」
「メアリー・ヘイデン侯爵令嬢、目が覚めたようだね。体が重いかもしれないが、今は我慢してくれ」
いつもと違う殿下の口調に驚いたが、その冒険者らしい格好を見て納得した。殿下もまた、ランクを上げるべく冒険者活動に集中していらっしゃるのだ。
「はい」
「倒れる前のことは覚えている?」
(倒れる前?私が、倒れたというの?どうして?倒れる直前は……!)
ある綺麗な漆黒の瞳ははっきりと脳裏に焼き付いているが、その後のことはさっぱり思い出せない。
「…依頼をお受けいたしまして、女神の森へ参りましたことは、覚えております」
「吹き飛ばされたことは覚えているか?」
「…申し訳ございません、それは全く記憶にございません」
疲れのせいか、私の頭はぼんやりとして、うまく働かない。
アーノルド殿下はベッドの横に立ち、険しい表情で私を見下ろした。
「君は、女神の加護に吹き飛ばされたんだ。後で自分のステータスを確認するといい」
女神の加護、それは異界賢者を守るために女神様が付けた特殊加護。
「メアリー・ヘイデン侯爵令嬢、教えてくれ。君はミワ・イチノミヤ様に会った時、一体何を考えた?」
明らかに苛立ちを隠しきれないアーノルド殿下が、語気を強めて問い詰めた。
ミワ・イチノミヤ。
名前を聞いた瞬間、記憶が蘇った。
(何を考えた、ですって?私はただ……殿下との婚約を守りたかった、それだけなのにっ!)
心に込み上げる不安と恐怖に潰されそうになり、私はたまらず目を閉じた。
(…消えてほしい、ただ消えてほしかった)
閉じた目から涙が溢れる。
静かに涙を流す私を見て、アーノルド殿下は深い諦念を滲ませるような溜息を漏らした。
「ヘイデン侯爵が迎えに来た。君はすぐに侯爵家に戻りなさい。今後の沙汰が出るまで、屋敷から一切出ないように」
アーノルド殿下は、一切の温かみを感じさせない声でそう言い切ると、そのまま部屋を出ていった。
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