第二話 精霊の導きと、癒しの一杯

 翌朝、私は最低限の荷物をまとめ、護衛兼荷物持ちとして二人の従者と一人の侍女を伴い、屋敷の裏手に広がる“精霊の森”へと向かった。霧がかった森の入り口は、まるで別世界への入り口のように、外界の光を遮っていた。辺境で生まれ育った屈強な従者たちでさえ、どこか緊張した面持ちで周囲を窺っている。


「本当に、この森へ? 奥は道も定かではなく、迷いやすいと評判ですが……」


 侍女のアナが心配そうに尋ねる。


「ええ。大丈夫よ」


 私は自分に言い聞かせるように答え、鬱蒼とした木々の間に足を踏み入れた。


 ひんやりとした空気が肌を撫で、苔の匂いが鼻をくすぐる。巨木が天蓋のように陽光を遮り、森の中は昼間だというのに薄暗い。足元には落ち葉が分厚く積もり、一歩進むごとにカサリと乾いた音がした。


「神秘的な空気……、本当に精霊がいそうね、アナ」


 すぐ背後にいるはずの侍女に呼びかけた――が、返事がない。


「アナ…?」


 背後を振り返る。――誰もいない。


「えっ――?」


 つい先ほどまで、私のすぐ後ろを歩いていたはずのアナの姿も二人の屈強な従者たちの姿もどこにもなかった。


「アナ! ジョン、ハンス! どこにいるの!」


 声を張り上げるが、返ってくるのは不気味な静寂だけ。立ち込める濃霧に溶けてしまったかのように彼らの姿は忽然と消えていた。


「そんな……」


 心臓がどきりと跳ね、背筋に冷たい汗が流れた。神隠し。その言葉が脳裏をよぎる。心細さと恐怖が、ようやく持ち直しかけた私の心を再び蝕もうとしていた。

 その時――


 ざわざわ……


 風もないのに木々の葉が揺れる音が鳴り響く。それと共に、目前の空間が柔らかな光を帯び始めた。淡い緑色の光の粒子がキラキラと舞い、やがて集まって一つの人影を形作る。


「ようこそ、傷ついた迷い子よ」


 鈴を転がすような、けれどどこか古の叡智を感じさせる声。そこにいたのは、透き通るような翠の髪を持ち、木漏れ日を織ったかのような衣をまとった、性別も年齢も不詳の美しい存在だった。


「あなたは……?」

「私はこの森に息づくもの。あなたたちが“精霊”と呼ぶものよ」


 精霊は、私を射抜くように見つめた。その瞳は森の奥にある湖のように澄み渡り、私の心の奥底まで、悲しみも、絶望も、そしてほんの僅かな希望さえも見透かしているよう。


「あなたの心の叫びが、私を呼びました。――探しものがあるのでしょう? ついてらっしゃい」


 精霊はくるりと背を向けると、森の奥へと誘うように進み出す。私はまるで魔法にかけられたように、その神秘的な姿に引き寄せられ、後を追った。

 獣道すらない森の奥深く。しかし、精霊が歩む後には、まるで道が生まれるかのように茨が避け、草花が道を譲った。そうして、どれくらい歩いただろうか。森の最も深い場所と思われる、小さな開けた空間にたどり着いた。


「ああ……」


 あまりの美しさに、口から感嘆の声が漏れ出る。

 それは人の手では決して作り出せない、神聖な光景。空間の中央に、一本の大樹が静かに佇んでいる。古びた幹は威厳に満ち、天に向かって伸びる枝という枝に、陽光を浴びて黄金色に輝く無数の実をたわわに実らせていた。祖母の語った伝説の梅の木に違いない。


 息を呑み、唖然として立ちすくむ私の前で、精霊が梅の木に近づき、一本の枝に手を伸ばす。そして、美しく輝く一粒の梅の実を摘み取った。


「これを、あなたに託しましょう」


 そう言いながら精霊が摘み取った梅の実を私の掌にそっと乗せる。ひんやりと、しかし確かな重みを持つ黄金の梅。それはただの果実ではなく、凝縮された生命の塊のように感じられた。


「あなたには、癒しの力が眠っています。この実がそれを引き出す手助けとなるでしょう」

「癒しの力?」

「この森から流れ出る清流の水を汲み、その黄金の梅の実を浸しなさい。そして、一晩、ただ静かに、あなたの清らかなることを祈りなさい。それだけで良いのです」

「祈り……、それは、どんな――」

「あなたの心のままに。――さあ、もうお帰りなさい。あなたの仲間が心配しています」


 精霊が優しく微笑んだ。刹那、私の意識が急速に遠のく。そして――


「リディア様! ご無事でしたか!」


 その声で、はっとなる。

 私は森の入り口に立っていた。アンと従者の二人が慌ててこちらに近づいてくる。


「……夢を見ていたの?」


 瞬時そう思ったが、違う。私の手の中には、あの黄金の梅が一つ、確かな輝きを放って握られていたのだから。


「リディア様、いったいどこにいらしたのですか! 霧が濃くなった途端、お姿が見えなくなって……」


 アナが涙ぐみながら側による。彼女の話では、数時間以上時が過ぎていたという。私には一時間にも満たない感覚であったのだが、どうやら時の流れが違っていたようだ。その間、私を探し回った三人には、悪いことをした。そこで、私は黄金の梅の実を見せ、体験したことを正直に話した。

 そして、急いで屋敷に帰ると、ジョンとハンスに改めて森から流れ出る清流の水を汲んできてもらった。その間に私は梅酒を造るのに適したガラスの美しいびんを用意する。


 その夜、静まり返った自室で、私は精霊の教え通り、清流の水で満たした瓶に、黄金の梅をそっと沈めた。


 ――どうか、この心の痛みが和らぎますように

 ――どうか、もう一度、前を向いて歩けますように


 最初は自分のための祈りだった。しかし、いつしか、私を心配してくれる家族や、見捨てずに側にいてくれる侍女たち、そして、この穏やかな辺境の地で暮らす人々の幸せへと広がっていった。

 一晩中、私はただひたすらに、その黄金の梅が沈む瓶を見つめ、祈りを捧げ続けた。


 夜が明け、朝の光が部屋に差し込む頃には、瓶の中の水は美しい琥珀色に染まっていた。甘く、そしてどこか爽やかな、今まで嗅いだことのない芳醇な香りが部屋中に満ちている。


「できたのかしら、幻の梅酒……?」


 私はおそるおそる、銀の杯にその液体を注ぎ、一口、口に含んだ。


 その瞬間、まるで温かい陽光が体の中を駆け巡るかのように、じわりと全身に熱が広がった。胸の奥でずっと氷のように固まっていた悲しみの塊が、すうっと音もなく溶けていく。頭を締め付けていた重苦しい靄が晴れ、視界がぱっと開けたような、言葉では言い表せない爽快感に満たされた。


「ああぁ……」


 気づけば、私の頬を涙が伝っていた。しかしそれは、絶望の涙ではなかった。心の澱が洗い流され、生まれ変わったかのような、歓喜の涙だった。


「すごい……」


 私は窓を開け放ち、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


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