王子に婚約破棄された伯爵令嬢は、傷心のあまり辺境にひきこもるが、幻の梅酒を造って聖女と呼ばれるようになる
よし ひろし
第一話 王子の言葉と、祖母の囁き
王宮の庭園を見下ろす白亜のテラスは、午後の柔らかな光に満ちていた。磨き上げられた大理石の床には色とりどりの花々が影を落とし、遠くからは楽団の奏でる優雅なワルツが風に乗って運ばれてくる。その完璧な美しさの中で、私の世界は音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「リディア、婚約を破棄させてもらう」
目の前に立つ婚約者、アラン王子の唇から紡がれた言葉は、春の陽気にはあまりにもそぐわない冷たさを帯びていた。金色の髪に空色の瞳。神々の寵愛を一身に注いだかのような美しい青年は、心底退屈だと言わんばかりの表情で私を見下ろしている。
「な…ぜ…、ですか、アラン殿下。私に、何か至らない点でも……?」
絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。伯爵令嬢リディア・フォン・クラウゼルとして、私はこれまで、未来の王太子妃にふさわしい人間になるべく全てを捧げてきた。礼儀作法も、教養も、ダンスも、何一つ疎かにはしなかった。完璧な淑女であること。それが私の存在意義そのものだったのだ。
そんな私に、王子は残酷な現実を突きつけた。
「至らない点? ふっ、いや、君は完璧だよ。完璧な淑女だ。だが、それだけなんだ」
彼は軽く肩をすくめ、吐き捨てるように言った。
「君は真面目すぎて、面白みがない。正直に言おう。退屈なんだよ、君と一緒にいると。この先もこの退屈が続くと思うとうんざりする。私にはもっとふさわしい相手がいる。そういう事だ」
退屈――その一言が、鋭い氷の刃となって私の胸を貫いた。
これまで私が必死に築き上げてきた全てを、その一言で否定するの?
目の前が暗くなる。私という存在が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
遠巻きに私たちの様子をうかがう貴族たちの囁き声、同情とも嘲笑ともとれる視線が、肌に突き刺さる。
「…………」
私は何も言い返せず、ただ俯くことしかできなかった……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王都を離れる馬車が揺れるたび、心の傷口がじくりと痛んだ。
結局、あの場で倒れそうになった私を助けてくれたのは、アラン王子ではなく、私の侍女だった。あれ以来、私は誰とも口をきかず、ただ虚空を見つめるだけの抜け殻のようになってしまっていた。
そんな私を見かねた父が、母の実家がある辺境の所領で、しばらく静養してはどうか、と言ってくれた。私自身、王都の喧騒も、華やかな社交界も、そして何より、アラン王子の姿を、いえ気配さえも感じ取れないほどの距離を取りたかったので、素直にその提案に従った。
馬車が着いた母の実家は、質実剛健な石造りの、しかしどこか温かみのある屋敷だった。出迎えてくれた祖母は、憔悴しきった私を見るなり何も言わず、ただその皺の多い手で優しく抱きしめてくれた。
それからの日々、私は自室にひきこもった。食事もほとんど喉を通らず、ただ窓の外を流れる雲や、風に揺れる木々をぼんやりと眺めて過ごした。辺境の静けさは、慰めになるどころか、私の孤独をより一層際立たせるだけだった。
「リディア」
ある日の午後、部屋の扉が静かに開き、祖母が温かいハーブティーの盆を手に現れた。祖母は私の隣に腰を下ろし、窓の外に広がる深い森に目を細めた。
「辛いだろうね。でも、いつまでもそうしてはいられないよ」
その優しい声に、堰き止めていた涙がまた込み上げてくる。
「私には、もう何もありませんわ、お
祖母は私の言葉を遮らず、静かに聞いていたが、やがてふっと昔を懐かしむような声で語り始めた。
「あの森にはね、古い言い伝えがあるんだよ、リディア。“精霊の森”と呼ばれていて、その一番奥深いところに、誰も見たことがない一本の梅の木があるそうじゃ」
おとぎ話――そう思いながらも、私は祖母の言葉に耳を傾けていた。
「その木には、まるで太陽の光を閉じ込めたように、黄金に輝く梅の実がなるという。そして、その実から造ったお酒は、どんな心の傷もたちまち癒してしまう“幻の梅酒”になる――そういわれているのさ」
――幻の梅酒
その言葉が、灰色だった私の世界に、ぽつりと小さな灯りを点したようだった。心の傷を、癒す――そんなものが、本当に存在するのだろうか?
「……ただの、おとぎ話ですわ、お
「そうさね。ただのおとぎ話かもしれない。じゃが……」
祖母は立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
「今のそなたに必要なのは、そういうおとぎ話なのかもしれないよ、リディア」
祖母が部屋を出て行った後も、私はしばらく動けなかった。“幻の梅酒”という言葉が、頭の中で何度もこだまする。
おとぎ話よ、そうに違いない…。馬鹿げている。でも……
このまま、何もせずに心を腐らせて、王子に言われた通り“面白みのない女”として朽ちていくくらいなら、藁にもすがる思いで、その馬鹿げたおとぎ話に賭けてみたい。
「幻の梅酒か……」
私はおもむろに立ち上がり、埃をかぶりかけていた姿見の前に立った。そこに映っていたのは、血の気の失せた青白い顔に、光のない瞳をした、まるで亡霊のような自分だった。
――こんな自分はもう嫌だ
「……行ってみよう」
掠れた、だが確かな意志を込めた声が、自分の喉からこぼれ落ちる。
そして、私は侍女を呼び、きっぱりとした口調で告げた。
「準備をしてちょうだい。数人でいいわ。――明日、“精霊の森”へ参ります!」
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