第2話「まだ覚えられない、でも諦めたくない」

 春の陽射しが優しく教室に差し込む昼休み。窓際の席でお弁当を広げていた心菜のもとに、愛花が軽やかな足取りで近づいてきた。


「ねえ、心菜ちゃん。今日、入部届、出してきたよ!」


「えっ、本当に……?」


 驚きと嬉しさが混ざった声をあげた心菜に、愛花は満面の笑みで頷く。横でお弁当を食べていた実結も、「やったね!」と笑い、スプーンをくるくると回した。


「これで、三人だね。かるた部、ちゃんと部活っぽくなるかな?」


「なるよ! だって、心菜ちゃんがいればなんとかなりそうだし!」


「なんとかなりそうって……」


 少し頬を膨らませる心菜に、愛花と実結が笑い合う。三人の空気は、春の昼下がりにふさわしい、ほんのりと甘い和やかさに包まれていた。


「それに、実結に対して頬を叩くなんて、良い瞬発力だったよ」


「え?そうかな……」


「そうだよ。私なんて実結とかるた教室に通っていた時、実結が私にちょっかいを出して来て、何度も頬をたたいたことがあるから。まあ、お互いに叩きすぎて、痛くて大泣きしたことは、今でも覚えているけど……」


「そうだよ!心菜ちゃんてば、うるさいだけで冷たい発言をしたり、チョップしてきたりしてきたんだから」


「ふーん。そうだったかしら?」


「もう。心菜ちゃんたら、冷た~い」


 何気ない普通の会話が日常を明るくする。


 放課後。部活動としての初めてのかるた練習が始まった。


 部室ではなく、空き教室に畳が数枚敷かれ、そこに札が広げられている。九条美沙希先輩が、静かに札を並べながら三人に言った。


「まずは礼儀からね。かるたは競技だけど、礼を重んじるのが基本。立ち方、座り方、挨拶、札の並べ方……全部、覚えるところから始めましょう」


 柔らかな声でそう言うと、美沙希はお手本を見せ始めた。座るときの角度、手の置き方、札の間隔。慣れない動作に、愛花は早くもおろおろしていた。


「え、えっと……これって、五枚ずつ三列に置くんだっけ?」


「それは百首覚えてからの公式戦ね。今は自由に並べていいのよ」


「よかったぁ……覚えきれないかと思った」


 汗をぬぐいながらも笑顔の愛花。心菜は静かに頷きつつ、愛花が思ったよりも緊張しているのが伝わってきた。初めての人が戸惑うのは当たり前――そう思いつつも、自分の初練習の日のことを思い出し、胸の奥に小さな焦りが芽生える。


 軽く準備運動をした後、模擬試合が行われた。


「まずは心菜ちゃんと実結ちゃんで一局。そのあと、愛花ちゃんと私で」


 九条先輩が読み手を務めながら、札を少しずつ読み上げていく。心菜と実結の対戦は、息が合ったもので、互いに札を取り合い、冗談を飛ばしながら進んだ。


 続いて、愛花と九条先輩。


「よーい、始め!」


 札が読まれ、すっと先輩の指が伸びて札を払う。


 ぱしんっ!


 まったく動けない愛花。次の札も、その次も、一枚も取れない。


(速すぎる……!)


 視線は札を泳ぎ、音に反応するより前に動けない。読みのテンポに慣れず、手が出ない。


 気づけばすべての札が取られ、完敗。


「終わりー。大丈夫、最初はみんなそうよ」


 笑って言う九条先輩に、愛花はなんとか笑顔を作るが、その瞳にはじんわりと涙が滲んでいた。


 帰り道。夕暮れの道を並んで歩く心菜と愛花。


「今日、全然取れなかった……。正直、悔しいっていうより、情けなくて」


 ぽつりと愛花が呟く。心菜は少し迷ってから、言葉を選んだ。


「でも、あの時、すごく真剣だったよ。札に向かう姿、私、ちゃんと見てた」


「……そうかな」


「うん。私だって、最初は全然取れなかった。今だって、うまくいかないときはたくさんあるし」


 ふと、風が吹く。春の風が、制服の裾を揺らす。


「続けたいって、思った?」


「……うん、思った。今日のまま終わりたくないって」


 その言葉を聞いて、心菜はそっと笑った。


 夜、各自の部屋。


 愛花は畳の上に札を並べ、読み上げアプリの音声を何度も繰り返して聞いていた。目を閉じ、集中する。札の上に手を置く練習を繰り返す。


「せめて、一枚は取りたいな。明日こそ」


 その瞳は、昼間よりも少しだけ真剣な光を宿していた。


 一方、心菜もまた、机の上に一枚の札を置いていた。


「こひすてふ……」


 何度も口にした札の言葉を、今夜も繰り返す。


(自分の“好き”を、信じていたい)


 かるたを愛する気持ちだけは、誰にも負けたくない。


 明日もきっと、札と向き合おう。


 それぞれの思いを胸に、少女たちは夜を越えていく――。



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