この一枚の札に、思いを込めて

天音おとは

第1話「この一枚の札に、思いを込めて」

 春の風が、校舎の隙間からそっと吹き抜ける。

 窓際のカーテンがふわりと揺れた。

 昼休みの喧騒が過ぎ去り、放課後が近づく頃。

 図書室の奥の窓際の席で、一人の少女が静かに本を読んでいた。

 愛媛心菜(えひめ ここな)。

 高校一年生。艶やかな黒髪を肩の下まで真っ直ぐに伸ばし、制服をきちんと着こなしたその姿は、どこか品がある。

 学年でも優秀な成績を誇り、凛とした佇まいで生徒たちから一目置かれる存在だ。

 けれど、今の心菜はただ静かにページをめくるだけだった。

 手にしているのは、百人一首の解説書。

 やや使い込まれた札が、几帳面に机の上に並べられている。

 ——「ちはやぶる——」

 幼い頃、畳の上で友達と札を取り合った記憶がよみがえる。

 あの頃は、ただ楽しくて、笑って、泣いて、また笑って。

 けれど、いつからだろう。かるたは、ただの遊びじゃなくなった。

「ねえ、心菜ちゃん。それ、百人一首?」

 ふいに隣から声がかかった。

 心菜は顔を上げる。

 隣の席には、園原愛花(そのはら あいか)が座っていた。

 茶色のロングヘアを白いカチューシャでまとめ、優しいオレンジ色の瞳が柔らかく光っている。

 制服の襟元も丁寧に整えられ、その佇まいはどこか穏やかだ。

「あ……うん。かるた部に入ってるから」

「やっぱりそうなんだ。最近、中庭で練習してるの、見かけたよ。あの札の取り方……すごくかっこよかったよ」

 思わぬ言葉に、心菜は小さく目を見開いた。

「かっこいい、なんて……言われたの、初めてかも」

 照れたように笑う心菜を見て、愛花も自然に笑みを浮かべる。

「でも、なんでそこまで頑張れるの?かるたって、遊びの延長みたいなものでしょ? なのに、そんなに本気になれるのって、すごいなって思って」

 その問いに、心菜は少し黙った。

 ページをめくる手が止まり、視線が本から逸れる。

「……私ね、ずっとかるたが好きだったの」

 ぽつりと、心菜は語り始めた。

「幼い頃から、かるた教室に通ってたんだ。お母さんが連れて行ってくれて、毎週土曜日は練習の日だった。友達と札を取って、負けたら悔しくて泣いて、勝ったら嬉しくてまた泣いて……。でもね、中学生の時、大会で負けたの。すごく強い子がいて——」

 心菜は唇を噛んだ。

 脳裏に浮かぶのは、千代野桜(ちよの さくら)の顔。

 冷たい目つきと、札を取る鋭い指先。

「その子に、何度やっても勝てなかった。一度だけ、あと一歩のところまで行ったのに……“この勝負、私が勝つ”っていう気迫に、私は負けちゃった」

「……それが、桜さん?」

「うん。千代野桜。着物がよく似合う子。すごく強い。負けた後、怖くなって、かるたから離れたこともあった。だけど——」

 心菜は視線を落としたまま、続けた。

「やっぱり好きなんだ。かるたが。だから、高校ではもう一度、本気でやろうって決めたの。——今度こそ、桜に勝ちたい」

 その言葉は、心菜自身の胸の奥から出たものだった。

 強くて、でもどこか震えている。

 愛花は、そっと心菜の手を握った。その手が、ほんの少しだけ震えていた。

「私、心菜ちゃんのこと、もっと知りたいな。一緒に、かるたやってもいい?」

「え?」

「初心者だけど、心菜ちゃんの力になりたいから」

 心菜は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。

 それは、久しぶりの心からの笑顔だった。

「ありがとう。嬉しいよ」


 昼休みが終わり、チャイムが鳴る。

 放課後、二人は職員室へ向かい、かるた部の入部届を提出した。

 校舎の三階。廊下の突き当たりにある部室へ向かう途中、心菜の足が一瞬止まる。

「……大丈夫?」

 愛花が心配そうに覗き込む。

「うん。ちょっと、ドキドキしてるだけ」

 心菜は小さく笑い、また歩き出した。


 部室の前に着くと、一人の少女が立っていた。

 金色の長い髪が光に揺れ、水色のリボンが風にそよぐ。

 胸には百人一首の札を大事そうに抱えている。

「……あれ?」

 少女がこちらを向いた瞬間、目を輝かせて走り寄ってきた。

「心菜ちゃーんっ!!」

「えっ……!?」

 次の瞬間、少女は勢いよく心菜に飛びついた。

「え、だ、誰……?」

「わたし、わたし!上里美結だよ!小学生の時のかるた教室以来だね!久しぶり!」

 上里実結(かみさと みゆ)。

 幼い頃、かるた教室で一緒だった無邪気な女の子だ。

「また一緒にかるたやろうね!私、ずっと待ってたんだから!」

「ちょ、ちょっと待って……!距離が、近い……」

 心菜が戸惑っていると、実結はさらに愛花にも抱きついた。

「うわっ、近い近い!」

 あまりの距離感の近さに、愛花は思わず実結の頬をぺちんと軽く叩く。

「……いてっ。あはは、ごめんごめん!」

 実結は全く気にしていない様子で笑った。

 その明るさに、心菜と愛花もつられて笑う。


「こらこら、騒がないの」

 背後から声がした。

 振り返ると、赤茶色の髪をミディアムにまとめた女性が立っていた。

「ここは校舎の中よ。落ち着きなさい」

「ご、ごめんなさい、先生っ!」

 心菜が反射的にぴしっと立ち上がる。

「ふふ、反応が早いわね。私は伏見京子。国語の教師で、かるた部の顧問よ」

 続いて、柔らかい笑顔を浮かべた女子生徒が現れた。

 長いライトブラウンの髪、清楚な制服の着こなし。

「マネージャーの九条美沙希です。よろしくお願いしますね」

「みんな、今日は入部希望なのよね? ちょうどよかったわ。練習、見ていく?」

 心菜がうなずくと、愛花も実結も頷いた。


 その日の放課後。

 三人は部室で、百人一首の札に初めて触れた。

 札の並べ方、礼の仕方、取り方の作法。

 一つひとつ、伏見先生と美沙希先輩が丁寧に教えてくれる。

 心菜は札を並べながら、そっと胸に手を置いた。

(——今度こそ、私は勝つ。あの一枚を、今度こそ自分の手で取る)

 隣を見ると、愛花が不器用に札を並べている。

 実結は和歌の意味をぶつぶつ唱えていた。

 三人の少女たちが、それぞれの想いを胸に、

 この日、かるたの新たな一歩を踏み出した——。

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