第一部 転落の芥子乙女

一章 追放から始まる新しいお仕事

第1話 ある絵師の旅立ち



 十年前——


「ほんとに行っちゃうの? ヴィヴィエラ兄さま」

「ごめんね。サリー。さみしくさせて。でも、行かなくちゃいけないんだ」


 そのころのわたしにとって、兄さまは世界で一番好きな人だった。むしろ、世界そのものだったかもしれない。兄さまといっても、実兄ではない。ほんとは従兄弟なのだけど、小さなころ両親が死んでしまったわたしにとって、優しくてハンサムで、何より才能あふれる魔法画家である兄さまは、ほんとの兄以上に大切な人だった。初恋というには幼すぎたかもしれないけど。


 その兄がとつぜん遠くの国へ旅に出るというのだ。この世の終わりのような絶望感で、わたしの涙はとまることがなかった。


「なんでなの? なんで行っちゃうの?」

「それは……」


 いつも優しい兄さまなのに、なぜか、その理由だけはハッキリと教えてくれなかった。ウワサでは絵の修行のためだって話だけど、なんとなく、ほんとは違うんじゃないかって気がした。もっと深刻な理由があったんじゃないか。当時の兄さまのようすから、本能的にそう感じた。


 わたしは泣いてひきとめたけど、けっきょく、ヴィヴィエラ兄さまは行ってしまった。夕焼けに赤々と染まる壁にはさまれた街路を、少しずつ、小さく、遠くなっていく兄さまの姿が、今でもまぶたの奥に焼きついてる。

 あれから十年。長くてもほんの二、三年だと言ってた兄さまはまだ帰らない。


 わたしは十五歳になった。

 父は生前、天才と称された魔法宮廷画家で、晩年には大きな工房を持っていたのだけど、女のわたしには継ぐことができない。本来なら兄さまのものだ。でも、兄さまが帰らないので、今は父の一番弟子だったクノルエさんが切り盛りしてる。


 できることなら、わたしも魔法画家になりたかったなぁ。けど、工房の親方になれるのは男だけって商工会ギルドの決まりだから、しかたない。


 そんなわけで、正式には絵師になれないので、十二歳までは父が遺してくれた工房で絵の具作りを手伝っていた。兄さまが帰ってきてくれるのを待ってたんだけど、三年前、クノルエさんが急に言いだした。


「サリエラお嬢様。このまま、工房においでになっても、あなたの地位は師匠の生前からの弟子のなかで一番の下っ端です。たしかに、あなたには師匠ゆずりの才能がある。とくに色彩感覚はきわめて優秀だ。しかし、女性であるがゆえ、あなたの地位はいっさい上がらない。それでいて、あなたが師匠の実子であることは歴然たる事実。弟子たちにとって、あなたは居心地の悪い存在なのです。どうか、工房を離れてはくださいませんか?」

「えっ? でも、わたしは下っ端見習いのままでも、ぜんぜん気にしないんだけど」

「あなたが気にしなくても、皆が気にするのですよ。作業の効率にかかわります」

「でも、工房を出ても、わたしには行くとこなんて……」

「それでは、魔法芥子マジックポピーの乙女になるのはいかがでしょう?」

「マジックポピーの……」


 絵の工房にいる者なら誰だって知ってる。

 油絵の具を作る材料の一つポピーオイル。または亜麻仁油。顔料と油をまぜて作るのが油絵の具なんだけど、ポピーのかわりにマジックポピーの油を使ったものが魔法絵を描くための特別な絵の具だ。


 その特別な絵の具を作るためのマジックポピーオイル(簡略にマジックオイルと言われることが多い)を集めるのは、けがれなき未婚の乙女だ。芸術を司る女神レ・ルー・アン・ヴェネルティアの神殿に仕える巫女となり、マジックポピーを育て、オイルを精製する。男子はその芥子にふれることさえゆるされない。乙女だけの特別な仕事。


 たしかに、クノルエの言うとおり、このまま工房にいても、わたしが絵を描かせてもらえる日は一生来ない。それなら、少しでも絵にかかわる仕事がしたい。それも、マジックポピーの乙女は誰でもなれるものじゃない。貴族の子女か、神殿、または工房の推薦を受けた娘だけがなれる。


「わかった。わたし、芥子乙女ポピーガールになる」


 わたしの育てた花から採取されたオイルを使って、奇跡を起こす魔法絵が描かれる。父さまや兄さまみたいな素晴らしい絵師の力になれるなら、それでいい。


 ——って思ってたのに、


「サリエラ。あなたはクビです」


 ええーっ? なんでぇー?

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