2.灯の消えるとき

聖女は、身分を問わず神に選ばれる。それが、この国に古くから伝わる理だ。


ーー聖印の灯が消えると、神は新たな魂を選び、保つーー


この国には、そうして選ばれた聖女が常に四人存在している。



私が選ばれた年――三人の聖女が、命を落とした。偶然か必然か、それは誰にもわからない。だが事実として、三人の聖女が逝き、三人の少女が新たに選ばれた。



神の御心は、血筋に左右されない。


美しさや富、権力の有無にも頓着しない。けれど、神が気にしないからといって、人間までが同じであるはずがなかった。



人は貴賤に縛られる。



家柄、名前、服の質、そして……髪の色。

彼らは目に映るものだけで、すべてを判断する。聖女の中に階級を作り出そうとした者が、神の怒りに触れたこともあったそうだ。



だからこそ、今は、聖女の名も出自も伏せられる――それは昔からの、厳粛な決まり。記憶にあったとしても、成人の儀までは、決して話してはいけない。



「神の娘」になる聖女たちが、世俗の偏見から守られるように。ただ”聖女”として在れるように。


誰もがその決まりを知っていたし、守られてきたはずだった。


――でも




名を伏せ、出自を伏せても。

私の髪を見ただけで、誰もが口を閉じ、目を伏せ、距離を取った。




引き取られた際、私だけが三歳で、他の二人は五歳だった。たった二歳の差。けれど、それはあまりにも大きい。彼女たちは、自分の名を知っていた。家族の顔を覚えていた。時折こっそりと、出自を仄めかすような言葉も交わしていた。



私にも一つだけ、はっきりと残っている記憶がある。



それは、泣きながら私の名を「リィナ」と呼ぶ声。


馬車に乗せられる私に、必死で手を伸ばしていた、二つの小さな影。幼い私は、何が起こっているのか理解できず、泣くこともせず、その腕に手を伸ばすこともせず、ただ静かに揺れる馬車の中で座っていたと思う。


二人の顔は、どうしても思い出せない。


けれど――あれが、私の両親だったのだと思う。あれほどに泣かれるほどには、私は愛されていた。そう信じている。


そして、物心ついたときには、すでに私の耳には小さなピアスがあった。深い赤。紅玉のような色。不思議なことに、どれほど試しても、外すことはできなかった。


きっとこれは、両親が私に残した、たった一つの“しるし”。


私がかつて、確かに誰かに愛されていたという証。私は、そう思っている。



聖印の儀で神紋に色が差すと、名も出自も、すべてが公になり、正式に“名乗る”ことが許される。そして、その儀には、家族も招かれるのだという。


けれど、私の両親がもし、平民だったのなら。


神殿の来賓席に平民の両親が座っていたら――。私のようにあの見下すような視線が向けられるのだとしたら。それだけは、耐えられない



私は、ピアスにそっと触れた。さあ、出発よ。








*****




「ふぅ……旅路が、こんなにも大変なものだったなんて、思ってもみなかったわ」


そっと呟く。


思っていたよりも、現実はずっと厳しかった。


想像していたよりも、現実というものはずっと厳しい。吹く風さえも、優しくない。頬を撫でるどころか、まるで細く鋭い針のように、容赦なく肌を刺してくる。衣の隙間から忍び込む冷たさは、骨の奥にまでじんわりと染みていった。


お腹が空くと、胸のあたりまで苦しくなるのね。……と、ぼんやり考える。


目の前を通り過ぎていく人々は、誰ひとりとして私に気づかない。私がここにいないかのように、忙しそうに歩いていってしまう。


「……私、ちゃんとここにいるのに」


この身は確かにここにあるのに、世界のほうが、私から静かに遠ざかっていくような気がした。


生きるというのは、寂しくて、つらいことだったのね。神殿にいた頃よりも、ずっとそう感じてしまう。やっぱり私は「世間知らず」なのだわ。



辿り着く町ごとに、教会を訪ねてみた。


けれど、どの扉も固く閉ざされていた。決まってこう言われるのだ。




「今は時間外です。明日また来てください」

「申し訳ありませんが、ご対応はできません」




その瞳は冷たくて、面倒だと言いたげで。



「……お待ちください。ほんの少しだけでも……お水をいただけたら嬉しいのですけれど……」


何度お願いしても、扉は容赦なくぱたんと閉じられてしまう。

巡礼に出た聖女は、各地の教会から宿を、癒しを受けられると教わってきた。それは神の御心であり、変わらぬ約束だと信じていた。


「……嘘、だったのかしら?」


乾いた唇から漏れた声は、かすかに震えていた。足元の石畳は冷たくて、体から温もりがひとつずつ抜けていくようだった。


道は静かで、冷たかった。



ある晩、とうとう力尽きて、小さな民家の軒下に身を寄せた。


地面は冷たかったけれど、まぶたを閉じるしかなかった。


けれど――


目覚めたときには、荷物は消えていた。

靴も、わずかなお金も、パンの欠片さえも。



「……そんな……」



小さく震えながら、そっと立ち上がる。裸足の足裏が泥にまみれ、尖った石の感触が鋭く突き刺さる。それでも歩き出すしかなかった。


治癒の祈りで傷は癒せても、数歩ごとにまた痛みが走る。




「歩くって……こんなにも大変なことだったのね……」




体は重くて、呼吸は浅い。お腹もすいている。世界が、また少し遠くに感じられた。どこへ向かえばいいのかも分からず、道がぼやけて見えた。


昨日まで、どうやって生きていたのでしたかしら。


夜の冷たさは、皮膚ではなく骨に染みてくるよう。心の中で灯していた信仰の火も、ふっと消えてしまいそうだった。


「……もう、どこにも……行けないわ」


その言葉は、静かに夜の中へ溶けていった。

まぶたがゆっくりと閉じられて、意識は静かな闇へと落ちていった。


 


――『あなたには、本日をもって、この神殿を出ていただきます』


 


あのときの声が、遠くで微かに響いていた。

夜の静けさの中で、あの宣告が何度も私を責め続けた。

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