【完結】明日も生きることにします
楽歩
1.扉の向こうは、まだ知らない世界
「――の聖女。光耀の聖女!」
「は、はい!」
祈りの最中声をかけられて、私はようやく自分が呼ばれたのだと気づいた。
「こんなところにいたの? 神官長が探していたわよ」
「……神官長が、私を?」
珍しい。私を名指しで呼ぶなんて――ほとんどなかったのに。
「そうよ。早く行きなさい」
「……わかりました。あの、お二人はこれから祈りの時間ですか?」
私がそう訊ねると、2人の聖女は同時に小さく笑った。
「何を言ってるの? 私たちはあなたよりずっと早く起きて、もう祈りは終えたわよ」
「私より、早く?」
「当たり前じゃない。もうとっくに済んだわ」
まあ、早起きだわ。でも……朝の祈りで満ちているはずの場所。けれど、今日もなぜか――少し、光が弱いように見えた。
「……でも、あの、聖なる鐘の金の光も、少し薄れているような……。温室の薬草たちも、どこか元気がなく見えました。もしかして、まだ祈りが足りていないのでは……」
聖なる鐘は、祈りによって力を溜める。とくに結界を張るときは、それがとても大切だと教わっている。温室の薬草だってそうだ。祈りを込めて育てることで薬効が高まり、癒しの力が増す。だから、少しでも気になるところがあると、きちんと確かめたくなってしまう。
「まぁ、私たちのせいにするつもり?」
樹霊の聖女が、あからさまに眉をひそめて言った。
「そうよ。足りないとしたら、それはあなたの祈りが弱いせいじゃない? 私たちはちゃんと祈ったもの」
炎煌の聖女様が肩をすくめる。
そんなつもりじゃなかったのだけれど……でも、二人の言う通り、私の力不足なのかもしれない。神官長の話が終わったらもう一度祈らないと。
「それにしても――あなた、少しは身なりに気を使ったらどう?」
唐突に言われて、私は思わず自分の衣を見下ろした。少しほころびのある裾、日に焼けて色の褪せた布地。
「……二人の服、新しいですね。今日は何かあるのですか?」
「これ? これはね、式典用の聖衣よ。今日の大広間での祝詞に参加するための」
「ふふ、あなたには、縁のない話でしょうけど」
確かに私は一度も、そういう式典に呼ばれたことがない。でも、こんなにきれいな聖衣を着るのだなと、思わず見とれてしまった。
――いつか私も。
あれ? 神殿長の話……そうだわ、今日かもしれないわ!
聖堂へと入ると、そこには神官長が待っていた。まっすぐに背を伸ばし、声をかける。
「お待たせしました」
「遅かったですね、光の聖女。……では急ではありますが、あなたには本日をもって、この神殿を出ていただきます」
神殿を出る?
神官長のその言葉は、ひどく冷たく響いた。
「『光の癒聖』は旅に出るべし――そう、神託がありました。神がそうお望みなのですから、逆らうことなどできません。今日中に、巡礼に出発しなさい」
「……今日中、ですか?」
ゆっくりと問い返した自分の声が、わずかに震えていた。傍らで微笑む二人の聖女が、祝福でも授けるように神官長の言葉をなぞった。
「ふふ。世間知らずなあなたには、いい機会ね。外の世界を知って、少しは学んでくるといいわ」
「そうね。口に合わないからと少量の食事しかせず、気が散るからと世話役を追い出し、挙げ句には、勝手に商人を呼びつけて自分の予算を超える買い物三昧……。まったく、世の中には、貧しく助けを求めるものも多いのですよ」
「世話役を……追い出したなんて、そんなこと、した覚えはないです。ただ……誰も来なかっただけで。私、予算っていうのがあるってことも……今初めて知りました。食事も、ええと……食べていいなら、もっと食べたいのですけれど……」
一生懸命に言葉を尽くしたつもりであった。しかし、それはすぐにかき消された。
「見え透いた言い訳は結構。いいですか? お金は無限じゃないのです。それに、世話役にも心はあるのですよ。本当『世間知らずの聖女様』。そんなあなたに神は試練をお与えになったのです」
また、『世間知らずの聖女様』……。
「……大聖女様は、このことをご存知なのですか?」
私の口からぽつりと漏れた問いは、すぐさま断ち切られた。
「今、この神殿を預かっているのは神殿長であるこの私です! とにかく、誰も、あなたについて行きたがらないので、一人旅となりますが、これも今までの報い、神の意思だと思って受け入れなさい」
何も言わずにうなずき、そのまま部屋を後にする。長い石の回廊には、自分の足音だけが静かに響いていた。
幼い頃、神に選ばれ、神紋が現れた私は聖女“光耀の癒聖”として生きることになった。
聖女として選ばれた者は、聖印の儀を迎えるまで、すべてを手放さなければならない。名前も、過去も、家族のぬくもりさえも。
けれど私は、聖女として迎えられた年齢があまりに幼く、幸か不幸かそもそも自分の関してほとんど何も覚えていなかった。だから、手放したという感覚すらなかった。
与えられた場所で、与えられた役目を果たす。それが私のすべて。
数か月後には、聖印の儀を迎える。今は黒いこの手にある神紋には、色がつくという。それが、神に寵愛されし聖女の証なのだそうだ。神に寵愛された聖女は、いわば神の娘。なので結婚や出産でその力を失うことはない。神に仕えながらも人を愛することができる特別な存在。
けれど、本来であれば――聖女というのは、選ばれたその瞬間から、“特別”な存在。でも……私は、その“特別”に、なれなかった。
たぶん、この髪の色のせいね。
私の髪は、平凡な茶色。市井の民によくある、どこにでもある色。「貴族の娘が持つ色ではないわ」と、誰かが言っていたのを覚えている。
私に優しくしてくださった大聖女様が結婚してこの神殿を去ってから、空気はがらりと変わった。冷たい視線。遠ざかる足音。廊下で聞こえたシスターの言葉が、今も耳から離れない。
『平民の世話なんて、冗談じゃない』
自室へ戻り、扉を開くと、そこには見慣れた空間があった。小さく質素ではあるが、私にとっては落ち着く場所である。深く息を吐き、荷造りを始めた。手はかすかに震えていたが、涙は出なかった。
やがて、ノックもなく扉が開かれた。
「まあ、大変ね。一人旅なんて、心細いでしょう?」
銀糸のような髪をふわりと揺らしながら、聖女の一人である「樹霊の慈愛」が言葉を投げかける。銀の髪は伯爵以上の者にしか存在しない。ポーションづくりを得意とし、癒しの象徴として人々に崇められている。しかしその慈愛は私に向かない。――二つ名に“癒”を冠する私の存在が、気に食わないと、言われたことがある。
「私たちと違って、ずっと聖堂の中に籠もっていた者には、苦痛でしょうね」
続けて言葉を発したのは、『炎煌の聖裁』。その真紅の髪が戦場を思わせるように、ゆらりと揺れる。雷鳴のごとき力で大地を震わせ戦う聖女。聖なる力で魔獣を殲滅させる。その名を知らぬ者はいない。なぜなら、真紅の髪は、戦を尊ぶバルナック男爵家の証。彼女の素性など、わざわざ語らずとも、その在り方がすべてを物語っていた。
「そうね。神殿の中で楽をしてきたあなたには、少しぐらい苦労が必要よ」
その二人の言葉には、棘のようなものが含まれていた。けれど、もしかすると、それも私のためを思っての厳しい言葉なのかもしれないわ。私は二人のように高貴な出自ではないもの。
「光の癒聖の二つ名に恥じないように、巡礼で魂を清めなさいね」
「わかりました。行ってまいります」
そう返すと、二人は満足げに笑って部屋を去っていった。
――外の世界、か。
それは知らぬものばかりで、少し怖い。けれど、見たことも聞いたこともないものたちが、私を待っているのだと思えば。
「……きっと大丈夫。ええ、きっと……大丈夫」
静かに扉を開けると、柔らかな光が私の頬をなでた。私は一歩、外の世界へと踏み出した。
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