第79話 小さな手紙と新しい一歩
午後の陽が、木枠の窓に四角い光を落としていた。
庭からは洗い立ての布と石鹸の匂い。台所ではバターの甘さがかすかに混じる。外の笑い声が遠のくと、古い廊下はしんと静まった。
リュディアは器を棚に戻しながら、曲がり角の先に耳を澄ませた。――すすり泣き。小さく、こらえるような音。
物置兼書き物部屋の扉をそっと開ける。薄明かりの中、木箱の陰で小さな肩が丸まっていた。栗色の三つ編み――サラだ。普段はよく笑う子が、今日は顔を上げようとしない。
床には細かく裂けた紙片が散っている。端に残るのは、ていねいな曲線の文字。
リュディアは正面にしゃがみ、目線を合わせた。
「サラ。……ここ、冷えるね。手、冷たくなってる」
「だいじょうぶ」
掠れた声。けれど握った指先は、紙をぎゅっとつぶして震えていた。
「それ、見てもいい?」
サラは迷いがちに一片を差し出す。涙でにじんだ筆致が読めた。
――“はじめまして。もしよかったら、お話がしたいです”。
文字の癖はサラのものではない。ミラの字だ。
胸の奥がそっと鳴った。
里親候補に渡す、ミラの“願いの手紙”。それが破れている。
サラの沈黙を待ってから、リュディアは穏やかに口を開いた。
「……ミラの、手紙だね」
サラの肩がびくりと揺れた。次の瞬間、堰を切るように言葉がこぼれる。
「わ、わたし、見つけちゃって……。ミラ、里親さんに会うんだって。みんなが『よかったね』って言って……。わたし、うれしいはずなのに、胸が、ぎゅってして……。ミラだけ、先に行っちゃうみたいで、こわくて……。気づいたら、びりって……。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
泣くまいとする声が、逆に痛かった。
リュディアはゆっくり息を吸い、小さく頷く。
「サラ。いまの気持ち、ちゃんと言えたね」
机から糊と薄紙を取り、紙片を一枚ずつ合わせ始める。破れ目の線が合うたびに、薄紙で裏打ちしてなでる。手元の静かな動きに合わせて、言葉もゆっくり置いていった。
「人はね、『いってらっしゃい』が言えないときがあるの。大事な人が自分を置いていってしまう気がして、胸が苦しくなる。うらやましさと、さびしさと、怖さが、ぜんぶ一緒に来るから」
サラは泣き顔のまま、こくりと頷く。
「でも――破いたことは、だめ。そこは、ちゃんと『ごめんね』を言おう。気持ちは気持ちとして、行いは行いとして、まっすぐに」
紙は少しずつ形を取り戻す。にじんだ文字は消えないが、不思議と前より強く見えた。
「それからもう一つ。サラの“本当”も、ミラに渡そう。『行かないで』って言葉じゃなくて、『あなたが大好き。さびしい。でも応援したい』って――サラのまっすぐを」
「……言えるかな」
「一緒に考えよう。言葉は、ゆっくりでいい」
最後の継ぎ目をなで終えると、リュディアは直した手紙をサラに手渡した。両手で受け取った小さな指が、慎重に端を支える。
ちょうどそのとき、扉の外から気配がした。覗きこんだのは、短い前髪の女の子――ミラだ。手には粉砂糖のついた指。
「サラ……? さっきは、その……ごめん。わたし、里親さんの話、みんなの前で言っちゃって。サラ、顔、悲しそうだったのに」
サラの喉が小さく鳴る。リュディアは二人の間に目をやり、そっと身を引いた。
「ミラ。大切な話、二人でしよう。ここで聞いているね」
サラは破いたことを、震える声で謝った。ミラは目を丸くして、それからゆっくり首を横に振った。
「わたしも、ごめん。こわかったの。サラと離れるの。だから、うれしいのに、こわくて、ごちゃごちゃして……」
サラの目が潤んで、けれど今度は涙は落ちない。
リュディアは、二人の間に薄紙のような沈黙が落ちるのを待ち、そっと背中を押した。
「里親さんに渡すのは――新しく書き直そう。きれいな紙で、きれいな気持ちでね。
それと、サラの“本当”も、ちいさな紙に添えようか。『大好き』『さびしい』『応援してる』って」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
机に並んで座る。ミラが新しい羊皮紙を広げ、深呼吸をひとつ。ゆっくりと筆を運び、最初からていねいに書き直していく。
その横でサラも、掌に収まる小さな便箋を取り出し、にぎった筆を一度落ち着かせてから、言葉を置いた。
“あなたが大好きです。さびしいです。でも、お話ができたら、わたしはうれしいです。”
書き終えると、サラは便箋を胸に当て、そっとミラの肩におでこを預けた。ミラも同じ力で抱きしめ返す。
机の上には、まっすぐに書き直された手紙と、小さな応援の手紙。
小さな円が、そっと結び直された。
――その光景を見て、リュディアの胸の奥で、別の結び目がほどけた。
(……わたしも、同じだった)
肩を並べていたつもりが、いつの間にかセレスティナもリーネも視界のはるか前にいる――その事実だけが、胸の内側をそっと掻き乱してた。
うらやましさ、さびしさ、怖さ。
置いていかれるのが怖くて、だから――「見ない方がいい」と知りながら、手を伸ばした。研究室の棚。
(破いたのは、わたしの方)
行いは行いとして、まっすぐに。
サラに言った言葉が、自分に返ってくる。
(謝ろう。ユリウス先生に。ちゃんと、正面から)
怖さは消えない。でも、今の二人のように、言葉にすれば、次へ進める。
リュディアは、胸の奥で小さく頷いた。
「ありがとう、リュディアおねえちゃん」
サラの声に、はっと顔を上げる。
二人は並んで立ち、扉の向こう――明るい廊下へ歩き出そうとしていた。キッチンからは焼きたての匂い。庭からは笑い声。
「クッキー、冷めちゃう前に行こっか」
促すと、二人は手をつないで頷いた。
その背中を見送りながら、リュディアは掌をぎゅっと一度握ってから、そっと開いた。
(わたしも、いこう)
小さく息を整える。
夕方の陽射しが、窓辺に柔らかい線を描く。
あたたかい音に満ちた家の空気の中で、リュディアの決意は、静かに形を持った。
◇ ◇ ◇
夕暮れの色が、研究室の窓硝子を薄く染めていた。
机の上には読みかけの草稿と、昼から飲まれずに冷めた茶。壁の振り子が、静かに時を刻んでいる。
扉が開く音。顔を上げたユリウスが、少しだけ困ったように微笑んだ。
「来てくれてありがとう。……しばらく時間を取れなくて、ごめんね」
それだけで、胸の奥に溜まっていたものがほどけかけた。けれど、逃げてはいけない。
リュディアは扉を閉め、机の前まで来ると、両手を揃えて深く頭を下げた。
「先生……わたし、謝らなきゃいけないことがあります」
ユリウスは椅子を引き、斜め向かいを指さす。急かさない、責めない視線。
腰を下ろした瞬間、膝の上の指が震えた。逃げずに言葉を置く。
「研究室の“草稿”……先生の理論、勝手に見ました。
少しだけ、のつもりで……でも、何度も。写して、持ち帰って。……ごめんなさい」
言い終えるまで、ユリウスは一度も口を挟まなかった。
長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐く。
「打ち明けてくれて、ありがとう」
叱責ではなかった。返ってきたのは、少し照れたような声だった。
「ここにある草稿は、理論の“途中”や書きかけが多くてね。本当は、まだ誰にも見せたくなかったんだ。未完成のままだから……」
ユリウスは肩をすくめて、やわらかく微笑む。
「もし気になるなら、今度は王城の研究室においで。今、“完全版”の論文をまとめているところなんだ。ちゃんと整えたものを、見てもらえるようにしておくよ」
その言い方が優しすぎて、胸の底で何かがほどけた。
リュディアの目から、つっと涙がこぼれる。
「え、あれ……? どうしよう、泣かせるつもりじゃ――」
ユリウスが慌てて引き出しを探り、ハンカチを取り出して右往左往する。
ユリウスは、ハンカチを差し出した手をそのまま机へ向け、引き出しの奥から薄青の紙束を一つ取り出した。背に「案」とだけ書かれている。
「……それでね。ひとつ、君にお願いがある」
声はさっきより少し真面目で、でも柔らかい。
「僕はいま、理論魔術の“入門書”を作っている。才能や血統に頼らないで、はじめて魔術に触れる人でも“小さな成功”にたどり着ける本。――けれど、どうしても僕の言葉は専門に寄りすぎる。図も、例えも、粗い」
紙束を開く。最初の頁には、目次のような走り書きが並んでいた。
「読み書きや算術の下地が薄い人でも、十刻……いや、半日で“灯りを一つ点す”くらいまでは行ける設計にしたい。だからこそ、言葉の選び方や、声のかけ方が要になる」
ユリウスはリュディアを見る。
「君の提出物や、他の生徒に教えるときの言葉の運びを見ていると、比喩の置き方や手順の組み立てがとても上手い。それに、聞くところによると孤児院で子どもたちの面倒も見ているそうだね。――“届く言葉”を選ぶ力は、たぶん僕より君のほうがある。どうだろう、いっしょに作ってくれないかな。」
胸の内で、何かが静かに跳ねた。
「……わ、わたしで……いいんですか?」
「最適だと判断したよ。理論を深く追える理解と、現場で“届く言葉”に変える力、その両方を持っているのは君だ。今回の件とは関係なく、前からお願いしようと思っていた」
ユリウスは少し照れたように笑い、紙束を押しやる。
「構成は叩き台だから、遠慮なく崩してほしい。図を増やすべきなら増やす。たとえ話も、君の目で選んで」
ページの余白には、子どもの字で書き込みができるよう大きめのマス。欄外には「よくある失敗」と「直し方」の欄。巻末の最初には、太い字で一行だけ――
人に向けない。自分と誰かを守るために使う。
喉の奥が熱くなった。さっきまで胸を締めつけていた罪悪感が、形を変えはじめる。
「……はい。やらせてください。わたし、やります」
言葉は震えなかった。自分でも驚くほどまっすぐに出た。
「ありがとう、期待してるよ。孤児院でも試して、反応を集めて、何度でも直す」
ユリウスはそこで言葉を継いだ。
「……それが形になったら、貴族の学校だけじゃなくて、孤児院や村の学び舎にも配りたい。文字や数をまだ怖がっている子にも届く本にする。今、その仕組みを王太子殿下とも相談しているところなんだ。最終的には、身分に関係なく、子どもが小さなうちから通える学校を――国中にね。もちろん、お金も仕組みもたくさん要る。そのためにも、僕自身がもっと成果を積み上げないといけない。だから……力を貸してほしい」
そう言って、安心させるように笑った。
リュディアは大きく息を吸い、うなずく。
(置いていかれない。――ううん、今度は、一緒に進める)
机の上の紙束が、少しだけ光って見えた。新しい仕事の始まりの光。胸の奥で、固く小さな決意が音もなく形になる。
◇ ◇ ◇
リュディアは胸の奥が軽いのを、自分でも驚くほどはっきり感じていた。――謝れた。ちゃんと話せた。サラとミラの顔が見たくなって、足は自然と孤児院へ向いていた。
石畳を曲がると、鉄の門扉の前に一人の影が立っている。
深緑の上着、やわらかな笑み――ルシアン。
「ルシアン。どうしたの? 入らないの?」
彼は振り返り、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「今日はね、君に話があるんだ」
声は穏やかで、それでもどこか別れの色が混じっている。
「実は……祖国に戻らなきゃいけなくなった。兄が病で急に亡くなって、家を継ぐ者が必要で、と。さっき文が来たんだ」
「……えっ。ルシアンって、よその国の……貴族様だったの?」
「そんないいものじゃないけどね。もともと継ぐのは兄で、僕は気ままにやってたんだ。この国も、ここでの毎日も、すごく気に入ってたよ」
門の内側から、焼き菓子の甘い匂いと、子どもたちの笑い声がこぼれてくる。
ルシアンは視線だけでその音のほうを見やり、静かに続けた。
「子どもたちには、さっきお別れを言ってきた。……あとは、君だけだ」
「そっか……寂しい、ね」
「うん。僕も寂しい」
言葉が空気に沈んで、小さな間ができる。
リュディアは息を吸って、まっすぐに言った。
「ルシアン、わたし……あなたには、とっても感謝してる。助けてもらったこと、いっぱいあるから。手紙、送ってもいい?」
彼は一拍おいて、困ったように微笑む。
「ごめん。しばらくは身分も立場も明かせない。手紙は……難しいと思う」
「そっか。……うん。なら、がんばってね」
「君こそ。リュディアは、もう自分で立てる人だ。誰かのために動ける人は、同じだけ自分も大事にしていい。――どうか、無理をしすぎないで」
言いながら、彼は小さく頭を下げる。
リュディアも同じように会釈した。言葉の代わりに、笑顔を返す。
「ありがとう、ルシアン。元気で」
「君も。……さよなら」
彼は背を向け、夕闇に溶ける通りへ歩き出した。足取りは軽く、でもどこか、区切りをつける人の歩き方だ。
門扉にもたれず、リュディアはしばらくその背中を見送った。
胸の真ん中で、きゅっと結び目がほどける。
(わたし、ちゃんと前を向ける。――もう大丈夫)
サラとミラの笑い声がまた響く。振り返って門を押し開けると、温かな匂いと光が彼女を包んだ。
◇ ◇ ◇
通りから一本外れた細い路地。
夕焼けがすっかり色を失い、影が濃くなった角で、先ほどの“ルシアン”が足を止める。
男の輪郭が、ふっとほどけた。
髪が黒く流れ、瞳に夜の光が宿る。
ミレーネ=クラウゼは、変装を解いた自分の指先をひらりと見せて、肩をほぐす。
「約束は――果たしたわよ」
誰にともなく、けれど確かに届くように。
唇の端に、満足そうな笑みを乗せると、彼女は外套の襞を直し、静かな夜の流れへと紛れていった。
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