第78話 闇に交わす密約

 油皿の火が小さくはぜた。

 棚の影がわずかに揺れる。結晶の陣は静かに脈を打ち、床に落ちた二人の護衛は浅い寝息だけを残して動かない。中央では、白い結晶の花に縫いとめられたマルヴが、目だけでこちらを睨んでいた。


 樽の陰で“男の声”が笑った、その直後――。


 リーネは返事をせず、指先だけをわずかに起こす。

 掌の内側で薄い膜がほどけ、無音の衝が形になる。放てば――沈む。そういう種類の術だ。


 その刹那、気配が消えた。


 影がくぼみ、音がひとつ抜ける。

 視線の端で黒がほどけ、次の瞬間、耳のすぐ後ろに温い吐息。


「からかってごめんね。……味方よ」


 低く作っていた男の声が、女の声に切り替わる。

 落ち着いていて、よく通る。冗談をひと欠片だけ含んだ声音。


 リーネの肩が反射で沈み、軸足が半歩ずれる。

 魔術の構築は止めた。けれど、もう片方の手はいつでも動く位置に置いたまま。結晶陣の輪郭はわずかに明滅を強め、拘束が揺らがないことを確かめる。


 背後の気配が、無害を示すように両手を広げた。


「驚かせたわね」


 耳元から離れて、ゆっくりと視界の前へ回り込む。

 帽子の庇が上がり、薄闇の中で輪郭がほどけていく。頬の影が浅くなり、喉の線が細くなった。肩幅がわずかに落ち、外套の内側で体つきがしなやかに変わる。声に合わせるように、偽の匂い――油と金属の混じった“男の匂い”が薄れていった。


「――解除」


 小さな囁きとともに、顔にかけていた薄膜がぬぐわれる。

 前髪が指先で払われ、素顔が灯りの輪へ出た。


 女だった。

 肩で流れる黒髪、若さと成熟の継ぎ目に立つ艶やかな美貌。凛とした目元に、どこか遊び心が灯る。動きは猫のようにしなやか――だが立ち位置はいつも退路を計算している、そういう人。


 リーネは一歩だけ引き、正面から見た。

 長居はしない構え。けれど、敵対の兆しはない。


 女は両手のひらをこちらへ見せる。

 空だよ、という合図をわかるようにゆっくりと。


「自己紹介が先ね。――ミレーネ=クラウゼ。魔術騎士団所属。はじめましてね、リーネちゃん」


 空気が一度、わずかに止まった。


 仮面の内側で、リーネの睫毛がかすかに揺れる。

(……名を、呼んだ)

 姿も声も、歩幅も匂いも消していた。なのに――。


「……【秘影の席】」


 はじめて、声に出す。囁きは細いが、芯はぶれない。


 視線だけで室内をさらう。結晶陣の縁は安定、拘束対象の呼吸は一定。出入口は三、足音なし。油皿の炎は静か。


 だが胸の奥では、驚きが小さく弾け続けていた。隠したはずの名を、正面から呼ばれたことへの、無言の警戒と戸惑い――そして、同時にわずかな安堵も。彼女が「敵」ではないと、直感が告げているからだ。


「安心して」


 ミレーネは声を落として、いたずらを打ち明けるみたいに微笑んだ。


 「あなたの動き、いま把握してるのは私だけ。報告もしていないわ。あなたが誰のために、どう動いているか――その“秘密”は、ここに置いていく」


 喉の奥で、リーネの息がかすかに引っかかった。


「……ユリウス先生にだけは……」


 言い切る前に、視線が床へ落ちる。懇願する形になるのは嫌だ。けれど、この件だけは譲れない。


「ええ、言わない」


 ミレーネは小さく笑い、肩をすくめる。


「大丈夫。かわいいお願いね」


 次の瞬間には、彼女の笑みの温度が変わっていた。目尻にだけ残る柔らかさを残して、口元が細く冷たくなる。

 視線の先――結晶陣に縫いとめられたマルヴへ、音もなく歩いていく。


「さて、あなた。ここからは私の番よ」


 樽影の空気がひやりと沈む。ミレーネは無造作に外套の裾を払うと、膝をつかず、目線を落としもしないまま、鋭い質問を投げはじめた。声は穏やかで、抑揚は一定。けれど、言葉が触れるたび、相手の抵抗が一枚ずつ剥がれていく気配がある。




 ◇ ◇ ◇




 油皿の火が、ふっと揺れただけで元に戻る。

 静けさが戻った地下室で、リーネはようやく息を吐いた。


 結晶陣は安定。拘束の角度がわずかに変わり、マルヴの肩から力が抜けている。彼の周囲に散らばるのは破れた封蝋片、指先でほぐされた布包み、帳場から抜き取られた控えの紐。

 誰の血も流れていない。ただ、その場の空気だけが、尋問という名の圧で少し重くなっていた。


(……早い。的確。容赦がない)


 ミレーネは何も乱していなかった。声も姿勢も、最初と変わらない。けれど彼女の手元には、さっきまで地下に隠れていた情報が、必要な順番で置き直されている。

 闇に慣れた獣が、必要なぶんだけ食べて去る――そんな印象。


「十分よ」


 ミレーネは指先で小さく弾き、最後の封蝋片を掌に収めた。


「――捕らえた連中は、こちらで引き取るわ。今この瞬間から魔術騎士団の案件に切り替える。あなたは手を汚さなくていい、リーネちゃん」


 彼女は壁際へ二度、乾いた合図を落とした。石と石の継ぎ目がわずかに息を吐き、細い影が二つ、音もなく現れる。黒衣の補佐たちは会釈ひとつで散り、床に伏す工作員へ封紋の枷をかけ、口元には“沈黙布”を軽く当てる。結界で眠らされた護衛騎士には、眠りを乱さない封印糸が手際よく掛けられた。


 ミレーネは肩越しに振り向き、ふと思いついたように笑った。


「ねえ、リーネちゃん。もし魔術騎士団を志すことがあったら、私を訪ねて。あなたなら――すぐに上へ行けるわ」


 その笑みは柔らかいのに、獲物を見定める獣の目をしていた。


「……考えておきます」


 苦笑が漏れる。断る言葉は選べない。逆らえば食われる、そんな直感が、背筋の奥を軽く撫でていく。

 けれど、不思議と嫌悪はない。彼女は敵ではない。むしろ、この夜を一緒に片づけるための“最良の刃”だ。


 小さく息を吸って、リーネは視線を落とした。


「あの……ひとつ、お願いが」


 リーネは近づき、仮面の縁を指で押さえた。言葉は炎の揺れに紛れるほど小さい。ミレーネは黙って耳を寄せる。短い沈黙ののち、彼女の指が喉元に触れ、声帯を確かめるみたいに軽く撫でた。続けて視線が、拘束された男の肩幅と背丈を一度だけ測るように往復する。


「……いいわ。やさしいのね」


 ひと言だけ、柔らかく。了解の合図に、ミレーネは口角をわずかに上げた。


 ミレーネは満足げに目を細め、外套の襞をひとつ整えた。


「捕らえた連中はこっちで引き取るわ。処理は任せて。――またね、ユリウスくんによろしく」


 油皿の火が小さく鳴る。

 リーネは仮面の下で短く息を合わせ、うなずいた。

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