第54話 仮面を被る知性

 ──揺れていた。


 身体が、静かに、しかし確かに軋むような振動に晒されている。


 ユリウスは、わずかに眉をひそめながら、まぶたを開けた。


 視界は、闇。

 目隠しだ──柔らかい布地がまぶたに密着しており、わずかな光すらも遮っている。


 喉が渇いていた。皮膚には乾いた空気が張りついている。

 そして──何よりも、重い。


 首と両手首に、金属の冷たい感触。

 わずかに力を込めると、じゃら、と鈍く鎖の音が鳴った。


「……魔力封鎖……魔術具か」


 声は掠れていたが、思考はすでに冴えていた。


 魔力の流れを確かめようと試みる──だが、首に巻かれた環状の魔術具が、内部の術式ごとすべてを封じ込める。まるで魔力が“そこに存在しない”かのような静けさ。


 ──完全に制限されている。


 声を上げても、返事はない。周囲の空気は密閉された空間を思わせ、かすかな革の軋みと車輪の回転音、そして蹄のリズムが、今の自分が“どこかへ運ばれている”ことを物語っていた。


「……」


 思考を、過去へと沈める。


 ──あのとき。

 ヴァルディエル家の使用人服を着た男。丁寧すぎる言葉遣い、整った所作。

 だが、目だけが笑っていなかった。

 母が倒れたと聞かされ、判断が曇った。今なら分かる。あれは明確なだった。


 王都を出た直後、同乗していたその男が突然手を伸ばし、ユリウスの身体に触れた瞬間──

 微細な術式が走り、雷のような衝撃が全身を襲った。


 意識が黒に沈みゆく直前、彼は確かに聞いた。


「おやすみなさいませ、先生」


 ──そして今、自分はここにいる。


 どれほど時間が経過したのかは分からない。

 だが、服は着替えさせられていない。肌の感触も、時間の経過を数日以上とは示していない。

 せいぜい、半日──あるいは、一日。


 それでも。


 馬車は、なお進み続けていた。




 それからの数日は、まさに“静かな拘束”だった。


 目隠しを外されることはない。

 魔術は一切使えず、扉のない空間の中で、ただ運ばれていた。


 食事の時間になると、扉の外から誰かが現れ、無言で口元にスプーンを運んでくる。

 何を食べさせられているのかも、わからない。味は淡白で、毒もなさそうだが、抵抗する術はなかった。


 言葉は交わされない。足音も最小限。話し声も、命令すら──ない。


 


 それが、この旅路のすべてだった。




 ──そして十日目の夜。


 やけに甘い香りのする水を飲まされ、その後の記憶はぷつりと途切れた。


 再び意識を取り戻した時──


 そこは、石造りの見知らぬ部屋だった。


 ──冷たい。


 石造りの床に背中を預けたまま、ユリウスはしばし動けずにいた。


 目隠しは外されていた。光のない天井、灰色の石壁、簡素な家具。空気はひどく乾いており、喉がひりつくようだった。 


 寝台に横たわる自分の身体は、衣服こそそのままだが、魔術封じの首輪と手錠は依然として残されている。足枷はない。だが、逃げ出せる構造ではないことは、わずかに動いただけで悟れた。


(……限界が近いな)


 心の底で、かすかにそう思う。


 十日間。目も耳も閉ざされ、言葉も交わさず、魔術も封じられたまま。

 味も匂いも色も、曖昧なものばかりだった。誰も応じてくれない世界に、ただ揺られ続けるしかなかった。


 “耐える”という行為は、何かを受け止めることではない。

 ただ、何もないことに身を晒し続けるということだ。

 

 意志が、侵される。


(……だが、まだだ)


 ゆっくりと体を起こし、床に足をつける。石の冷たさが皮膚に染みた。


 ……明らかに、見知らぬ場所だ。

 思考は、焦りではなく分析に向けられていた。

 王国の中か、国外か。


 ここからだ。重要なのは、情報。


 情報を得るには、まず──対話が必要だ。

 そして対話のためには、相手にとっての“理想的なユリウス”を演じる準備をしておかねばならない。


 静かな観察と、自制。


 その瞬間、カチリ、と金属音。

 唯一の扉が、外側からゆっくりと開いた。


 開いた扉の先から、まず二人の兵士が入ってきた。

 無骨な鉄鎧に身を包み、顔には仮面のような防具を装着している。視線は鋭く、動作に無駄がない。おそらく、儀仗ではなく実戦向きの訓練を積んでいる兵だ。


 そして、その後ろから一歩遅れて現れたのは──見覚えのある顔だった。


 ヴァルディエル家の使用人を名乗っていた、あの若い男。

 だが今の彼は、あの時の地味な装束ではない。

 漆黒の外套に、内側からうっすらと銀光を放つ繊維のような模様。明らかに、高位の魔術師に相応しい装束だ。

 目元には薄く笑みを浮かべ、両手を前に組み、静かに頭を下げてみせた。


「お目覚めのようで何よりです、ユリウス=ヴァルディエル様」


 柔らかい声音、過度な礼節、だが一歩も引かない距離感。

 ただの兵士ではない──いや、そもそも兵士ですらない。

 おそらくは魔術師、それも観察や対話を任された、“案内役”。


(……“ヴァルディエル様”、か)


 その呼称に、ユリウスの思考がわずかに揺れる。


 結婚後、公式の場では「ユリウス=ヴァレンティナ」が通称となっている。

 にもかかわらず、“旧姓”で呼ばれたということは──


(僕に関する情報は、最新ではない……少なくとも、最近の動向までは追えていない)


 つまり、彼らは王都の内部に深くは入り込んでいない。

 あるいは、正式な情報網を持たない“外部”……他国の可能性が高まる。


「君の名を聞いてもいいか?」


「申し訳ありませんが、私は単なる従属の身。名乗るには値しません。

 ただ、必要なことはすべて“シグル様”よりお伝えされるでしょう。……その前に、失礼を」


 男は振り返り、兵士の一人に短く言葉を投げた。


「報告を。“目覚めた”とだけ、簡潔に」


「はっ」


 兵士が静かに退出する。残ったのは、もう一人の兵士と男だけ。

 部屋には再び沈黙が落ちた。


 ユリウスは思考する。

 この男の態度は終始丁寧で、脅しや誘導といった類の強制はない。

 だが、情報は一切出してこない。話す内容は曖昧で、応答は形式的。

 ──つまり、“間を埋める”ための存在だ。時間稼ぎか、それとも警戒の緩和か。


「ここは……王国内ではない、のか?」


 ユリウスの問いに、男は相変わらず微笑を浮かべながら、わずかに首をかしげた。


「さあ……場所に関しては、私の口から申し上げるのは適切ではありません。

 ただ、少なくとも今、あなたが“保護されている”という事実だけは、確かでございます」


 保護──


 その言葉の裏に、誘拐犯の思想が滲んでいる気がした。


 やがて、再び扉がノックもなく静かに開かれる。

 男が一歩下がり、恭しく頭を垂れた。


「──お待たせしました。シグル=ファルネウス様です」


 足音は、恐ろしいほどに静かだった。


 入室してきた男──シグル=ファルネウスは、黒と青灰の装束をまとっていた。

 礼服に近い印象を与える長衣は、銀糸の文様によって魔術的な機能を備えつつも、華美には過ぎなかった。

 灰色の瞳は冷静そのもので、だが奥底にかすかな熱を宿している。

 彼は扉の前で足を止め、ユリウスと視線を交わし、それから軽く頭を下げた。


「ユリウス=ヴァルディエル殿。目覚めの折に、誠に無作法を働いたこと、深くお詫び申し上げます」


 口調は低く、誠実で、威圧の色はない。

 それでも、ユリウスの背筋には、ほんのわずかに冷たい汗が滲む。


 この男──只者ではない。

 言葉選び、所作、視線の向け方。そのすべてに“無駄がない”。

 おそらく、王国の上級貴族に匹敵するか、それ以上の政治的影響力を持つ人物。


 ユリウスは表情を保ちつつ、内心で深く深く息を吸い込んだ。

 冷静になれ。演じろ。観察しろ。魔術が使えぬ今の自分は、ただの子どもだ。


「あなたがどのような立場の方かは存じませんが、少なくとも丁重な扱いには、感謝します」


 軽く皮肉を込めた言い回し。シグルは、それを受けてわずかに笑んだ。


「ご不安でしょう。無理もありません。

 ですが、私としても、あなたに対して敵意を持って接するつもりは毛頭ありません。

 むしろ、ようやくお会いできたことを、深く嬉しく思っております」


「……僕の何をご存じで?」


「すべて、とは申しません。ただ、あなたが残した理論──それが私にとって、どれほどの衝撃であったかは、伝えておきたい」


 “理論”──やはり、それが目的か。

 ユリウスは内心でひとつ、項目に印を付ける。

 そして同時に、次の仮説を立てた。


 ──ならば、転移魔術のことはまだ知られていない。

 あれは公表していない研究領域だ。

 この男がそれに言及してこない限り、知られていない可能性が高い。


「……どこで、僕の理論を?」


「あなたの名は伏せられていましたが──私の手元に届いた論文のひとつに、あなたの構築した共振理論がありました。

 読み始めて、すぐに確信しましたよ。“ああ、これは……魔術というものを再定義する枠組みだ”と」


 表情に狂気はない。けれど、その熱には“理性を突き抜けた執着”がある。

 これが、ただの学者ではないとわかる所以だった。


「あなたは、論理と再現によって、我々の術を“語るべき言葉”に変えようとした。

 神託や霊感に頼らず、魔術を知に変えるという行為──私が二十年求めて届かなかった領域を、たった一人で見通していた」


 シグルの声は静かだった。

 だが、その語り口はまるで“啓示を受けた者”のように純粋だった。


 この男は危険だ、とユリウスは思う。

 敵意ではない。だが、“目的”のために手段を選ばない確信がある。


 だからこそ──利用する。

 こちらからも、“演じる”必要がある。


「……そこまで言われては、否定もできませんね。

 僕はただ、“仕組み”を知りたかっただけなんです。

 なぜ術が動き、なぜ式が破綻するのか──それを知りたくて」


 シグルの目が細くなる。

 ほんのわずかだが、そこに“喜び”の色が混じったのを、ユリウスは見逃さなかった。


「……それでこそ、です」


 シグル=ファルネウスはゆっくりと、静かに椅子を引き寄せて腰を下ろした。

 その所作一つひとつに、余裕と支配の感覚が滲む。

 この空間、この状況、この会話すら──すべてが彼にとってなのだと、態度が語っていた。


「恐れながら、私はあなたに問いを投げかけるためにここに参りました。

 これは尋問ではありません。説得でも、強制でもない。

 ただ、知りたいのです。あなたが“何を見て”、あの理論に至ったのかを」


「……あなたは、僕に何を期待しているんです?」


 ユリウスの声は静かだった。感情を抑え、努めて対等な距離感を保つ。

 だが、その胸の奥では言葉を選びながら、高速で計算が走っていた。


 この会話において重要なのは、真実ではなく印象だ。

 何を語ったかではなく、“どう語ったか”が、信頼と監視の線引きを決める。


 シグルはしばらく黙し、それから目を細めて言った。


「期待……というよりも、願い、でしょうか」


 その言葉に、ユリウスは目を細めた。


「……願い?」


「私はずっと探していたのです。魔術を真に語りうる言語を。

 宗教的象徴でもなく、民族的伝承でもない、“誰にでも届く論理”を。

 あなたの理論は、あまりにも美しく、そして、汎用的だった。

 だから私は願った。“この理論が、世界を変えてくれるのならば”と。

 そしてあなたに会い、共に歩むことができるならば──私は、そのためのすべてを用意する覚悟があります」


 信仰だ、とユリウスは即座に結論づけた。

 この男は理論に感銘を受けたのではない。理論にすがっているのだ。

 信仰の代替として、理性の衣をまとわせた“救い”を、彼はユリウスに見ている。


(“ファルネウス”……ザルグ=レヴェアの政庁で重職にある家名として、過去の記録に見覚えがある)

(加えて、この装束。形式は王国の礼服に近いが、肩章にあしらわれた文様──あれは聖導院所属者の紋様だ)

(そして、王都から馬車で十日の距離……)


ユリウスは静かに結論づけた。

(──ここは、ザルグ=レヴェア聖連邦。可能性は高い)


「……仮に、僕があなたの願うような存在ではなかったとしたら?」


 ユリウスの問いに、シグルはほんの少しだけ口元を歪めた。

 それは笑みとも、寂しさとも、諦観とも取れる表情だった。


「それでも構いません。理論が本物ならば、担い手が誰であろうと関係はない。

 けれど──できれば、あなた自身がそのまま“器”であってほしいと願うのは、私の我儘なのでしょうね」


 器。

 つまり、ユリウスという人間よりも、理論の具現者としての価値を見ているということだ。


「……では、その願いに応えるために、僕に与えられる自由は?」


 「段階的に、ですが、あなたには研究環境を提供します。

 必要な道具、文献、助手も手配しましょう。

 ただし、一定期間は監視下での行動となります。それはご理解ください」


 ユリウスは即答せず、沈黙のまま視線を床に落とした。


 ──ここは、他国の施設。

 外部からの救出は望めない。物理的脱出も、魔術が封じられた状態では不可能。仮に使えるようになったとしても、強行突破はあまりにも危険。

 であれば、最も可能性が高いのは──。


 そのためにはまず、信頼される人物として振る舞い、

 研究施設への移送を許され、魔術を使える環境を確保すること。


「……わかりました。あなたの願いに、応える努力をしてみます」


 それは、同意ではなかった。

 だが、シグルにとっては十分な“言質”だった。


 その目が細く、満足げに緩んだのを、ユリウスは見逃さなかった。


「ありがとう、ユリウス=ヴァルディエル殿。

 あなたがそう言ってくださっただけで、私はこの数ヶ月の準備が報われた思いです」


 シグル=ファルネウスは深く、丁寧に頭を下げた。

 高位の魔術官、それも他国の要人が、誘拐した相手にここまでの礼を尽くす。

 その異常さに気づかぬふりをして、ユリウスはただ静かに頷いた。


「……では、その“研究環境”とやらについて、いくつか確認したいことがあります」


「ええ、もちろん。今はまだ詳細をお伝えする段階ではありませんが、明日には整います。あなたの求める器具や文献についても、可能な限り整備させましょう」


 笑みを崩さずに語るシグル。その言葉の背後に、油断も隙もない。

 ユリウスはそれを認識しながら、同じく笑みを返す。


「ありがたい申し出です、シグル殿。……ですが、私の研究には、極めて繊細な条件が必要です。器具や文献の整備もさることながら、最も重要なのは――自由な思考と、干渉のない空間です。それが確保されるのならば、私はあなた方の期待に応える用意があります」


「……ええ、その点については、私も重々承知しております」


 シグルは柔らかな口調を保ったまま、言葉を続ける。


「知とは、拘束では磨かれません。ましてや、あなたのような“思考する理論そのもの”に、不要な干渉は逆効果でしょうから」


 静かに笑みを浮かべながらも、その声には一分の油断もなかった。


「ただ──申し上げにくいのですが、上層の一部には、あまりに早い段階で“自由”を与えることに慎重な意見もございます。いえ、誤解なきよう。あなたの才に疑念があるのではなく……あまりにも価値が高すぎるのです、あなたは」


 そう言って、シグルはほんの少しだけ首を傾げた。まるで“観察者”の視線だった。


「私個人としては、あなたの研究に最大限の環境を整えることが使命だと信じております。ですが、これは組織という“構造体”の中での話。……まずは、いくつか小さな成果を拝見できれば、環境の整備もより迅速に進むでしょう」


 ユリウスを“試す”意図があることを、あえて曖昧にして。


「それが、あなたにとって不自由ではないことを願っておりますよ、ユリウス殿。……あなたの才が“証明”された暁には、すべてはあなたの思索のために捧げられるでしょうから」


 その瞬間、視線が一瞬だけ交差する。

 互いに、互いの底を測ろうとするような――知性と知性の探り合い。


 だがそれも一拍で終わり、シグルは穏やかに立ち上がった。


「本日はお休みください。明日、あらためて環境をご案内します」


「了解しました。……ご配慮に、感謝を」


 シグルが退出し、黒銀の装束の男が一礼し、扉が静かに閉まる。


 その瞬間、ユリウスはようやく、ほんの少しだけ息を吐いた。


 ──わかったことは多い。

 ここはザルグ=レヴェア聖連邦。その中に位置する研究施設。

 シグルは魔術制度の上層におり、私兵団を率いる実力者。

 そして彼らは、ユリウスの理論を“武器”として、あるいは“信仰”として、自国に取り込もうとしている。


 幸い、転移魔術の存在は感づかれていない可能性が高い。

 この一点だけは、最大のアドバンテージだ。


 研究室の座標――ローカス・アークの環境構成は、頭に刻み込んである。

 けれど、ここであの精密な術式を発動させるには、環境、演算補助――多くの条件が必要だ。


「……時間がかかる。だが、できる」


 ユリウスは静かに目を閉じる。

 思い浮かべるのは、カティアのこと。両親のこと。仲間たちの笑顔。


 心配させているに違いない。だが、自分は生きている。そして、帰るつもりでいる。


 そのために、いま自分がすべきは一つ。


「彼らの望む“仮面”をかぶる。その先に、僕の自由があるならば──喜んで演じてみせよう」


 閉ざされた部屋の中、ユリウスは静かに、だが確かに決意した。

 それは敗北ではない。

 知性が選んだ、生還への第一手だった。

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