幕間 定義なき世界に秩序を
王都から西方の山嶺に、常に霧のたちこめる地がある。
その名を――ザルグ=レヴェア聖連邦。
渓谷に抱かれたこの国家は、俗世と隔絶された天空の学び舎にして、信仰の都。古来より「神託の交差点」と呼ばれ、理と霊の両極を併せ持つ土地として知られていた。
その中枢に立つ三柱の権威。
一つ、【神階院】――啓示と霊的指針を司る、神語者たちの集う聖域。
一つ、【聖政庁】――国政と軍権を握る世俗の統治機関。
そしてもう一つ、【聖導院】――魔術の理論と応用、体系化と教育を担う“知の中枢”。
“理論魔術”という思想は、かつてフェルマティア王国をはじめとする諸国でも一時は栄えたが、幾度もの戦乱と信仰改革の波に飲まれ、多くの地で歴史の闇に埋もれていった。
そうした中でも、比較的その痕跡を制度として残していたのが、このザルグ=レヴェア聖連邦である。
もっとも、それはあくまで“制度上”の話だ。
信仰と学問が混淆するこの国では、魔術は今なお“神より賜る啓示”と捉えられ、論理よりも直観や霊感が優先されることが多い。
魔術を理論で定義しようとする試みは一部の学匠層に息づいてはいたが、国家全体の空気としては傍流に過ぎなかった。
――それでも、消えなかった。
どこかでかすかに燃え続けていたその熾火を、再び焚き上げようとしていたのが一人の男である。
その聖導院、最奥の塔にある評議会の円卓に、ひときわ異彩を放つ姿があった。
シグル=ファルネウス。四十二歳。冷ややかな灰の瞳と、夜霧のように艶のない長髪を後ろで束ねた男。
学務枢席――すなわち、国家の魔術理論構築を統べる席を預かる者。
彼こそが、古き“理論魔術”の残響を引き継ぎ、それを再興しようと試みてきた数少ない知の異端者であった。
彼の手は今、重厚な革表紙の魔導書の上を静かになぞっていた。
内容は、従来から語り継がれてきた“聖印重複式”と呼ばれる典礼魔術の応用法。だが、その指先にわずかに現れる微かな震えは、嫌悪に近い感情の現れだった。
――また、詠唱と感応に頼る未定義の応用か。
それでは、偶然の産物を模倣しているに過ぎない。
シグルはかつて、熱心な体系構築主義者だった。
神託や感応に頼らず、すべてを式と理論、再現性のある構造によって魔術を成り立たせる。
それが“知”のあるべき姿だと信じていた。
だが、現実はどうだ。
この聖連邦においてもなお、魔術とは神の贈り物、あるいは神語の器であり、論理より信仰が優先されるのが実情だった。
霊感の強さや“奇跡の再現率”ばかりが評価されるこの国で、彼の理論は理解されず、しばしば異端とすら呼ばれた。
それでもシグルは信じていた。
魔術は定義できる。世界の
だが、彼の構築は、どこかで限界に突き当たっていた。
体系はある。式もある。だが、足りないものがある――
なにか、すべてを貫く「根源の仮説」が。
◇ ◇ ◇
それは、ある静かな晩春の日のことだった。
「評議会用の資料に紛れて、変わったものが届きましたよ」
そう言って、若い助手がシグルの机に封筒を置いていったのは、午後の陽が傾きかけた頃だった。
書簡に添えられた注釈には、こうある。
――【聖衡の市】にて、販売されていた論考とのこと。ご興味があればご一読を。
包装は簡素で、灰紙の封筒に古い蝋印が押されている。紋章は不明。内容も不明。
しかし、目に飛び込んできた題名の文字列に、シグルのまなざしが止まった。
表紙に記された論題は、ただ一行。
──【魔力場共振理論】──
無署名。言葉は平明、数式は冗長でなく、だがその背後に潜む思想は、あまりにも異質だった。
添えられていたのは、印刷された本文と、別紙に記された一節。
──「真なる共振は、場の揺らぎに等しき証明を与える」──
誰の言葉かもわからない。研究者の間で口伝されていた理論草稿が、何らかの経路でまとめられ、流布されたものかもしれない――
そんな可能性を、シグルは一瞬だけ考えた。
だが、読み進めるうちに思考は静かに停止していく。
最初の数行で背筋が正され、十頁を過ぎた頃には手が止まり、終盤に差し掛かる頃には心拍数の上昇を意識するほどだった。
──この理論は、魔力の本質を“場”として捉える。
それは、魔力を粒子や流体ではなく、空間に遍在する“状態変位の揺らぎ”と定義する画期的な視点だった。
さらに、複数の魔術が同一空間内で“共振”する場合の干渉パターン、干渉を抑える位相調整、術式の固定化に必要な安定基準……
読めば読むほど、それはシグルが求めてきた“根源仮説”に近づいていく。
そして、最後のページの末尾に、こう記されていた。
──「本論は公開にあたり、出自を問われることを望まず」
それだけだった。
「……誰だ、これは……」
独り言のような問いが漏れる。だが、その声は震えていた。
これは、偶然手にした“理論”ではない。
新たな世界の地図――それを握らされたに等しい衝撃だった。
呟きが漏れる。
だが次の瞬間には、そんな問いすらどうでもよくなっていた。
この論理は、再現できる。
この理論は、魔術を“定義可能な知”へと変える。
つまり、彼が長年求めてきた“魔術の再編”を、たった一人の筆者が、理論だけで成し遂げている。
その衝撃は、信仰にも似ていた。
いいや、これは信仰ではない。これは“確信”だ。
世界を再び、書き換えられるのだ。
シグルはその晩、机に向かい続けた。
論文の全数式を再検証し、変数の定義を照合し、既存の自身の魔術理論と突き合わせ、接合点を探した。
──“これは、世界そのものを書き換える言語だ”。
夜が明ける頃、シグルの眼には深い隈が浮かんでいたが、彼の精神は研ぎ澄まされていた。
彼はそれを“発見”と呼ばなかった。
“啓示”と呼ぶには理性が勝ちすぎていた。
ならばこれは、“定義”だ。
新しい世界の、はじまりの一文。
彼の中で、何かが決定的に変わっていた。
ユリウス=ヴァルディエル。
聖導院の内密調査によって、その名がついに割り出された。
王都学術院、現在は教授職に就いているという。
齢十五。成人したばかりの若者にして、王国最上級の学術機関に名を連ねる存在――常識では計り知れぬ異端の経歴。
だが、その発表論文と論証の内容を見れば、むしろその“若さ”こそが理論の純度を裏付けていた。
彼は既に、魔術体系の“再定義”を可能とする構造的観点を備えていた。
しかもそれは、感性や閃きではなく、厳密な数式と物理法則の裏打ちを持つ真なる理論として。
「年若き存在だからこそ、まだしがらみに染まっていない。
そしてだからこそ――こちらが先に、手を伸ばす意義がある」
静かな部屋で、シグルはそう呟いた。
その目はもはや、誰にも止められぬ確信に満ちている。
その翌日、【聖導院上枢評議会】が召集された。
神階院から一名、聖政庁から一名、そして聖導院の七名で構成される、連邦最高意思決定機関。
その円卓にて、シグルは静かに立ち上がった。
「本日は、“知の保全”に関する緊急提案を上奏いたします」
周囲がざわめくことはない。彼が何かを提案する時は、必ずその背後に“結果”が伴うことを、全員が知っていたからだ。
「諸君。いま、我々が見過ごそうとしている存在がいる。
王都学術院に在籍する、ユリウス=ヴァルディエルという青年だ」
数名の評議員が、名に聞き覚えがないといった表情を浮かべる。
それも当然。ユリウスは正式な論文誌にはまだ名を連ねておらず、その理論もごく一部の研究者間でしか知られていない。
だが――
「彼は、【魔力場共振理論】の筆者であると目されている」
その一言で、室内の空気がわずかに引き締まる。
「もし、それが事実であるならば?」
「それが我々に、どのような影響を?」
座席のひとつから、問いが投げられる。
シグルは一歩前へ出た。
声音は低く、けれど一語一語が重い。
「……それは、“世界”の再定義に等しい。
神託の背後にある構造を暴き、術の根源を証明し、我々が『感じる』ではなく『知る』ことで魔術を操る時代の到来を告げている」
「我々がこれを見逃せば、次にそれを手にするのは他国だ。
そしてその時、我々は後悔するだろう。
――“なぜ、あの青年を保護しなかったのか”と」
数秒の沈黙。
そして、一人、また一人と視線が彼へと集まる。
「この行動は、拉致ではない」
「彼の理論を守るための保全措置である」
「我らは、理論の宿主を保護し、その理論を真なる地平へ導く責務を負っている」
その熱は、狂気すれすれの信念。
だがその裏打ちは確かな成果であり、評議会の誰もそれを否定できなかった。
「諮問の上、特例措置として承認」
「実働部隊には【聖響の衛士】を用い、交渉が失敗した場合のみ、非破壊的制圧を認可する」
静かに言い渡された裁定。
シグルは深く一礼し、円卓の影に身を引いた。
――これで、舞台は整った。
あとは、彼を迎えるだけ。
夜が訪れると、ザルグ=レヴェアの山々はすっかり霧に包まれる。
遠い鐘の音さえも霞み、風も囁き以上のものを許さぬ静けさ。
そのなかで、ただ一つだけ、塔の最上階だけが燈を点していた。
シグル=ファルネウスは、魔導書を閉じ、椅子から立ち上がった。
机の上には、今しがた書き終えたばかりの指令書が置かれている。
表題には、朱の印で刻まれていた。
――「術理的保全対象、接触及び確保命令」。
彼は窓の方へ歩み、緩やかにカーテンを払った。
高地に浮かぶ月が、まるでこの聖域を見下ろす神の眼のように、白々と冷たく照らしていた。
「……ユリウス=ヴァルディエル」
その名を、小さく、しかしはっきりと口にする。
「君の思考が、この世界に“定義”という輪郭を与えた。
それは、我々の聖典よりも明確で、理の教えよりも誠実だ。
だが、それはあまりにも危うい」
言葉は独白というには理知的すぎて、懺悔というには冷静すぎた。
ただただ、事実を静かに述べる声――淡々と、しかし底のない確信をもって。
「だからこそ、君をこの手に迎える。
世界を編み直す糸として、あるいは、“神”として」
そう告げる彼の表情は、敬意と渇望と、そしてわずかな焦燥すら帯びていた。
彼の背後、扉の向こうにはすでに【聖響の衛士】が待機している。
黒銀の装束を纏い、術式刻印の浮かぶ制御盤を手にした兵士たちは、ただ一言の命令を待っていた。
シグルはその気配に振り向きもせず、ただ短く命じた。
「……動け。
神を迎える準備を」
その声が、塔の最上階から、山を下り、連邦全域へと、
やがて世界の“定義”そのものへと、静かに響いていった。
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