第16話 歩み出す者

 十五歳の誕生日の朝。

 ユリウス=ヴァルディエルの私室には、静寂を震わせるように、旅支度の微かな音だけが満ちていた。


 積み上げられた研究ノートは、どれも角が擦り切れるほど読み返されたものばかり。

 携帯用に改良した小型魔力計は、少年の工夫と執念の結晶。

 リオネラが幼い頃から肌身離さず持たせてきた護符は、年月を経てもなお柔らかい光沢を宿していた。


 そして、机の端に整然と並べられた書簡の束――

 【魔力場共振理論】をはじめ、十年間で生まれた数々の草稿、それら全てが歩んできた年月の重さを静かに物語っていた。


 朝の光は無垢で、しかし確かに大人の影を落としている。

 その柔らかな金色の光を浴びながら、ユリウスは最後の荷を詰め、そっと息を整えた。


 鏡に映る自分を、ふと見つめる。


 銀髪は肩へと滑り落ちるほどに伸び、幼児の丸みは消え、洗練された流線へと変わっていた。

 瞳はあの頃より深い色を宿し、魔術理論を語るときの鋭さと、日常の柔らかさの両方を秘めている。

 仕立て直した青灰の上衣は、少年ではなく青年の輪郭を浮き彫りにし、華奢ではありながら鍛えられた体躯が、まっすぐに伸びる背筋を支えていた。


 五歳のあの日、緊張で声を震わせていた少年――

 その姿はもう、どこにもいない。


 代わりにそこにいるのは、自らの理論で世界へ挑もうとする、だった。


 荷を閉じた瞬間、軽いノックよりも先に扉が静かに開いた。


「ユリウス、準備はできた?」


 母リオネラが、朝の光を纏って入ってきた。

 変わらぬ温もりを湛えた表情。しかし、その眼差しには隠せない誇らしさが滲んでいる。


「……はい。もう大丈夫です」


 ユリウスが振り返ると、リオネラは胸に手を当て、ゆっくりと目を細めた。


「まあ……こんなに立派になって……。王都へ向かうのに……緊張しているのかしら?」


 柔らかな問いかけ。

 しかし、ユリウスは真正面からは答えられなかった。


「緊張……していない、と言えば嘘になります。

 王都魔術学術院・総合学術公開会議コロキウム・フェルムは、誰もが憧れる舞台ですから」


 リオネラは頷きながら、説明を添えるように微笑んだ。


「ええ。あの会議はだものね。

 名家かどうかなんて関係なく、事前に提出された研究概要だけで選抜される……

 実力本位の場だわ」


 その言葉を聞き、ユリウスの胸にわずかな熱が灯る。


 ――《コロキウム・フェルム》は、王都魔術学術院が主催する最大規模の公開学術会議。

 魔術、生体学、歴史学、工学、神秘学――分野の制限はなく、国内の学識の未来を示す研究が毎年選ばれる。


 応募者は百人を超え、その中から選ばれるのは、ほんの十数名だけ。


 家柄も年齢も関係ない。

 ただ純粋に提出された研究内容の価値だけで審査される。

 無名であっても、十五歳であっても、真に学問足りうると認められれば招待される。


 だからこそ――


 名前を売ってこなかったユリウスでも、いや、むしろ名前などなくとも、彼が積み重ねてきた理論そのものが評価されたのだ。


「……そうですね。幸運でした」


「いいえ、違うわよ、ユリウス。

 あなたが選ばれたのは――あなたの力が、本物だったからよ」


 リオネラのその声は、母の優しさ以上の何かを含んでいた。

 十年間見守ってきた者にしか分からない、誇りの色。

 

(……カティアさま。

 あなたに胸を張れる自分でありたい――)


 十年前、初めて胸を締め付けた感情は、時を経てなお、彼の行く道を照らす灯火であり続けていた。


 そんな息子の心の揺れを、リオネラはすべて見透かしているようだった。


「そういえば……アリウスが呼んでいましたよ。

 出発前にどうしても話しておきたいって」


「……父が?」


 リオネラは小さく微笑んだ。


「あの人ね……あなたがあまりにも大人になってしまったから、少し寂しいのよ。

 だからこそ、大切な言葉を渡したいのだと思うわ」


 リオネラにそっと背中を押され、ユリウスは静かに父の書斎へと歩み出した。


 ◇ ◇ ◇


 扉を押し開けると、書斎に満ちていた静寂がわずかに揺れた。

 アリウスは、卓上の分厚い本を閉じると、椅子を引き立ち上がる。

 以前よりこめかみに白髪が混じり、目許には疲れの影が刻まれつつあったが――

 その背筋は若い頃と変わらず真っ直ぐで、揺るぎない当主の威厳を宿していた。


「ユリウス……よく来たな」


「父上。ご用件とは」


 アリウスはしばし息子の全身を眺め――

 成長を確かめるように静かに目を細めた。


「十五年……随分と大きくなった。

 そして、見事に育った。

 お前が歩もうとしているその道を、私は誇りに思う」


 低く、重い声。

 この父が、めったに感情を言葉に乗せないことをユリウスは知っている。


「……ありがとうございます」


「今回のコロキウム・フェルムは、王国の学問が一堂に会する場だ。

 そこで発表するということは――お前の名が、世界の学術史に刻まれるということでもある」


 アリウスの視線には、わずかな不安と、それ以上の期待が混じっていた。


 ユリウスは小さく息を整え、静かに頷く。


「覚悟は、できています」


「そうか。それなら――ひとつだけ言っておきたい」


 アリウスは数歩近づき、迷いのない手でユリウスの肩に触れた。

 その掌は厳しくも温かく、父としてではなく先人として置かれたものだった。


「家のことは気にするな。

 領地の政務も、家族の暮らしも……ライナルトが支えてくれる。

 お前は後ろを振り返らなくていい。

 ただ、自分の進むべき場所へ向かえ」


 胸が――締めつけられるように熱くなる。


「父上……」


「ユリウス、お前はだ。

 ここで閉じてしまうには惜しい。

 自分の見つけた理を信じ、歩みたい道を歩め。

 たとえそれが、家を遠く離れる道だとしても」


 その言葉は、

 家族の束縛ではなく、

 そのものだった。


(……僕は、なんて恵まれているんだろう)


 前世での孤独は、もうどこにもない。

 今は、背中を押してくれる父がいて、寄り添う母がいて、支えてくれる兄姉がいる。

 そして――十年前、胸に宿った小さな誓いが、今も静かに燃えている。


「父上。

 僕は、この世界の魔術を……根本から解き明かします。

 誰も見たことのない仕組みで、必ず証明してみせます」


 アリウスの口元が、僅かにほころんだ。


「行け、ユリウス。

 お前が進む先に――新しい魔術の時代がある」


 書斎を出るとき、扉が静かに閉まる音がした。

 だがその音は、別れではなく、門出を祝福する鐘のように聞こえた。


 十五歳の少年ではなく――

 が歩き出す。


 十年前の手紙に刻まれた願いを胸に。

 そして、時代を変える理論を携えて。

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