第15話 静かな革命のはじまり
あの別れの日から、五年が過ぎていた。
十歳になったユリウスは、早朝の書斎で一冊の厚い原稿を前にしていた。
窓から差す淡い光が、机の中央に置かれた原稿の題名を照らしている。
――【魔力場共振理論】。
五年間の観測と実験の果てに、ようやく形になったものだった。
ページの端に触れる指先がかすかに震える。
(ようやく……ここまで来た)
五歳のあの日。
カティアの手紙には、十年かけて自分は学び、背負うべきものを整える。その間、距離を置きたいと記されていた。
それは幼いユリウスにとって衝撃であり、同時に心を燃え立たせる火種になった。
彼女にふさわしい存在になりたい。
彼女の歩く未来に、並び立つことのできる人間になりたい。
そのために――ユリウスはひたすら魔術という世界の理を追い続けた。
この五年、既存の魔術理論には頼らなかった。
魔術学院の教本も、各地の学派の主張も、全ては曖昧な言葉で塗り固められた不確定な常識に過ぎなかった。
ならば、自分で観測し、自分で組み立て、自分の理屈で証明しなければならない。
その結果、ユリウスが辿り着いたのは、この世界の魔術観を根本から覆す結論だった。
魔力は術者の内部だけにあるのではない。
空間そのものが、微弱な魔力の揺らぎで満たされている。
術者が魔術を行使するのは、自分の力で現象を直接生むためではなく、空間の魔力場に共鳴を起こすためなのだ。
その考えに至った瞬間、世界の輪郭が変わったように思えた。
術者の魔力が空間に触れたとき、局所的に生じる小さな魔力場。
その波形が空間の揺らぎと一致すると、周囲の魔力場全体が一斉に同調し、莫大な外部エネルギーが引き出される。
そして術式の本質とは、現象を作る図面ではなく、空間を正しい揺らぎへ導くための誘導手順なのだ。
(魔術は資質ではなく構造だ。
そして術者は、世界に働きかける起点に過ぎない)
ユリウスは、自分の中で確かな手応えを感じていた。
この論文は必ず誰かの目に引っかかる。
魔術学の停滞に鬱屈した者なら、必ずこの理論に反応する。
その時、書斎の扉が静かにノックされた。
「入るぞ、ユリウス」
アリウスが姿を見せた。
厳つい表情は変わらないが、どこか柔らかな光が宿っていた。
「……書き上げたようだな」
「はい。ついに完成しました」
アリウスは原稿を手に取り、数ページめくった。
目線の動きは厳密で、専門家としての眼差しそのものだった。
「やはり、お前は魔術を別の学問として見ているな。
力でも家柄でもなく、現象として捉えようとしている」
「五年前……父さまが言ってくれた言葉を覚えています。知は閉じれば腐る。外へ出せと」
「そんなことを言ったか、私が?」
「言いました」
アリウスは、ほんの少し視線を逸らした。
「……覚えていないな。だが、お前が覚えているなら、その言葉には意味があったということだろう」
彼の声は小さく低かったが、確かな誇りが滲んでいた。
「ユリウス、お前の理論は、この家の壁に収めておくには惜しい。
名前を出せば歳で軽んじられる。だから――無名で出せ」
「無名で……?」
「理論そのものに価値があれば、必ず誰かが拾い上げる。
雷は、最初の小さな火花から世界を変えるものだ」
アリウスの不器用な激励に、ユリウスの胸がじんと熱くなる。
(僕は……父さまに、ずっと支えてもらっていたんだ)
「父さま。僕、送ります。
この世界に、僕の考えを放ちます」
「……ああ。行け、ユリウス」
ユリウスは原稿を数通の封筒に収めた。
宛先は王都魔術学術院、地方研究院、貴族学校――
各地の誰かの手へ届くように。
(カティアさま……僕は、あなたと出会った日からずっと、前へ進んでいる。
五年後、胸を張ってあなたに会えるように――)
投函する封筒を抱え、ユリウスは静かに立ち上がった。
十歳の少年が、世界へ初めて自分の声を放とうとしていた。
◇ ◇ ◇
ユリウスは数通の封筒を胸に抱えながら、屋敷の外れにある「書簡集配所」へ向かって歩いていた。
王国の各地へ文書を運ぶための、公的な連絡拠点。
旅人や商人が立ち寄ることも多いが、ほとんどは王都へ向かう馬車便の荷扱いが主目的だ。
石造りの小さな建物が、午後の陽光に照らされて穏やかに佇んでいる。
初めて来る場所ではなかったが、今日ほど胸がざわつく日はない。
(ここから……僕の理論が、世界へ出ていくんだ)
扉を押し開けると、帳簿をめくっていた係官が顔を上げた。
年配の男性で、ユリウスを見ると軽く目を細める。
「坊ちゃん、今日はまた随分と真剣な顔だな。書簡の取扱いかい?」
「はい。これを……王都の学術院や各地の文庫、研究所宛てに送りたいんです」
ユリウスは両手で封筒を差し出す。
係官は一通ずつ宛名を確認し、ふと眉を寄せた。
「おや……差出人の名前が書かれていないが、大丈夫かい?
学術院向けの文書だと、記名がないと戻される場合もあるが……」
ユリウスは一瞬だけ迷ったあと、しっかりと顔を上げた。
「はい。差出人名は、このままで……記さないでください」
「……ほう。匿名で通す、というわけだな?」
係官の声音は驚きよりも、どこか探るような響きを帯びていた。
「はい。事情があって……どうしても記名はできないんです」
「なるほど。訳ありってことだな。まあ、内容が正式な書簡であれば扱いに問題はない。
宛所はしっかりしてるし、封蝋も丁寧だ。預かろう」
そう言って、係官は特製の防護箱にユリウスの封筒をそっと入れた。
封筒が落ちぬよう丁寧に紐をかけ、記録帳に控えを取る。
「正午の王都行き便に積んでおくよ。名はなくとも、届けるべき先には必ず届く」
その言葉に、ユリウスの胸がふっと熱くなった。
もう後戻りはできない。
この【魔力場共振理論】は世界に放たれ、誰かの目に触れる。
嘲笑されるか、無視されるか、あるいは――何かが動き出すかもしれない。
だが、それでいい。
係官から受領印の刻まれた木札を受け取り、ユリウスは小さく頭を下げた。
外に出ると、馬車置き場から馬のいななきが聞こえてきた。
荷台に積まれた木箱たちの隙間で、自分の封筒がどこかに紛れ込んでいるのだと思うと、不思議な感慨が胸を締めつける。
(……行ってこい。僕の代わりに)
馬車便の旗が風に揺れた。
まるで送り出す儀式のように。
(これで……いい)
五年前。
カティアは自分の未来のために距離を置いた。
ユリウスは幼いながら、その誠実さと覚悟に触れたからこそ、胸の奥がずっと静かに燃え続けていた。
彼女は言った。「十年かけて、私はすべてを手に入れる」と。
ならばユリウスは――もっと早く、自分の場所を掴みに行く。
(自分の力で証明するんだ。
この世界を理解できるということを)
魔術は形骸化し、理論は止まり、誰も本質を探ろうとしない。
ならば、自分がその扉を叩く。
風が頬を撫でた。
十歳の少年の顔に、不思議なほど落ち着いた影が差す。
(僕は――この世界を解き明かす)
馬車置き場の奥で、王都へ向かう便の準備が進んでいる。
その荷に混ざるように、ひっそりと、けれど確かな存在感を持った無名の論文が積み込まれていく。
ユリウスは振り返らず歩き出した。
未来に向けた第一歩を、静かに、しかし確かに踏み出したのだった。
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