第二話「メイドは憂鬱な朝に迷う」(シャル視点)

朝が来るのが、怖かった。

窓辺に揺れるカーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中をほんのりと暖めていくのを感じながら、私は今日も深く息を吐いた。

「……行きたくないなぁ」

誰にも聞かれないよう、囁くような声でそう呟く。

侯爵家の朝は早い。朝食前にお紅茶を準備し、坊ちゃまのお部屋へお運びするのが私の仕事。いつも通りの、日常のはず。

でも私は知っている。

この“日常”が、どれほど精神をすり減らすものか。

坊ちゃま――レオン・ヴァルトライヒ様は、いつも不機嫌だった。

何かにつけて不満を口にし、使用人に当たり散らす。

お紅茶の味が気に入らなければ平気で捨てられ、たとえ献身的に尽くしても、「当然だ」と見下した目で言い捨てられる。

最初は怖かった。泣いたこともある。

でも、メイドという立場である限り、逃げ出すわけにもいかない。

私は、逃げられない事情を抱えているから。

(……そんなこと、思い出すだけ損か)

自分を奮い立たせるように、トレーを手に取る。

本朝のお紅茶は、ローズヒップにアッサムを合わせた少し香りの強いブレンド。今日は坊ちゃまの誕生日だったはず。だから、ほんの少しだけ、いつもより丁寧に淹れた……気がする。

別に媚びるつもりなんか、ない。

お仕事だから。これは、ただのお仕事。

「行ってきます」

トレーを両手にそっと持ち直し、自分自身に言い聞かせるように呟いて、私は坊ちゃまの部屋へと向かった。

***

「……おはようございます、坊ちゃま」

いつも通りの一言。扉をノックして、返事がないことを確認してから、そっと中へ入る。

ここまでは、何度も繰り返してきた朝の一幕。今日も同じ……と思っていたのに。

「……あ、おはよう。シャル」

「っ……!」

心臓が飛び跳ねた。

聞き慣れない声。

坊ちゃまの声なのに、違和感があった。

まず、声が柔らかかった。

怒っていない。責めてもいない。

むしろ……優しい?

(えっ? えっ?)

思わず足を止め、目が泳ぐ。

(なに今の!? 坊ちゃまが、私の名前を……呼んだ?)

思い返してみれば、今まで直接“シャル”なんて呼ばれたことがなかった。

せいぜい「そこのメイド」とか「お前」で済まされてきたのに。

どうして……どうしてそんなふうに呼ばれるだけで、こんなに戸惑ってるんだろう。

「……っ、し、失礼しました」

慌てて言葉を取り繕って、トレーを運ぶ手元に集中する。

何もなかったように。あくまで使用人として、淡々と。

――でも、ダメだった。身体が固まって、胸がざわざわして。

(坊ちゃま、何かおかしい)

いや、いい意味で“おかしい”のかもしれないけど。

目つきも違うし、口調も違う。

何より……あの、うっすら笑っていたのが、今でも信じられない。

「こちら、本朝のお紅茶でございます。前日の夜に仕込んだローズヒップとアッサムのブレンドで……」

紅茶をテーブルに置く手が、わずかに震えていた。

見られていないようで、内心はばくばくだった。

(お願い、何も言わないで。いつも通り、何も言わないで……)

「……いただく」

「はっ、はい」

声が上ずった。最悪。完全に挙動不審なメイドになってる。

でも――そのときだった。

「……紅茶が、うまいな」

その言葉に、呼吸が止まった。

「…………っ」

まさか、そんなこと言われるなんて。

驚きより、訳が分からない戸惑いの方が先に立った。

(坊ちゃまが、紅茶を……褒めた?)

今までは何を出しても無言だった。むしろ、舌打ちや冷たい目線が飛んでくるのが常だったのに。

なのに今日は――

「……あ、ありがとうございます」

自分の声が、小さく、震えていた。

まるで信じられないものを目にしたときみたいに。

嬉しい、わけじゃない。たぶん、違う。

ただ、私の知ってる坊ちゃまじゃなかった。

それだけで、頭がついていかなかった。

だけど、たった一言の「うまい」が、胸の奥でぽつんと泡のように残っていて。

それが何だったのか、自分でも分からなくて。

私は、そっと目を伏せた。

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