第16話 辺境への出張と騎士の体温

『国営蜜晶花栽培プロジェクト』は、皇帝陛下の鶴の一声で驚くべき速さで始動した。


最初の栽培地として選ばれたのは、王都から馬車で三日ほどの距離にあるバルツァ辺境伯の領地だった。彼は先日の税制改革にいち早く賛同を示してくれた、実直で忠誠心の厚い貴族だ。


「まさか、ミカ嬢自ら現場に赴かれるとは」


出立の朝、皇帝陛下は私の身を案じてそう言った。

「机上での計画立案だけで十分だ。危険な辺境へ行く必要はない」


「いえ、陛下。どんなプロジェクトも立ち上げ期が最も重要です。現場の初期設定、いわゆる環境構築を疎かにすると、後で必ず手戻りが発生しますから」


私がいつもの調子で答えると、陛下は仕方ないとばかりに苦笑した。

「……分かった。だが、レオン。くれぐれも頼んだぞ」

「御意。この命に代えましても」


こうして当然のように、護衛役としてレオン様も同行することになった。私たちは数名の文官と農業技術者を伴い、王都の門をくぐった。


がたがたと揺れる馬車の中、私は窓の外を流れる景色を眺めていた。

前世では考えられなかった、のどかな田園風景だ。


「それにしても、君が自ら現場に来るとはな」

向かいの席に座るレオン様が、感心したように言った。


「当然です。机上の空論だけでは、本当の課題は見えませんから」


「……だが、君は国の最高顧問だ。こんな泥臭い仕事は、部下に任せればいい」


彼の言葉には、私を気遣う響きがあった。

「泥臭い仕事、好きですよ。なんだか前世のフィールドワークを思い出します」


「ふぃーるどわーく……?」

彼はまた私の知らない言葉に、困ったように眉をひそめた。


「新しいシステムを導入するために、地方の支社へ出張するんです。大変でしたけど、自分の仕事が形になっていくのを直接見るのは、好きでした」


「……そうか」

彼はそれ以上は何も聞かなかったが、その蒼い瞳はどこか優しかった。

彼の笑顔が以前よりもずっと自然になったことに、私の胸は少しだけ温かくなる。


三日後、私たちはバルツァ辺境伯領に到着した。

領地は豊かな自然に恵まれていたが、農業技術は古く、生産性は低いようだった。


領主であるバルツァ伯爵は人の良さそうな初老の男性で、私たちを丁重に迎えてくれた。しかし、彼をはじめ現地の役人や集められた農民たちは、王都から来た若すぎるプロジェクトリーダーである私に、あからさまに戸惑いと不信の目を向けていた。


「こんなお嬢ちゃんに、本当に土地のことが分かるのかねえ」

そんな囁き声が、どこからか聞こえてくる。


まあ、無理もない。前世でも新しい現場に行けば、最初は必ずこういう反応をされたものだ。見た目だけで判断され、実力を見せつけるまで信頼されない。慣れている。


私は気にもせず、集まった人々の前に立つとにっこりと微笑んだ。

「皆様、お集まりいただきありがとうございます。国家最高顧問のミカ・アシュフィールドです。早速ですが、土壌の分析から始めさせていただきます」


私は人々の前で、静かに目を閉じてスキルを発動させた。

私の意識が広大な農地全体を覆い、その土壌の成分、水分量、そして地中の魔力の流れまで、全てが一瞬でスキャンされていく。


数秒の沈黙の後、私は目を開けた。

「……なるほど。この土地は全体的に鉄分が不足していますね。特にあちらの東側の区画は、粘土質で水はけが悪く、作物の根腐れを起こしやすいようです」


私は淡々と分析結果を告げる。農民たちの間にどよめきが走った。それは長年、彼らを悩ませてきた問題そのものだったからだ。


「まずは、水路の設計から見直しましょう。最適なルートは……こうです」

私はスキルで解析した三次元の立体地図を、魔法で空中に投影してみせた。どこに水路を掘り、どこにどの作物を植えれば収穫量が最大化されるか。その完璧すぎる設計図に、人々は言葉を失った。


「そ、そんなことまで分かるのか……」

「まるで、土地の神様じゃ……」


私は追い打ちをかけるように、アイテムボックスから王宮で試作しておいた『蜜晶花シロップ』を取り出した。


「皆様。これが、これから皆様に作っていただく『蜜晶花』から取れる蜜です。どうぞ、お試しください」

私が差し出した小瓶を、最初は恐る恐る舐めていた農民たちが、次の瞬間、目を見開いて叫んだ。


「あ、甘えぇ! なんだこりゃあ!」

「砂糖なんかよりずっと濃くて、後味もいいぞ!」

「こんなもんが作れるなら、俺たちの暮らしも楽になる……!」


その驚異的な甘さと私の常識外れのスキルを目の当たりにして、彼らの私を見る目は不信から驚愕へ、そして熱狂的な期待へと変わっていった。


現場の心を掴む。これがプロジェクト成功の、第一歩だ。


その日の作業が終わり、夜。

私たちは辺境伯が用意してくれた宿舎で、簡単な食事をとっていた。

慣れない野外での作業に少し疲れた私は、一人、焚き火の前でぼーっとしていた。


パチパチと薪がはぜる音と、満点の星空。

前世では、光害に汚れた空しか知らなかった。こんなにも美しい夜空があるなんて。


「……綺麗ですね」

私がぽつりと呟くと、いつの間にか隣に座っていたレオン様が静かに頷いた。


「ああ。王都で見る星とは、輝きが違うな」

彼はそれ以上は何も聞かず、ただ私の隣で同じように星空を見上げていた。その沈黙が心地よかった。


夜風が少し肌寒い。

私がぶるりと肩を震わせた、その時だった。

ふわりと、肩に温かいものがかけられた。見ると、レオン様が自分の騎士団のマントを私の肩にかけてくれていた。


「……風邪をひく」

ぶっきらぼうな口調。だけどその声は、驚くほど優しい。

マントから彼の体温が伝わってくる。そして、すぐ隣に感じる彼の存在。


私の心臓が、トクン、トクンと、うるさいくらいに鳴り始めた。

彼の顔を見ることができなくて、私はただ「ありがとうございます」と小さな声で言うのが精一杯だった。


順調に進むかに見えた出張。

しかし、その帰り道、事件は起こった。


王都へと続く森の中で、私たちの乗る馬車が突如、十数人の武装した集団に襲われたのだ。


「敵襲!」

レオン様が叫び、瞬時に剣を抜く。

敵の動きはただの盗賊ではなかった。彼らは完璧に統率が取れており、明らかに私たち――いや、私を狙っていた。


(グラシエ伯爵の手の者……!?)


絶体絶命のピンチ。だが私は冷静だった。

「レオン様! 敵の足元に、障害物を!」


私はスキルでアイテムボックスから、大量のガラクタ――『開かずの倉庫』から回収した錆びた農具や壊れた家具――を敵の進路上にばら撒いた。

突然出現した障害物に、敵の陣形が乱れる。


その一瞬の隙を、レオン様が見逃すはずがなかった。

彼の剣が閃光のように煌めく。

その動きはもはや人間のそれを超えていた。一人、また一人と襲撃者たちが、悲鳴を上げる間もなく彼の剣の前に倒れていく。


圧倒的な強さ。これが騎士団長の、本気。


数分後、生き残ったのはリーダー格の男、一人だけだった。

レオン様がその首筋に、剣を突きつける。

「誰の差し金だ。言え」


しかし、男はにやりと不気味に笑うと、次の瞬間、口から血を噴き出してその場に崩れ落ちた。隠し持っていた毒で、自ら命を絶ったのだ。


「……ただのチンピラではないな」

レオン様が、吐き捨てるように言った。

現場には遺体と、彼らが使っていた武器だけが残された。


この襲撃は、これから始まる戦いのほんの序章に過ぎない。

私はレオン様がかけてくれたマントを強く握りしめながら、これから向き合うべき見えない敵の存在を、改めて認識するのだった。

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