第三話 うつろう栞(下)

 私は図書室へ戻った。

 本はあった。栞はない。井上さんは無関係。

 私の思考は完全に停止していた。混乱や焦りといった分かりやすい感情は、とうに沸点を超えて、今はただ、絶対零度の無が支配している。


 私の聖域の机では、この世全ての真理に到達した賢者みたいな顔で、暦が寝息を立てていた。

 ……私は思い切りチョップするのを思いとどまって、肩を軽くつついた。


「起きてください。報告があります」

「ん……あおい……? 僕の夢にまで出てくるとは、君も隅に置けないねぇ……」

「どんだけ寝るんですか。井上さんは犯人ではありませんでした」


 私の冷たい声色に気付いたようで、暦はゆっくりと顔を上げた。そのヘーゼルブラウンの瞳が、何かを読み取ろうとするように、わずかに細められる。


「彼女は本を間違えただけでした。栞の存在すら知らなかった。……説明していただけますか。私の栞が、現在どのような超常現象に巻き込まれているのかを」

「…………」


 暦は、私の表情を吟味するように数秒黙った後、ふっと、その口元を緩ませた。それはいつもの悪戯っぽい笑みとは違う。愛しいものを見つけたような、柔らかい笑みだった。こんなタイミングでなければ、ドキッとしたかもしれない。

 ……しかし、こんなタイミングなので、イラっときた。


「なるほどねぇ。君は今、すごく面倒な顔をしている。うん、とても良い顔だ」

「喧嘩を売っているなら買いますが」

「とんでもない。僕はただ、普段からクールな君が、ありえないほど『非論理的』な壁にぶつかって混乱している様を楽しんで……いや、心配しているだけだよ!」


 暦は椅子から降りると、私の目の前に立ち、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、そっと声を潜めた。


「葵。この犯人は、君の栞を『盗んだ』わけじゃない。きっと『救済』したんだ」

「……救済?」

「そう。床に落ちた哀れな子羊をね。君の大切な宝物が、誰かに踏まれて傷つくなんて、犯人は耐えられなかったんだよ。だから、純度100%の善意で、それを守ろうとした。ただ……その方法がね。僕ら常識人には、ちょっとだけ理解しがたいだけでね」


 その言葉で、全てを理解した。

 純度100%の善意。常識が通用しない思考回路。

 ……ああ。そういえばさっき、暦は寝ぼけながら言っていたじゃないか。


『──なんだか、やかましい後輩が、うろうろしていたような気もするが……』


 私は静かに目を閉じ、一つ息を吐いた。

 彼女のいる部室へ、向かおう。

 背後から暦が「これは最高のエンターテイメントの予感がするね!」と、目を輝かせながらついてくるのが、ありありと分かった。


 ***


 オカルト研究会の部室では、中村さんが祭壇の前で、にこやかに水晶玉を磨いていた。


「葵先輩! どうかされましたか?」

「中村さん。銀の栞のありかに、心当たりはありますか」


 彼女は「はいっ!」と、満点の笑顔で頷いた。何かが私の眉間に直撃したみたいな気分を味わう。


「床に落ちていたんです! このままでは、誰かに踏まれてしまう! そう思って、私が責任をもって『保護』させていただきました!」

「保護って……その栞は、今どこに?」

「ただ保護するだけでは、栞についたネガティブな念が浄化されません! ですから、図書室で最も知的で、最も清浄なエネルギーを持つ場所……そう、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』のページに丁重におうつししましたっ!」


 純粋、理性、批判……。

 中村さんの元気な声が何度も私の眉間を貫き、頭の中でぐわんぐわんと暴れている。後ろで、暦が必死に笑いを堪えて、肩をぷるぷると震わせているのが気配で分かった。


「……そうですか。ご親切に……どうも。そのカントは、どの棚に?」

「わかりません、哲学はさっぱりなので! でも返却カートにあったので、然るべき場所に安置されるかとっ!」

「……」

「ところで、その銀の栞って、そんなに大事なものなんですか?」

「…………」


 私は無言で、中村さんのおでこをつつき回すことにした。

「なにするんですか!」「ギャー!」「ごめんなさいー!」

 表情をかえずに何度もつついていると、中村さんは脱兎のごとく部室から出ていった。

 それから笑いを堪えきれなくなった暦にターゲットを変えると、私はしばらく冷徹なつつき回しマシーンになるのだった。暦は「わはは、葵、もっと!」などと意味不明なことを口走りながら、満更でもない様子で私の指を受け止めていた。


 ***


 翌日。


「ぶぇぇえええ! ぜんぱいの栞だとはづゆじらずでぇ! ずみまぜんでしたぁ!」


 栞を探しにいこうと部屋を出た途端、号泣する中村さんと鉢合わせた。その腕には、カントの本が抱きかかえられている。銀の栞もそこから頭を覗かせていた。話を聞いた佐倉先生にたっぷり絞られたのだろう。

 突然の出来事に口をパクパクさせて腰を抜かす暦と、泣きながら本を差し出す中村さん。

 そんな二人を見て、ちょっとだけ溜飲が下がったのはここだけの話だ。


幕間 うつろう栞 了

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