第二話 うつろう栞(中)
私の本はどこに行ったのだろうか。
とりあえず、机に突っ伏すように眠りこけている暦を叩き起こすことにした。
「起きてください。暦」
「ん……んん……プリン……?」
「プリンではありません。私の本が無くなりました。ここにあったはずの本です」
暦は、伸び切った袖で口のよだれを拭った。
「ほう……本、かい? 本とはつまり、情報の集合体のことだね……。観測されるまでは、全てのページが同時に、存在しているとも、していないとも言える……。シュレディンガーの猫、というやつさ。君は、きちんと蓋を開けて観測したのかい、葵……ところで、僕のプリンは?」
「……いつまで寝惚けているんですか」
暦を夢の世界に導いたであろう量子力学の本は、涎でべちゃべちゃになっていた。
「誰か、この席の近くに来ませんでしたか?」
「うーん……? そういえば、夢と現実の境を
「やかましい後輩……ですか」
脳裏に、牛乳瓶の底のような眼鏡が一瞬よぎる。中村さんか……?
いやいや、彼女が私の本を持っていく理由がない。ホラーやオカルトならともかく、私が読んでいたのは本格ミステリだ。
ともかく、このポンコツからはこれ以上の情報は引き出せそうにない。
頼るべきは自分の足と、より信頼できる証言者だ。
私はカウンターにいる、佐倉先生の元へと向かった。
「先生、たびたびすみません。私が席を外していた数分の間に、誰か私の席のあたりに、近づかなかったでしょうか?」
私の剣幕に佐倉先生は驚いたように、目を丸くした。
「ただ事では無さそうね。……そういえば、美術部の井上さんが狂乱しながら慌てて出て行ったわよ。『アイデアの神様が、降りてきたんです!』って、目をギラギラさせてたわ。この時期になると、みんな情緒不安定になって可哀想ね。私も昔は──」
井上さんか。間違いなさそうだ。
暦の曖昧な証言よりも、ずっと信憑性が高い。
やはり、彼女が自分のデザイン教本と私の本を、間違えて持っていってしまったのだ。
全く、人騒がせな……。
胸の内側を張り詰めさせていた空気をゆっくり吐き出して、私は美術室に向かった。
***
井上さんは、美術室の隅でイーゼルに向かっていた。
その顔は、先ほど図書館で見た時よりも、さらに切羽詰まっているように見える。
「井上さん」
私が声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。
「あ、夏川先輩……」
「すみません、単刀直入に聞きます。私の本、知りませんか?」
「え……? 本、ですか……?」
井上さんは、きょとんとした顔で、私を見つめる。
「図書館の机に置いていた、黒い表紙の本です。あなたのデザイン教本とよく似ているものです」
彼女は、はっとしたように、自分のカバンへと視線を落とす。そして、おそるおそる中身を確認すると、顔面蒼白になった。
「は、はわわ……」
カバンの中から画集とデザイン教本が数冊。そして私の読みかけのミステリ小説が出てきた。
「ご、ごめんなさい! 私、本当に……ごめんなさい! 綾花祭のことで頭がいっぱいで、全然気づかなくて……!」
顔をリンゴのように真っ赤にして、何度も何度も頭を下げる。
あまりにも必死な様子に、ひとこと言ってやろうなんて気も削がれてしまった。
「……いえ。見つかったので、よかったです」
一件落着。いざ本が手元に戻り、心の余裕が出てくると、今度は井上さんが心配になってくる。
「本当に、すみませんでした!」
「気にしないでください。井上さんこそ、無理せずに自分を大事にね」
本を受け取り、慣れない笑顔をつくって井上さんを安心させる。
これで大切な栞も、無事に戻ってきた。
……そう思ったのだが。
本の上部から飛び出て然るべきの、銀色の頭が見当たらない。
まさかまさか。
栞がずれて、ページの内側に潜ってしまったのかな?
そうだ。そうに違いない。
笑顔のままページを一枚一枚めくる。
ない。
繊細な、蔦の模様が彫り込まれた銀色の輝きが。
どこにも、ない。
「……井上さん」
自分の声が驚くほど低くなっているのを、私はどこか遠いところから聞いている気がした。
「栞を……知りませんか?」
「ひっ……! し、しおり……ですか?」
井上さんは、水浴びの終わった犬みたいに首を横に振った。
「し、知りません……! 本当に、本を開いてすらいないんですぅ!」
「そうですか……」
彼女は瞳に涙を湛えている。嘘はついていなさそうだ。
本は戻ってきた。
しかし、一番大切なものが忽然と消えた。
困ったことになったなぁ。
そう思い、手を口に当てて考えていると、自分がまだ歪な笑顔を作り続けていたことに気付いた。
ごめんね。怖かったよね、井上さん。
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