第4話「優佳先輩の休日」

 喫茶店「潮風ティータイム」の灯りが徐々に消えていく夕暮れ時。店内は閉店後の静けさに包まれ、わずかに残ったコーヒー豆の香りが空気に溶け込んでいた。


 カウンターの端で、優佳は静かに食器を片付けていた。手先は丁寧に、しかし無駄なく動く。その姿は普段の彼女の落ち着いた雰囲気そのままだったが、目の奥には柔らかな寂しさが宿っているように見えた。


 幼い頃から「おしとやかに」「優しく」と周囲に求められ、彼女はその期待に応え続けてきた。小学生の頃には生徒会長に選ばれ、学校でも目立つ存在だった。しかし、いつも一歩距離を置き、心の内は誰にも見せなかった。


(「ごきげんよう」と挨拶を欠かさずに、と先輩から言われて……)


 優佳は自分の口癖となったその言葉を反芻しながら、ひとり静かに店の窓から外を眺める。夕焼けに染まる海沿いの街は、忙しい一日の終わりを告げていた。


 休日の今日は、いつもの喧騒がなく、彼女にとっては貴重な「自分だけの時間」だった。お気に入りの読書コーナーに腰を落ち着け、手に取ったのは柔らかな色合いの装丁の詩集だった。ページをめくる音だけが、静寂の中に響く。


 ふと、先日の新人バイト・沙良のぎこちない笑顔を思い出す。


(まだまだ不安そうだけど……少しずつだけど、確かに変わり始めているわね)


 優佳はそんな沙良を支えたいと、内心で強く願っていた。自分のように孤独を抱え込むことのないように、少しでも彼女の心に寄り添いたいと思う。


 店を出ると、海からの涼しい風が頬を撫でた。夕陽が沈みかける空を見上げて、優佳は明日もまた、新しい一日が始まることにほんの少しの期待を込めた。


「ごきげんよう、沙良さん。明日も頑張りましょう」


 静かな声が、心の中で響いた。


 閉店後の静かな店内。優佳は窓辺の席に座り直し、そっと膝の上に置いた詩集のページを指でなぞった。文字の一つひとつが、彼女の胸の奥に染み込んでいくようだった。


 ふと、スマートフォンに目をやる。画面には、喫茶店での新入り・清水沙良の写真が映し出されていた。彼女が制服姿でぎこちなく微笑む瞬間の一枚だ。


「まだあんなに緊張してるのね。でも、それが彼女の魅力でもある。」


 優佳は微笑みを浮かべる。自分も昔は同じように、誰かに見守られながら少しずつ歩んできたのだ。


 遠くから聞こえる波の音が、心を静めてくれる。海沿いの街に流れる潮風は、優佳にとっても安らぎのひとときだった。


 思い出すのは、中学校時代の生徒会長としての重責。いつも完璧でいなければと自分を追い詰め、周囲との距離を感じていた日々。しかし、その経験は彼女を強くした。今はその強さを、自分だけでなく沙良のためにも使いたいと思っていた。


「沙良さん、あなたのペースでいいのよ。焦らずに、一歩ずつ。」


 心の中で呟きながら、優佳は深く息を吸った。


 そして、静かに立ち上がり、店の灯りを消して外に出た。夜空には星が瞬き、潮風が柔らかく頬を撫でる。


「明日も、頑張ろう。」


 そう心に誓いながら、優佳は家路についた。


 家路を急ぐ優佳の足取りは、普段の凛とした姿とは少し違い、どこか柔らかく見えた。夜の海風が髪を揺らし、涼やかな香りが漂う。


 途中、公園のベンチに腰掛けると、スマホの画面を再び見る。そこには、今日の仕事終わりに沙良と双葉が写った写真があった。ふたりのぎこちない笑顔が、優佳の胸に温かく染み入る。


「沙良ちゃん、もっと自分を信じて。あなたならきっとできる」


 そう呟くと、優佳はスマホをそっとしまい、空を見上げた。星がきらめく夜空は、どこまでも広くて深い。


 その瞬間、かすかな記憶が蘇る。小学生の頃、学校の屋上でひとり見上げた星空。誰にも心を開けず、孤独を抱えていたあの頃。


「今の私があるのは、あの時の自分があったから……」


 優佳は静かに微笑み、また歩き始める。明日からもまた、新しい自分と向き合う日々が続く。


 夜風に包まれながら、優佳の心には小さな希望の光が灯っていた。


 家に着くと、優佳は静かな自分の部屋へと足を運んだ。窓の外には、月明かりが柔らかく差し込み、カーテンを淡く照らしている。


 机の上には、丁寧に並べられた教科書やノート、そして小さなティーカップが置かれていた。彼女の趣味であるティータイムは、日々の忙しさの中での大切なひとときだ。


 優佳はゆっくりと椅子に腰を下ろし、カップに手を伸ばす。静かな空間で味わう紅茶の香りが、疲れをそっと癒してくれる。


 ふと、スマホの着信音が鳴った。画面には「春日双葉」の名前が表示されている。


「もしもし、双葉?」


「優佳先輩、今日もお疲れ様です!沙良ちゃん、少しずつだけど頑張ってるみたいですね。先輩のサポートがすごく助かってるって言ってましたよ!」


 優佳は優しく笑いながら答えた。


「ありがとう、双葉。沙良が安心できる環境を作れるように、これからも見守りたいと思います。」


 通話を終えた後、優佳は心の中で小さく誓った。


「私たち三人で、この場所を居心地のいい場所にしていこう。」


 その夜、優佳の部屋には穏やかな静けさが戻り、月明かりが彼女の未来をやさしく照らしていた。



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