第3話「はじめての休日」

 小さな紙袋を手渡された瞬間、清水沙良は思わず手元に目を落とした。

 「これ……制服、ですか?」

 「うん。サイズ、合ってるといいけど」

 にこりと笑うのは、春日双葉。昨日まで学校で見せていたテンション高めの表情より、どこか落ち着いた雰囲気だ。

 「家で着てみてもいいし、控室で合わせてみてもいいよ。沙良ちゃん、どうする?」


 沙良は、逡巡の末、喫茶店の控室に向かった。

 ドアの向こうには小さな鏡と、店員たちが休憩に使うソファ。そして、たたみ一畳分ほどの更衣スペース。


 制服に着替えた自分を鏡に映す。

 ネイビーのワンピースに、白いエプロン。そして、襟元には細くてピンク色のチェックリボン。

 「……変じゃ、ないかな」

 ぽつりと呟いた声に、返事はない。

 少し裾を整えて、控えめに鏡の中の自分を見つめる。学校の制服とは違う、けれど、これもまた自分の一部になっていくのだろう。


 ふいに、ノックの音。

 「沙良ちゃん、どう? 似合ってる?」

 双葉の明るい声が、ドア越しに聞こえる。

 「……あ、うん。たぶん」

 「見てもいい?」

 沙良は一瞬だけ迷ってから、「うん」と答える。


 ドアが開いて、双葉が顔をのぞかせる。

 「わぁ、かわいい! ちょっとモデルさんみたいじゃん!」

 「そんな……こと、ない」

 「あるある! 優佳先輩にも見せよ!」

 「えっ……!?」


 その声とともに、制服姿のまま店内に引っ張られる。

 ランチタイムを終えた午後の店内は落ち着いていて、優佳がコーヒー豆の袋を棚に並べていた。


 沙良の姿を見て、優佳はふと動きを止めた。

 「……よく似合ってるわ。清水さん、背筋が伸びてて素敵」

 「あ……ありがとうございます」


 双葉が茶目っ気たっぷりに、「ね、先輩もそう思いますよね?」と続ける。

 沙良は頬を赤くしながら、制服のスカートをそっと握りしめた。


 制服を着る。それは、この場所の一員になるということ。

 まだ不安はある。でも、少しずつ、その輪郭が優しく形になりつつあった。


 ──こうして沙良の、はじめての休日バイトは幕を開けた。


 ***


 その日の午後、喫茶店『潮風ティータイム』の裏庭では、週末のイベントに向けた準備が静かに進められていた。


 「これ、表に出す立て看板のイメージ。どうかな?」

 双葉が画板を膝に乗せ、マーカーで描いたカラフルなスケッチを広げる。

 そこには、笑顔のティーカップとうさぎのキャラクターが描かれていて、「週末だけの海辺マーケットへようこそ!」という文字が大きく踊っていた。


 「う、うん……すごく、可愛いと思う」

 「やった! 優佳先輩が“お客さんが立ち止まってくれそうな看板”って言ってたから、ちょっとポップにしてみたんだ」


 沙良は、その隣でテーブルの上に並ぶ焼き菓子の袋詰め作業を黙々と続けていた。バターの香りが指先にふんわりと残っている。


 「袋、これで合ってますか……?」

 「うん、それで大丈夫。リボンの色も交互になってて、すごく丁寧」

 優佳が近づいてきて、沙良の手元を確認すると、微笑んで頷いた。


 「この焼き菓子は、イベント限定のセットにするの。味見してみる?」

 「えっ、いいんですか?」

 「もちろん。双葉もどう?」


 三人で小さな丸いクッキーを一つずつ口にする。バターの香ばしさと、ほんのりとした甘さが広がった。


 「……おいしい」

 思わずこぼれた言葉に、双葉が「でしょー?」と笑った。


 「この裏庭って、落ち着きますね……海も見えるし」

 沙良はぽつりと呟く。木々の間から見える青い水平線と、潮風の香りが心地よかった。


 「うん。店長さんが“ここは第二の接客スペースにする”って言ってて、ちょっとずつ整備してるんだって」

 双葉はそう言いながら、小石をどけて整地していたスペースに目をやった。


 「清水さん、明日はどの役をやってみたい? 看板係もいいし、焼き菓子の販売もあるし……」

 「……わたし、まだ人前に出るのは……」

 「うん、無理にじゃない。でも、もしちょっとだけ“やってみたいかも”って思ったら、それだけで、うれしいな」


 双葉の言葉は、どこまでもやわらかかった。

 沙良はほんのわずかに頷きながら、紙袋に最後のクッキーを詰めた。


 ──少しだけなら、やってみてもいいかもしれない。


 胸の奥に、小さな光が灯ったような気がした。


 翌日、朝の海風が、まだ静かな店内にひんやりと流れ込んでくる。清水沙良は、制服に袖を通すと、胸元のリボンをそっと整えた。


 「おはよう、沙良ちゃん!」

 いつも通り明るい声で春日双葉が駆け寄ってくる。


 「おはよう……」

 小さく返事をすると、双葉は嬉しそうに頷いた。

 「今日の準備、いよいよ本番だね! ね、今日ってさ、沙良ちゃん、何やるか決めた?」


 沙良はほんの少しだけ口元を引き結び、言った。

 「……看板係、やってみようかなって」


 その言葉に、双葉は一瞬きょとんとして、それから目を輝かせた。

 「ほんと!? 嬉しい! わたし、お菓子の販売、頑張るね!」


 店の前には、すでに並びはじめているお客さんの列。店長と優佳がスタッフたちに最終確認を伝えている。


 沙良は、双葉と並んで立て看板の前に立ち、配布用のパンフレットを手にした。

 はじめは緊張で声が震えていたけれど、笑顔で受け取ってくれた人が一人、また一人と増えていくと、少しずつ胸の高鳴りが落ち着いていった。


 そして昼前。


 「……あの、こちら、焼き菓子のセットになります。どうぞ」


 ひとつひとつ丁寧に言葉を選びながら接客をしている沙良の姿を、店内から見つめる瞳があった。


 「ふふ……清水さん、ずいぶんと成長したわね」


 おだやかに微笑む小谷優佳。


 その日の『潮風ティータイム』は、いつになくにぎわっていた。

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