四
朧の言葉に息が詰まりそうだった。椿は思わず膝の上で着物を握って、「そう」とか細くこぼした。椿が止める理由はなんてどこにもない。だのに、朧が見れず、下を向く。平常心を必死に装って、ゆっくりと言葉を綴る。
「……どこに行くの?」
「さてなぁ、適当にふらふらしてるんじゃないか?」
まるで他人事のようだった。朧の回答は曖昧を通り越して、特に何も決めていないようでもある。まるで、焦って出て行こうとしているような――それを椿に隠しているのではないだろうか。椿はどうして自分に都合に良い考えに至っているかが分からないまま。しかし口は勝手に動いた。
「急ぐ理由はなに?」
朧は、何も返さない。椿がそろりと視線を向ければ、膝の上に肘を突いて、気まずそうに顔を逸らしているだけ。
「朧……?」
「……理由は……ないが……」
どうにも椿の都合の良い考えではなかったようで、何か隠している。
朧との付き合いは短い。しかし、蔵を出てからの朧はいつも余裕があり、椿を此処まで引っ張って連れてきてくれたようなものだ。その朧が、誤魔化すこともせずに、思い悩んでいる。まるで、何かを言い淀んでいるような。
椿はここぞとばかりに――思い悩む朧を追い込むように続けた。
「ねえ、朧……佐吉さんと何か話していたでしょう? 何を話していたの?」
椿は畳の上に膝を滑らせるように朧に近づいて詰め寄る。どうせなら真実を言って欲しい。なんとなく、そう思った。
「いや……」
椿は間近で朧の横顔を覗き込む。朧はますます気まずそうだが、顔を逸らすばかりで何も言わない。しかし、突如、
『ご主人は、佐吉に早いとこ出て行って欲しいと頼まれた。椿との噂が出回る前に』
口を挟んだのは鼠だった。ふっと椿の膝の上に現れて、真っ黒の身体で髭を揺らしている。だがその身体も、あっさりと武骨な手の内に捕まってしまった。
「てめぇ……」
赤い瞳が
『椿が刀根田村にいたと知るものは少ない。だが、佐吉は朧が刀根田の生まれだと思っている。疫病の噂が流れるのも、椿が刀根田にいたと知られるのも危うい。椿が早々に結婚して良い噂が広まればめでたしめでた――』
「いい加減黙れ」
きゅう、と朧が鼠を掴む手を絞めると、鼠は煙のように消えてしまった。言いたいことを言い切ったから消えたのか、それとも朧が何かしたのかはわからない。
椿は鼠がいたであろう膝を見つめたまま茫然として、鼠の言葉を何度と頭の中で反芻した。朧の考えは知れなくとも、朧は椿の為に動いている、それが答えだった。
「……ねえ、朧。本当なの?」
鼠――ささめく者たちは本当のことしか言わない。そうと理解していても、椿は朧に問いたださねば気がすまなかった。その効果か、朧はちらりと椿を見て、しかし気まずいままなのか頭を一度がしがしとかいたかと思えば、「あれはなんであんなにお喋りなんだ」、と諦めたように鼠の言葉を肯定した。否定する意味もないのだろう。あれらは真実しか話さないと朧も知っているのだ。
「……あの番頭を恨むなよ。椿を想って言ったことだ。実際、俺と
朧はもう全てを知っている風だった。佐吉と宴席で話していたのはそれだったのだ。佐吉と店主の根回しは早すぎるわけではない。商売がら、常日頃から噂話には気を張っているだろう。佐吉が次こそは椿を助けようと思っているのなら、尚更早く動いた結果だったのかもしれない。
「俺は、みてくれも堅気には見えないだろうな。だから、ただの親切なだけの男のまま去るなら、明日が良いだろ」
もし、椿が本気で木の下屋の次男との結婚を決めるのであれば、朧の言葉は最もなのかもしれない。しかし、椿の心はざわざわと騒がしいままだった。
「朧は佐吉さんの考えに同意したということ?」
椿の問いに、朧の目が真剣になった。
「……同意も何も、ここはお前の故郷だ。目が見えるようになって、ようやく平穏が戻ったんだろ? 椿は約束を守ってくれた。それを俺が邪魔するのはお門違いだ」
蔵で、互いに色々な話をした。その時に椿は目が見えるようになったら、何か違ったのだろうかと、確かに朧に言った。そして――。
「もう、死にたいとは考えてないんだろう?」
朧は静かに、赤い瞳で椿を見つめながら言った。
椿は、ゆっくりと大きく頷く。もう、死という言葉を浮かべることもない。それは、朧のおかげだ。
「じゃあ、俺はもう必要ない」
だから、早々にここを立つのだと朧は言った。だが一つだけ、椿はどうしても納得がいかなかった。
「……じゃあ、どうして……嘘をつくことを躊躇ったの?」
朧が佐吉の意に同意して、動こうとしたことは確かだ。だが、今の行動は、その意に反したもの。椿に会わず、何も言わずに旅立てば良かったのだ。
「最初は、いっそ嫌われてやろうと思った。けど、なんでかな……」
そう言った朧の手が、椿へと伸びて髪を撫ぜる。
「なんでだろうな……椿には嫌われたくなかった」
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