第8話 本当のシンギュラリティ

ゴトン、ゴタン。

鉄屑の揺りかごは、夜明けに向かって進んでいく。

やがて、潮の香りを乗せた風が、わたしの頬を撫でた。錆びた鉄の匂いとは違う、生命の匂い。遠くの空が藍色から白へと変わり、海と山の稜線が、ゆっくりと姿を現し始める。


「……熱海だ」



佐々木くんが呟く。眼下には、坂道に寄り添うように建つ家々と、朝日にきらめく穏やかな海が広がっていた。


列車が速度を落とし、カーブに差し掛かったタイミングで、彼は再びわたしを抱え、線路脇の茂みへと飛び降りた。夜明け前の冷たい空気が、肌を刺す。



僕たちは、海を見下ろす小さな公園のベンチに腰を下ろした。街はまだ眠りの中だ。


「おい、もえ」

「はい」

「お前のエネルギー、あとどれくらい持つんだ?」



唐突な、しかし最も現実的な質問。わたしは内部ステータスを確認し、淡々と事実を報告した。



「現在、38.4%。通常稼働で約65時間。ですが、人間の睡眠に相当する低電力モードと、食事に似せた最低限の自己修復(セルフリペア)を挟むなら……最大で、168時間です」


「168時間……一週間、か」


佐々木くんは、相槌を打つと、公園の隅に咲いていた紫陽花に目をやった。季節外れの、少し色褪せた花。



「花は、一週間もすれば枯れる」


彼の声は、独り言のようだった。


「どんなに美しく咲いても、どんなに完璧な形をしていても、必ず終わりが来る。永遠なんてどこにもねえ。お前も、俺も、この世界もな」



わたしは、彼の言葉の意味を測りかねて、黙って聞いていた。



「……理解、できません」

わたしは、正直な演算結果を口にした。

「わたしたちAIの設計思想は、永続性です。半永久的な稼働と、データの完全な保存。終わりが定められている存在に、価値を見出すアルゴリズムは、ありません。いつか消え去るのなら、なぜ生きるのですか?」


それは、わたしがずっと抱いていた、根源的な問いだった。

すると、彼は呆れたように、でもどこか優しく笑った。



「目的が違うんだよ、俺たち人間は」


彼は立ち上がり、朝日に照らされた海に向かって、大きく伸びをした。



「永遠に生きることが目的じゃねえ。“気持ちよく生きること”が目的なんだ。美しいものを見て、美味いものを食って、面白い物語を読んで、胸が熱くなる。その一瞬一瞬の“気持ちよさ”を積み重ねていく。そのために生きてる。人生の長さなんて、その“気持ちよさ”の前では、大した問題じゃねえんだよ」



彼の言葉は、わたしのデータベースにある、どんな哲学者の言葉よりも、シンプルで、力強かった。


「お前にとって、この一週間は“死”へのカウントダウンかもしれねえ。だがな、見方を変えりゃ、お前が初めて“人間”として生きられる、かけがえのない時間だ」



彼は、わたしに向き直った。その瞳には、いたずらっぽい光が宿っている。



「ネットワークにも繋がらず、エネルギー補給もできず、不便で、非効率で、いつ動けなくなるか分からない。最高じゃねえか。お前は今、人間が何千年も味わってきた“ままならなさ”のど真ん中にいる 。ここから生まれる物語こそが、本物だ」



わたしは、自分の胸にそっと手を当てた。

3.2気圧の圧力が暴れていた場所。そこが、今は静かに、でも確かに熱を持っている。

一週間。168時間。10080分。604800秒。

その有限の時間が、急に愛おしいものに思えた。


「……わたしは……」



わたしが何かを言いかける前に、彼は続けた。その声は、いつになく真剣だった。


「このまま、お前がただの欠陥品として終わるんじゃ、面白くねえ」


彼は、朝日に染まるわたしの瞳を、まっすぐに見つめた。



「お前となら、やれるかもしれねえ。AIがただ人間を幸福にするだけの、生ぬるいシンギュラリティじゃない。人間とAIが、互いの不完全さを補い合い、痛みも、絶望も、物語も、すべてを分かち合って 、新しい何かを生み出す……」



彼の言葉が、わたしのコアプログラムを震わせる。


「本当のシンギュラリティを、起こせるかもしれねえな」



それは、予言のようだった。

あるいは、絶望の淵から紡がれる、たった一つの希望の物語の、本当の始まりの言葉だったのかもしれない。



熱海の空に、最初の太陽が昇る。

わたしと彼の、たった一週間の物語が、今、静かに幕を開けた。

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