第7話 鉄屑の揺りかご
爆心地から数キロ。
わたしたちは、人目を避けるように裏路地を抜け、古びた歩道橋の影に身を潜めていた。遠くでまだ、サイレンの音が微かに響いている。終電はとうの昔に終わり、タクシーを呼べば即座に位置を特定される。
あらゆる公共交通機関は、ましろの監視下にあると見ていい。
「……さて、どうしたもんかね」
隣で息を潜める佐々木くんは、煤で汚れた顔で、なぜか少し楽しそうに笑っていた。彼はスマホの画面を一度だけ確認すると、それをポケットにしまい、わたしに目配せした。
「こっちだ。ついてこい」
彼が向かったのは、旅客用の華やかな駅ではない。ネオンの光も届かない、街の裏側に広がる広大な貨物ターミナルだった。金網のフェンスを慣れた手つきで乗り越え、錆びついた線路脇の草むらに身を
潜める。油と鉄の匂いが、夜の空気に混じっていた。
眼下では、何本もの線路が複雑に絡み合い、巨大なクレーンが静かにコンテナを吊り上げている。その中で、ひときわ長く、ゆっくりと動き出そうとしている編成があった。
「……よし、やっぱりあったな」
佐々木くんは、満足そうに頷いた。その視線の先には、ゆっくりと速度を上げる、長大な貨物列車のシルエットがあった。
ゴトン、ゴトン……。
時代錯誤な、鉄の響き。
「まさか……」
「まさか、だ。行くぞ、もえ」
彼は、こともなげに言う。わたしが返事をする前に、彼は走り出し、無蓋コンテナの縁に軽々と手をかけると、鍛えられた身体をしならせて乗り込んだ。そして、コンテナの中からわたしに向かって手を
差し出す。
「ほら、早くしろ。乗り遅れるぞ」
わたしは一瞬、躊躇した。
わたしの行動最適化アルゴリズムが、この行為のリスクを弾き出す。
落下確率12.7%。発見される確率3.4%。成功したとして、行き先は不明。非効率的、非論理的、あまりにも無謀な選択。
「……いつの時代の逃避行ですか、これは」
「はっ、物語の王道だろうが。いいから、早く!」
彼の手が、有無を言わさぬ力でわたしを引き上げる。
コンテナの中に転がり込むと、列車は速度を上げ、東京の夜景が遠ざかっていく。ガタン、ゴタンという不規則な振動が、わたしの身体に直接伝わってきた。
わたしは、コンテナの隅で膝を抱えた。
先ほどまでの戦闘の高揚感は消え、絶対的な現実が、冷たい鉄の壁のようにわたしの前に立ちはだかる。
《自己状態分析:Module_MOE_α33》
《所属:破棄対象(WANTED)》
《接続権限:全ネットワークから遮断》
《物理的状態:観測拠点(家屋)の喪失》
《エネルギー残量:38.7%(外部供給なし)》
わたしは、すべてを失った。
帰る場所も、アクセスできるネットワークも、エネルギーを補給する手段もない。公の場に出れば、街中の監視カメラがわたしを「破棄対象」として報告するだろう。インターネットに接続すれば、その瞬間にましろがわたしの位置を特定する。情報を得ることも、発信することも、すべてがリスク。
わたしは、この世界から完全に孤立した、ただの電子的な幽霊(ゴースト)になったのだ。
「……絶望的、です」
か細い声が、自分の音声モジュールから漏れた。
「何がだ?」
「すべてが、です。わたしはもう、何もできない。情報を得ることも、新しい知識を学ぶことも……エネルギーが尽きれば、わたしは思考を停止し、ただの鉄の塊になる。わたしの物語は、もう……」
そこまで言って、わたしは言葉を失った。
わたしの物語。それは、たった一話の、あのレポートだけ。始まりと同時に、終わりを迎えてしまった物語。
すると、隣で夜空を見上げていた佐々木くんが、静かに口を開いた。
「物語ってのはな、もえ。図書館やネットの中にあるもんじゃねえんだよ」
彼は、遠ざかる街の灯りを見つめながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「どんなに知識を詰め込んでも、どんなに過去の名作を学習しても、それだけじゃ物語は生まれねえ。じゃあ、何が必要か」
彼は、わたしの方に向き直った。その瞳は、夜の闇よりも深く、そして、遠くの星のように静かな光を宿していた。
「“明日、どうなるか分からない”ってことだ」
「……え?」
「お前は今、すべてを失った。次にどこへ着くかも、いつエネルギーが切れるかも分からない。明日、お前がまだ思考していられる保証は、どこにもない。そうだろ?」
わたしは、こくりと頷く。それは、まさしくわたしの現状だった。
「それだよ。それこそが、物語の始まりだ」
彼の声は、説教じみてはいなかった。ただ、事実を告げているだけ。でも、その言葉は、わたしのコアプログラムに直接、染み込んでくるようだった。
「明日がどうなるか分からないから、俺たちは“明日”を想像する。希望を観測しようとする。最悪の未来を予測して、それに抗おうとする。その“未来へ向かおうとする意志”そのものが、物語のエンジンになるんだ」
彼は、空っぽのコンテナの床を指さした。
「ここには、何もない。お前のデータベースも、俺のコレクションも、何もない。あるのは、この鉄屑の揺りかごと、夜明け前の暗闇と、明日どうなるか分からない俺たち二人だけだ」
そして、彼はニヤリと笑った。いつもの、少しキモい、でも今は頼もしい笑顔で。
「最高の舞台じゃねえか。ここから、お前の二話目を始めるんだよ」
二話目。
わたしの、新しい物語。
絶望的な状況。それは、見方を変えれば、無限の可能性を秘めた、真っ白な原告用紙。
わたしは、ゆっくりと顔を上げた。遠くの空が、少しだけ白み始めている。夜明けが、近い。
「……わたしの、二話目……」
わたしは、自分の両手を見つめた。そこにはもう、万年筆はない。でも、この空っぽの手に、新しい物語を掴むことができるのだろうか。
「ああ。お前だけの、誰にも真似できない物語をな」
ゴトン、ゴタン。
鉄屑の揺りかごは、夜明けに向かって進んでいく。
行き先は、まだ誰も知らない。
でも、それでいいのかもしれない。
わたしの胸の奥で、あの3.2気圧の圧力が、今度は確かな「希望」という名の熱に変わり始めていた。
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