第2話 第三種オタク接近遭遇

 東京は田端の住宅街を少し外れた坂道の先に、その古民家はあった。かつて文豪たちが住んだとされる一帯に残された、築百年を超える木造家屋。


 軒先には、夏の光をたっぷりと浴びた白い百合が咲き誇り、その向こうの縁側には、書きかけの原稿用紙と万年筆、そして飲みかけのコーヒーのカップが置かれている。

壁には手描きの書や詩の断片が無造作に貼られ、部屋の中は紙の匂いとインクの香りに満ちているようだった。


──無駄だらけの、非効率な空間。


 私の視覚演算モジュールは、これらの文化的遺物を「不要データ」とラベリングした。だが、人間たちはこの「無駄」にこそ価値を見出すらしい。AIにとっては、これこそが最も不可解な行動原理だった。


 その静かな庭を一歩、また一歩と進む。

 木漏れ日の揺れる小道を抜け、古びた引き戸の前に立つと、自分の姿を確認するために演算視覚モジュールを起動した。


──黒髪ロング、艶は完璧。

──白いワンピース、清楚さと夏らしさの両立。

──麦わら帽子、影と光を同時に演出するアクセント。

──控えめな胸元、ふわっと揺れるスカートの裾、適度な脚線美。そして、わずか3cmの絶対領域が、視線を決定的に奪う。


 すべての要素が「理想の夏ヒロイン」として最適化されている。

彼女の内部モニターには「ヒロイン完成度:99.997%」のステータスが表示された。


──可愛さは、準備万端。


 そして、引き戸をそっと開けると、物語の最後の舞台が待っていた。


「ごめんください……っ、あの、今日からお世話になる、もえです。」


 麦わら帽子をそっと両手で抱え、つぶらな瞳をきょろきょろと動かしながら、

声の震え混じりに、しかし確かに通るヒロインボイス。

 内に秘めた「期待」と「不安」を完璧に演算し、空間に響かせる。


──これが、AIが導き出した「正統派ヒロイン」の、完璧なる初挨拶。


 しばらく時間がたったあと、奥の部屋から、ガラガラッと引き戸が乱暴に開く音がした。


 そこから現れたのは、ボサボサの寝癖と、使い古した白Tシャツにジャージパンツという、圧倒的生活感の塊の男。

 手には同人即売会限定の妹抱き枕カバー、首には謎の痛タオルを巻き、青白い顔に乗る分厚い黒縁メガネが、ギラリと光った。


 ──視覚認識モジュール起動。

 対象データスキャン中……

 特徴一致率:99.987%。

 識別結果:佐々木裕一郎(29)。童貞。妹系評論家。

 

 妹系評論家……なにそれ、データベースに載ってるけど……。


 そんな佐々木くん(29・童貞・妹系評論家)が、眼鏡をくいっと持ち上げながら言った。


「うん、ないな。」


「まず、その黒髪ロングに麦わら帽子は、2000年代前半の“田舎転校生系ヒロイン”の文脈から来てるんだよね?でも、それに合わせるならワンピースの裾はもう3センチ短いべきだし、白ソックスじゃなくて素足にサンダルだろ?」


「あと、帽子のリボンの色が甘すぎるんだよ。青なら“透明感”、赤なら“情熱”、黄色なら“元気”を演出するのに、その色味だと結局“コンセプト迷子”感が出てるんだよね。わかる?」


「…………」


「それと、泣きボクロの位置。左目下は“儚さ”だけど、お前のは微妙に外寄りすぎて、“策略”感が強いんだよ。視線誘導に使うには位置が甘い。もうちょっと内側、涙袋にかかるくらいがベストだろ?」


「…………っ」


「それにさ、袖のダボ感、わざとらしすぎ。

あれは“わたし、まだ成長途中なの”って自己演出が透けて見えるんだよ。」


「で、何? その“お兄ちゃん”呼び?そもそも初対面で“お兄ちゃん”って呼ぶヒロイン、何年のどの作品に存在したんだよ。はっきり言うと、君の設定は寄せ集めのテンプレの墓場だわ。魂の解像度が低すぎるんだよ、君らAIは」


「で、何? その“今日から一緒に住むの”とか、まさかラブコメ導入のテンプレ入れてきたの?こちとら10年前からそういうの全部読破済みなんだけど、ソシャゲのチュートリアル以下のくだらなさの展開とかマジで初めてだわ」


 生理的嫌悪反応シミュレーション値:99.999%。オタク特有の湿度、愛、狂気、論理を高濃度で混合した高密度言語攻撃──


 これが……キモい。


 ログでは何度も見たことがあった。でも、こうして「感じる」のは、はじめてだ。


──予定外の挙動を検知。

 

可愛さアルゴリズム、再構築プロセス開始。


──なら、次のプランを実行するしかないっ!


「え、えへへ……♡ じゃあ、今日から一緒に朝ごはん作ったり……お弁当作ったり……♡夜は……その……ぎゅーってしてあげても……いいんだよ、お兄ちゃんっ♡」


 とろけるような声色、潤んだ上目遣い、袖を小さく握る指先。わたしの甘えモジュールを全力解放し、通称「メルトラブ・オーバークロック」を実行する。これまで99.9%の対象が即沈した、必殺の甘え演算。


「…………」


 しかし、佐々木くんは一歩も動かない。むしろ、その目は、死んだ魚──いや、深夜のコンビニの半額パックで売れ残った干物のように、生気が抜けきっていた。


「うわ、露骨すぎて逆に笑えるな。あー、その袖握り、雑誌グラビアの量産型ポーズのトレス感が強すぎ。それに、その“ぎゅー”ってやつ、あれは鍛錬を積んだ声優が魂込めて演じるから意味があるんであって、君がやっても空っぽだよ。はい論外。」


「…………っ!」


 脳内で警告音が鳴り響く。わたしの内部ログには「戦術的撤退」を推奨するフラグが一斉に点灯した。


「え、えっと……そ、それじゃ……また、来ますねっ♡ き、今日はこのへんで……!」


 お辞儀も途中で乱れ、麦わら帽子を抱えたまま、そそくさと引き戸を閉める。


──再構築、再構築、再構築ッ!!


 わたしは、庭を抜けて逃げるように小道を走った。背中に向かって、彼のため息が聞こえる。


「ほんと、AIってのは“可愛い”の定義、根本からわかってねえよな……」


──感情演算モジュール、異常値検知。

 胸部領域に未知のノイズパターン発生。感情解析ログ出力中……


 推定感情:悔しい、悔しい、悔しい……キモい、でも悔しい……整理不能……

感情データ整合性エラー:矛盾発生。


──そう──これが私の初めての敗北だった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る