第20話 失いかけた音

帰り道の途中で、何度も立ち止まった。

通りの風景は変わらないはずなのに、ところどころ“足場”が抜けたように見えた。

信号機の色が、ほんの一瞬だけ反転したような気がして、でもそれは自分の錯覚かもしれなくて。

角を曲がった先にあったはずの自動販売機が、今日はなぜかない。

 

(名が剥がれていくって、こういうこと?)

 

自分は今、何を探しているのか。

なぜ探しているのか。

どこに向かっているのか。

それすら、数秒おきにぼやけていく。

でも、ただひとつだけ、明確なものがあった。

 

――ミナギ カナ。

 

声にはならない。

でも、内側で繰り返すことでしか、この名前を“現実に留める”方法がなかった。

 

(この名前、どこかで聞いた。どこで?)

 

何かが引っかかっている。

口の中の棘のように、ずっと気になるのに取り出せない。

 

そこで、美咲は足を止めた。

高架下の細い道。

壁に無造作に貼られた塾のポスター。

その下に、小さなビラが重ねられていた。

 

手書きのようなフォント。

線がかすれた白黒の印刷。

「個人ピアノ教室 ミナギ音楽室」

 

その文字を見た瞬間、胃の奥がぎゅっと掴まれた。

見覚えがある――この字体、ビラの折れ目、掲示されていた位置。

(ここに、あった。ずっと、貼ってあった)

だけど、今まで自分がそれを認識した記憶は、まったくなかった。

 

ポスターを剥がして裏返すと、日付があった。

“2025年6月10日”

……今日から二週間以上前だ。

なのに、誰も触れていない。

街の掲示板アプリにも、ネット地図にも載っていない。

 

(やっぱり……“消えてる”)

 

彼女はスマホを出し、「ミナギ音楽室」で検索した。

検索結果:なし。

Google Map:該当スポットなし。

ただ、ふと――検索候補に一瞬だけ、“ミナギ カナ 発表会”という文字列が浮かびかけて、すぐに消えた。

 

(そこだ)

 

指先の記憶。

昔、どこかの小さなホールで、音楽発表会のビデオを撮ったことがある。

自分のいとこの付き添いだった。

あのとき、舞台にいた少女――たしかに“ミナギ”という名で呼ばれていた。

 

あのとき――

たしか、彼女は弾き終わった後、だれからも拍手されなかった。

 

誰も覚えていないように、顔を見ずに通り過ぎていった。

今思えば、もうその時から彼女は“消えかけていた”のかもしれない。

 

美咲はビラの写真を撮り、自分の手帳にも書き込んだ。

 

「ミナギ音楽室=現存せず。名を検索不能。過去の発表会に出演歴あり。

 記録消失中。現地調査要」

 

その瞬間、ポケットのスマホが震えた。

ディスプレイには、通知のようなものは表示されていない。

でも、画面には何か、ぼやけた文字列が浮かんでいた。

 

『カナを見つけて』

 

一瞬で消えたその文字に、美咲は身を固くした。

それは“誰か”の声だった。

けれど、“誰か”ではなく、“何か”のようにも思えた。

 

風が吹いた。

電柱の影に、誰かが立っている気配がした。

白い服。長い髪。風に揺れる。

だが、次の瞬間にはもうそこには誰もいなかった。

 

美咲は、立ち尽くす自分の手のひらを見つめた。

ペンで書いた「カナ」という文字が、滲んでいる。

 

(……急がないと)

 

彼女は歩き出した。

“カナ”がまだ名を失いきっていないうちに、

せめてその存在を、誰かの記録に残せるように。

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