第19話 白い花

東雲に案内され、彼の個人資料室のような書庫に入ったとき、椎名美咲は自分の内側が静かに切り替わっていくのを感じていた。

警察の建物の中なのに、なぜか――

ここだけは“普通の世界”ではないような、そんな空気だった。

 

棚に並ぶファイルには、どれも奇妙な共通点があった。

宛名のない事件。写真のない現場。目撃者はいたのに、証言が紙に残らなかった事案。

 

「……こんなにあるんですか」

 

「多すぎるぐらいだ。

 ただ、ほとんどが“記録されていないことにすら気づかれなかった事件”だ。

 俺が手元に残せたのは、ほんの一部だ」

 

東雲の声は冷静だった。

でも、冷たいわけじゃない。

それは、「見た者」だけが持つ、静かな怒りに近いものだった。

 

「君が言っていた“白い花”。

 実は俺も、現場で何度か見ている。だが、必ず写真に写らない。

 現場検証では“異常なし”として処理される」

 

美咲はうなずいた。

あの夜、自分が握っていた紙。

あの花弁についた、黒く滲む“沙”の一文字。

忘れようとしても、意識の底から浮かんでくる。

 

「……私、感じるんです。

 たまに、風の中に紛れて――名前が呼ばれてるような気配が」

 

東雲が美咲を見た。

「それは……“次”が近いということかもしれない」

 

美咲は唇を噛んだ。

あれ以来、日常の中に奇妙な“薄さ”を感じる瞬間が増えていた。

たとえば、通学路でいつもすれ違っていた中学生の顔が、思い出せない。

アパートの隣人が、いつの間にか変わっている。でも、名前が思い出せない。

 

(名が、剥がれていってる……)

 

「……もう始まってる気がします。

 また誰かが、“消えようとしてる”」

 

そのときだった。

机の端に置かれていた警察用端末が、ふっと明かりを灯した。

ログイン状態ではない。操作もしていない。

なのに――自動で、ファイル検索の画面が開いた。

そして、検索欄に文字が浮かぶ。

 

「ミナギ カナ」

 

一瞬、ふたりとも息を呑んだ。

誰もタイプしていない。音声入力もしていない。

だが、画面は確かに、それを“知っている”かのように表示していた。

 

「この名前……誰か知ってますか?」と美咲。

東雲は端末に向き直り、冷静に言った。

「……検索してみよう」

 

Enterキーを押すと、結果はこうだった。

 

該当者:0名

記録:存在しません

※該当する身元はデータベースにありません。

 

だが、画面の端に、小さなサムネイル画像が浮かんだ。

それは――夕暮れの街角に立つ、制服姿の少女。

顔はぼやけている。

影のようで、けれどどこか懐かしい輪郭だった。

 

「この子……」

 

美咲の心の奥に、ざわりと波が立った。

知っている。見たことがある。

だけど、名前が……どうしても、思い出せない。

 

東雲が、そっと言った。

「“彼女”が次に“喰われようとしている”者かもしれない。

 ……君の記憶に痕跡があるということは、君がそれを“記す者”として選ばれたということだ」

 

美咲は静かにうなずいた。

その瞬間、また風が吹いた――室内なのに。

窓の外に、何かが揺れた気がした。

白い、細く長い花の影。

 

東雲が、メモを取り始めた。

「名前:ミナギ カナ。映像:不鮮明。記録上:存在しない。

 ただし、証人あり――椎名美咲」

 

美咲も、鞄から手帳を取り出した。

そして、書いた。

「ミナギ カナ。まだ名前が残っているうちに、記す。」

 

手が震えていた。

でも、それでも書いた。

 

彼女はまだ“呼ばれることを、あきらめていない”のかもしれないから。

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