第3話【剣を取る】




 キィ……、




 暗闇の中で、身じろいだ。


 眩しそうに差し込んだ明かりの方を、ゆっくりと見上げる。


 決して、灯かりを付けるのを禁じられたわけではない。

 道具も蝋燭も、側に用意されている。

 ただ彼女は、使わずに闇の中に沈んでいた。

 そこに現われた人物は真っ暗だと思っていなかったのか、一瞬その場で立ち止まった。



「……あとは私が」



 声が聞こえる。

 見張りの兵士が下がって行く足音。

 微かに、現われて欲しいと願っていた姿では無かったから、彼女はもう一度部屋に用意された寝台の上で膝を抱えて座り、俯いた。

 長身の影が揺れる。

 入って来る。


「奥方様」


 呼びかけられたその呼び名に、フッ、と唇の端が歪んだ。


 孫黎そんれいである。


 孫呉の姫だ。

 曹魏そうぎに対する為に結ばれた呉蜀ごしょく同盟の象徴として、彼女は蜀にやって来た。

 最初は、嫌でたまらなかった。

 彼女はずっと江東こうとうの明るい、陽射しの下で生きて来たのだ。

 灰色がかる街並みの多い蜀は嫌いだった。

 風も、人も違う。

 

 建業けんぎょうの城は、明るかった。


 兄の孫策そんさくがいて側で周瑜しゅうゆが彼の大仰な物言いに、笑っている。

 若い侍女たちは、将軍たちを遠巻きに眺めてはあっちがカッコイイこっちがカッコイイなどと、暢気なことばかり。


 彼女たちが暢気でいられるほどに、戦場では勇猛果敢な姿を見せる武将や兵達の、覇気に満ちた修錬や、夢や、笑顔や……。


 そんなものがいつも溢れていた。


 それが大好きだったのだ、と孫黎は思う。

 離れなければならなくなって、彼らの大切さに気付いた。

 もう、遅かったけれど。


 ――それでも孫黎は心を決めて、生きて行こうと思ったのだ。


 しょくの主である劉玄徳りゅうげんとくは【江東こうとうの虎】と呼ばれる父を持つ彼女には、何とも威勢のない男に見えた。

 威勢は無かったが、彼には温かさがあった。

 異国から嫁いだ孫黎を、政略結婚だと理解した上でも大切にしてくれた。

 恋をしたわけではないけれど、……愛せるようになる人だと思えた。


 思えたが、もう今では、想うことすら許されないのだ。


 あの戦いの最中、呉蜀同盟が決裂した。

 なぜ決裂したのだろうということを孫黎はずっと考えている。

 曹魏を追い詰めていたのだ。

 水上で行われた大規模な火計は、曹魏の大船団をことごとく海に沈めた。


 孫黎には、戦の詳細は伝えられていなかった。

 

 だが劉備りゅうびは戦場に彼女の帯同を許してくれたから、彼女は自分の目で見たものは理解出来る。


 天をも焼くようなあの燃え盛る炎の色は、恐らく一生忘れられない。


 呉軍の水上火計が成功し、魏軍が壊滅状態になったと報告を受けた時、あそこでの皆が戦ってるのだと思ったら自然と涙が溢れて来た。

 命を賭して戦い、彼らが襲い来る魏軍から呉を守ってくれたのだと。


 ……そしてその燃える紅の色の中に昔からずっと見つめて来た、遠いどこかを強い眼差しで見据える、周瑜の姿を思い出した。

 

 その姿が揺らめき諸葛孔明しょかつこうめいに突如斬りかかる、真紅の双剣使いに変わる。



(……わからない)



 陸遜りくそんを、彼女はよく知っていた。


 若いが聡明で、心優しく、誠実な性格をしている青年だ。

 彼が自発的にあんな形で諸葛亮に斬りかかるとは思えなかった。

 陸遜は、彼を慕っていた。

 孫黎も何度か諸葛亮に対して深く礼をして、穏やかに二人で話している姿を見た。


 ――周瑜だ。


 それは分かった。

 周瑜が、陸遜に諸葛亮を斬らせたのだ。

 でも、それがどうしてなのかが分からない。

 何故あんな勝利も間近の戦の最中に、諸葛亮を早急に殺さねばならないのかが。


(わたしのことを、どう思っていたのだろう)


 周公瑾しゅうこうきんの、揺るぎない双眸を思い出す。

 ゾッとした。

 幼い頃から孫呉そんごの為に生きるよういつも自分に諭していたあの男なら「孫呉の為に死ね」くらい言うだろうと思う。

 だが、孫黎は孫呉の為に生きた。

 孫呉の為にここに来たのだ。

 蜀と結ぶために。

 これは劉備を愛したからではない。

 兄や、友や、大切な人がいる呉の国を愛していたからだ。


 周瑜が自分は安穏とした場所にいて、そんな非情な命令ばかりするような男なら、簡単に憎めた。

 だがあの男は、誰よりもその身を危険に晒している。

 幼い頃から、見て来た。


 兄である孫策そんさくと共に戦場に出ていても、戦場で人が変わるように暴れ回る兄の側に、常に周囲に注意を払う周瑜がいて、急襲があった時は周瑜は自分がその場に残っても、まず孫策をその場から逃れさせた。

 あの男が、孫策を戦場に連れ出してしまう。

 ……でもあの男ならば、孫策を自分より早く死なせるようなことは絶対にしないだろうと、そう信じることも出来る。


 周瑜はいつでも孫策の為、孫呉の為に命を投げ出せる覚悟が出来ているのだ。

 だから、彼は他人にもそれを当然のように要求する。


(仕方ないこと……)


 仕方ないこと。

 その一言で、あの男は自分を諦めたのだろうか?

 孫黎は拳を握り締めた。


 怒り? 悲しみ? 戸惑い?


 自分の胸にある感情の名前が、見つからない。

 

 どれも少し違うように思う。

 自分をこの異国に嫁がせたくせに、その一方で裏切る手筈も整えていたという事実が、彼女の胸に周瑜への不信を抱かせていた。

 

(だってそれでは、まるで捨て駒だ)


 この政略結婚により一瞬だけ蜀の目を欺き、眩ませ、……本当の刃は冷徹に、研ぎ澄ませて……。

 自分はたったその一瞬の為だけに物のように売り払われ、この異国で果てるのだろうか。


さく兄さまは……)


 涙が滲む。

 異国に嫁いだ妹を、一番気に掛けてくれていた。

(策兄様もこのことを知っていたの?)

 孫黎は狼狽した。


(知っていて、承知したの? わたし……私の命は、もう仕方ないと諦めて?)


 分からない。

 彼女は長兄を愛していた。

 次兄は気難しい所も見せるので嫌いなこともあったが、孫策のことはいつも好きだった。

 父が死んでから、全ての孫呉の重荷を背負いながら、

 ――それでも孫策は以前と変わらず、優しかった。

 孫黎に以前と何ら変わらない、幸せだと思える日常を与えるように、いつもそういう風にしてくれていたのだ。


(策兄様も周瑜に賛同したのだろうか。

 名案だとさえ思って?)


 彼女の碧の瞳から涙が零れる。

 ――男は、戦場では変わる。

 あの優しい孫策でさえ、こんなに非情なことが出来るようになる。


(……もう、怖いよ)


 男はもう、何も信じられない。


「……明かりを付けましょう」


 側にやって来た男が、静かに言った。

 孫黎は大きく首を振る。


 血を分けた兄が自分を捨てたのだ。

 政略結婚で嫁いだ夫など何の躊躇いも無く自分を見捨てるだろう。

 恐ろしいのは、身内に捨てられても尚、孫呉の姫という自分には利用価値があるということだった。

 こんなに心は傷ついて、魂も死んだように思うのに。

 ――これから、肉体もまた、死なねばならない。


 心の拠り所を失って、孫黎は怯えていた。


 どこか密かに、あの優しい瞳の男が自分の元をもう一度訪れてくれないかと願っていたがその望みもたった今、打ち砕かれてしまった。


(……もういい。もう疲れたわ。

 誰かを憎むのも、不安でいっぱいになるのも、信じられないのも、もう嫌だ)



『女は宿命なのです、黎姫れいひめ

 自由に生きようとなさるから悲しみ、苦しむ……果てもなく』


 輝く宝玉のような瞳の女が、脳裏でこちらを見据えて笑った。


『わたくしの宿命は……お会いした瞬間に分かりました。

 夫を討ち、その血で濡れたその刃の切っ先でわたくしを指し示されたあの方を見た時……この方の為に生きこの方の為に滅びようと』


 自分の夫を殺され、その殺した男に略奪され、その男を愛したという。

 愛する人間が滅びろと命じたら喜んで滅びるという。



(私には無理だ)



 孫黎の愛する人間は、自分に滅びろなどとは命じない。

 そう彼女は信じて生きて来たから。


『己の心の持ちようで、どれだけでも人は誇り高くなれるのです。

 貴女はご自分でご自分を悲しい存在にしているだけですわ。

 そのような人間とこのわたくしが、同じであるはずが無い!』


 甄宓しんふつならば、こんな状況でも微笑むのだろうか。

 よく自分を有意義な駒として使ってくれましたと微笑み、使われた自分はなんて幸せなのだろうかと、胸を幸福感で満たせたのだろうか。


 戦乱の世で――間違っているのは自分なのだろうか?


「奥方様」

(やめて。そんな呼び方をしないで)


 孫黎は拳を握り締めた。


(わたしのことを、愛してもいないのに、この政略結婚は、政略結婚ですらなかったのに)


「これより白帝城はくていじょうに、奥方様をお連れします。

 殿の命により、この趙子龍ちょうしりゅうが……」


「……どうして?」


 低い声で彼女は言った。

 俯いていた顔を上げ、趙雲ちょううんを睨む。


「どうして白帝城に連れて行くの? 

 ――どうせ殺すなら!

 今、ここで殺したって同じでしょう!」


 感情が爆発する。

 分かっている。趙雲にこんな想いをぶつけても、どうしようもない。

 これは国のことだ。

 劉備に罵詈雑言を浴びせても、無駄なこと。

 でも、それでも、一度でも人と人として向き合ったなら、無意味でも劉備に来てほしかった。

 彼が自分を哀れに思いながら、それでも国同士の事情で死んでもらうことになってしまったと言われれば無論、痛みは変わらなくてもそうなのかと、どこかで思えた。

 劉備がそう言うのなら……仕方ないと諦められたかもしれないのに。

 最後の最後に劉備でさえ、孫黎に向き合うのを面倒に思ってやめたのか。



「貴方にこんなことを言っても、仕方ないと思うけど……!」



 涙が溢れる。

 止めどなく頬を伝った。

 仕方なくても、誰かに言わずにいられなかった。


 ――自分がここまで生きて来たのは、こんな最後を迎える為だったのか?


「私にだって、最後の意地がある!

 孫呉の姫としての! 

 これは、貴方たちが仕掛けたことじゃない。

 孫呉が画策したことよ。

 だから私は、例えここで殺されても貴方たちのことは憎まない。

 ――でも! 

 私の処刑を命じるのが玄徳げんとく様なら、玄徳様にここで死んでくれと言われたかった!」


「奥方様」


「呼ばないで!

 そんな、白々しい呼び方、二度としないで!

 私は孫黎よ!

 孫呉が天下を制する為に、捨て駒になった孫家の姫なのよ!」


 泣き喚く孫黎の振り回した手を、趙雲が掴んだ。


「放して!」


「……孫黎そんれいさま。そんなことを言ってはなりません」


 一瞬趙雲は孫黎の掴んだ手首にギリ、と強い力を込めた。

 その痛みに、ほとんど怒り狂っていたと言っていい孫黎が、一瞬我に返る。

 顔を上げると、趙雲が哀れむような光を目に浮かべて彼女を見下ろしていた。


「……なによ……」


「……。貴方は、賢い方だ。

 呉蜀同盟が決裂した今、自分の置かれている立場をよく理解しておられる。

 理解した上であの大戦から今日まで独り、我々に怒りもぶつけず、よく耐えておられた」


 趙雲の力が緩んだ。

 孫黎は目を閉じる。

 どこか優しい響きを含んだ趙雲の声に、ああ、自分は本当にこれから殺されるんだと実感が湧いた。

 もう逃げようもないのだ。


「………………貴方が許してくれるなら、そこの窓から落ちて死にたい」


 せめて楽に死なせてもらいたかった。

「……。」

 分かっている。それではだめなのだ。

 もし孫黎が自ら死ねば、事故死となればそれは呉に蜀を攻める口実を与えることになる。

 呉蜀同盟を裏切ったことに対する蜀の報復ならば、孫黎の死は『処刑』でなければならない。

 

 趙雲の沈黙に、年若い姫は耐えられなかった。


「……お願いだから今、貴方の剣で私の胸を突いて。

 貴方にも玄徳さまにも、迷惑はかけない。

 私は私の運命に絶望して、自分で胸を突いたと、文を遺す。

 それを呉の周瑜に送りつけるわ。

 どうせ、呉蜀同盟はもう決裂している。

 呉は私がいるからといって、蜀を攻めることをやめたりはしない。そうでしょう?

 それとも玄徳さまの政は、まだ私にこれ以上の犠牲を求めるの?

 私は死にたくないと言ってるんじゃない。

 死ぬと言ってる。

 せめて、楽に死なせてほしいの。

 私が周瑜に文を書けば、少なくとも呉は、私の死を蜀攻めの口実には出来ないわ。

 そうでしょう?」


「……。」


「玄徳様が何が何でも、白帝城で私を処刑しろと?

 私が死を望んだら、そうさせてやってくれとは言ってくれなかったの?」


「……孫黎様。

 周公瑾しゅうこうきんに文は不要です」


 劉備は趙雲に、孫黎にはこれ以上言葉をあまり与えない方がいいと言っていた。

 与えても、彼女が絶望するばかりだと。

 

 だが絶望するばかりといえば趙雲の目にはもう地の底まで、とっくに孫黎は絶望しているように見えた。

 彼女の言葉には孫呉に対する疑念も見え隠れしていた。

 彼女は全てを知らないのだ。

 ただ自分が捨て駒にされ死んでいくと思っている。

 趙雲は、哀れだと思った。


 そうだとしてもそれは、人の望んだことではなかったのだと、

 天の定めでそうなってしまったことなのだと、教えてやりたかったのだ。



「周公瑾は、亡くなりました」



 絶望の色に沈んでいた孫黎の瞳が一瞬見開かれ、色を取り戻した。

 鮮やかな碧色の瞳が、趙雲を呆然と見上げている。

 その大きな瞳から大粒の涙が、感情もなくただ、零れる。


「………………え……」


 それは趙雲が何を言ったのか、理解出来なかったというように見えた。


「……貴方にはもう一つ言っておかなければ。

 貴方の長兄である孫伯符そんはくふ殿も、亡くなったのです」


 孫黎の唇が震える。


 兄の顔が浮かんだ。

 その隣に佇む、周瑜の顔も。


「……あなた、……なに言ってるの……」


「……。」

「策兄さまと周瑜が死んだなんて……、どういうつもり……?」

「……。」

「そんな嘘言って、……どういうつもりなの?

 わたしを、……そんな嘘で、……一体どうしたいのよ」

 嘘と言いながらも趙雲には、目の前の女性が嘘だと思っていないのだと、そのことはよく分かった。


「奥方様。――嘘ではありません。お二人は亡くなられました。

 貴方にはどうしてもお伝え出来なかった。

 我が主、劉玄徳は、貴方の運命を不憫に思われています。

 貴方は呉蜀同盟決裂をあの戦場で目の当たりにされた。

 その意味も、理解しておられる。

 だからこそ、そのことはお伝え出来なかったのです。

 四月頃、呉から、貴方を国に戻してほしいという文が送られてきました。

 その文の中でお二人の葬儀を執り行う為、貴方をどうか返して欲しいと……新しく君主となられた孫仲謀そんちゅうぼう殿の名前で」


「……どうして、」


「人は身が滅ばずとも、魂が死んでしまえば死に等しい。

 貴方はもう十分苦しんだ。

 だからこれ以上のことはお伝えしたくないと、劉備様はそう望まれたのです。

 それを責められるのなら、主の代わりに私をどれだけ非難して下さって結構です」


 孫黎は首を振った。

 大きく、横に振る。


 確かにそれを聞いていたら、この三ヶ月ほどの間何度もこの身を駆け巡った、自分を捨てた者達への怒り、憎しみ、嘆き……その象徴であった周瑜への、言葉に出すことも今では躊躇うような罵詈雑言、そんな醜いもので自分を満たさなくてよかった。


 でも。


「……どうして?」


 孫黎が聞きたいのは、そんなことでは無かった。

 自分が傷つくと思ったから死を伝えられなかったなどという、そんなことはどうでも良かった。

 趙雲は気付く。

「孫策殿は……戦死です。

 あの大戦で呉の武将が、諸葛亮しょかつりょう殿を狙ったのを貴方も見たはず。

 あれとは別の場所で我が軍の魏延ぎえん将軍が大戦の先を見越して、孫策殿の首を狙ったのです」


「…………殺されたの?」


 孫黎の声は震えた。

 目から、大粒の涙が零れる。

 

 あの優しい長兄を殺した人間がいるなら、この手で自分が殺してやりたかった。


「……相討ちです。魏延将軍は孫策殿に首を取られました。

 ですがその戦いの最中に負われた死傷で、亡くなられたそうです……」


 孫黎は寝台の上で膝立ちになっていたが、力を失ったようにその場に崩れた。


 寝台についた手の甲に、自分の大粒の涙が落ちる。


 そうだ。

 泣いている場合じゃない。



(周瑜)



 あの男が死ぬなんて、信じられない。

 あの恐ろしい男。

 迷いのない、強く、冷徹で、……誰よりも兄を愛した男が。


「周瑜……は、」


 孫黎は胸が潰れそうになった。

 彼女の頭に刹那過ったのは周瑜が、死んだ孫策に殉じたのではないかということだった。

 普通に考えればあの男は、大望も果たさずに自分の喉を突くような男ではない。

 そうではなかったが孫策が死んだと聞けば、話は別だ。


 ……それほどの、絆であの二人は結びついていた。

 

 まるで自分の半身のように。

 半身が死んだら当然のようにその人は死ぬのではないかと、彼女は咄嗟に思ったのだ。



「……周瑜殿は、病没と聞きました」



「病没……?」

 頭の片隅にも無かった答えに、一瞬訳が分からなくなる。

「びょうぼつ……って、病気……、周瑜、病気だったの?」

「胸の病だったそうです。周瑜殿はまだ三十代の若さであられた。その命を奪うほどのものですから、余程の大病だったのでしょう」

「……、」


「そこまで仔細は分かりませんでしたが、突然倒れて亡くなられてない以上、恐らく呉蜀同盟を結ぶ前から周瑜殿は身体を患っておられたのではないかと、うちの軍医達も申していました。

 ……私は蜀の武将です。

 我が主は、望んで他国を攻めることはなさらない方です。

 ですから、呉蜀同盟が結ばれた時は、本当にこれを喜んでおられた。

 ――側の方々の思惑はそれに限らないにせよ。

 あの方は、信じておられました。

 だから私は、呉蜀同盟を己の意志で断ち切った孫呉を許すことは出来ません。


 しかし、思うのです。


 あの大戦で見せた周瑜殿の覚悟や鬼気迫る戦ぶりは、本当に自分の命を燃やして全てを懸けておられたのだと。

 ……そう分かった今、呉蜀同盟が決裂したことも天命ではないかと」


 周瑜が病など、孫黎は知らなかった。

 もし趙雲の言ったことが真実なら呉蜀同盟が成った時には、周瑜は自分の身体に大きな異変は感じていたのだろう。

 そんなことは思いもしなかった。

 全くあの男はそれを見せなかったからだ。


 いつからなのだろう。


 思い起こせばどの場面を切り取っても周瑜が真っ直ぐに孫呉の為に忠誠を捧げる姿しか思い浮かばず、彼女は後悔した。


(わたしは分からなかった。

 周瑜の苦しみを、分かってあげられなかった。

 あの人はあの戦いの時には、もう長く自分が生きることなど考えていなかったんだ)


 奇妙だと思っていた陸遜が諸葛亮に、斬りかかる姿。


 温和なはずの彼が何故あれほど戦気を剥き出しに諸葛亮に襲い掛かって行ったのか、真相を聞いたわけではない。聞いたわけではないが彼女には分かった。


(陸遜は、知っていたんだ)


 きっと周瑜の病のことを。


 周瑜は孫呉の勝利を見越していたのではない。

 自分のいなくなった後の世界のことを、見越していた。

 残される者達が更に大きな敵や困難を背負い込まずともいい様に、彼があの時出来ることは強大な曹魏を長江で打ち破り、そして出来る限りの脅威となる敵を討ち取っておくこと。


 諸葛亮は、周瑜を見慣れている孫黎の目には優しい男にしか見えなかったが、彼は【臥龍】と呼ばれるほどの才能だという。

 周瑜には何か思うことがあったのかもしれない。

 陸遜は周瑜に命じられて彼を斬りに来た。


 もし、あの大戦が開戦する前から周瑜が諸葛亮の暗殺を決意していたのなら、陸遜があの場に送り込まれて来たのは偶然ではない。

 蜀の陣中だ。

 一歩間違えれば、陸遜も蜀の兵に殺されていただろう。


 彼は周瑜の側で、ずっと学んで来た。

 陸家の当主であり、若き才能であり、そういうものは呉の未来の宝なのだと孫策がよく言っていた。

 蜀の孔明を戦の最中に斬りに行けと言われることは、死にに行くよう命じられるようなものではないのか。


(それでも陸遜は使命を果たした)


 死に行く周瑜に命じられたからだ。


 陸遜にそう命じた周瑜の心と、

 命じられた時の陸遜の気持ち、

 そしてそれを果たそうと決めた彼の心と、

 陸遜が頷いた時の周瑜の気持ちを考えた時、孫黎の目から再び涙が溢れた。



(策兄さまは、周瑜のことを知っていたんだろうか……)



 知っていたのかもしれない。

 知っていただろう。

 ……あの二人なら、きっとそうだ。


(策兄さまはわたしを見捨てたんじゃない。

 私に願ったんだ。周瑜の力になってくれるように)


 周瑜が孫策に殉じたのではない。

 逆だ。

 孫策は周瑜に全てを懸けたのだ。

 その命の最後に、あの大戦に挑んだ友の力になる為に彼が命を捧げた。

 自分に長い間、魂を捧げて来た周瑜に対する、それが孫策の想いなのだ。


 あの大戦の勝利は周瑜でしか描けなかった。


 黄蓋こうがいでさえ、周瑜に懸けたのだ。

 そして命を投げ出した。


(わたしは、自分の意志で蜀に来たはずだ)


 それを忘れていた。

 自分の意志で故郷を離れたのだから、蜀ではきっと幸せになる権利があると心のどこかで思っていなかったか。


 ――呉軍の中には、自分が幸せになる権利があるなどと思っている者は一人もいない。


 みんな戦乱の世に望まず生まれて、何かを守る為に何かを犠牲にして、心も時に捨て戦っているのだ。

 幸せを描くのは、戦い終えてからでいい。

 

 あの時、蜀になど行きたくないと孫黎が泣き喚けば……きっと周瑜は許した。

 彼女はそんな風に思った。

 今まで許さなかった全てを償う意味で、許しただろう。

 孫策が言った。

 そんなに蜀に嫁すのが嫌ならば、自分が連れ帰ってやると。

 孫策は周瑜の全てを知っている。

 周瑜が孫策にそう話したのだ。

 例えそれで、劉備と孫黎の婚姻がならなくとも、周瑜ならばきっと劉備を説得してあの大戦に挑んだのだろう。


 だから周瑜の中では孫黎の婚姻は計略の一つではあったが、成らないのであれば別のやり方を考える。そういうものだった。

 孫策や、孫黎自身がそれを嫌がれば、彼は頷いて意見を取り下げただろう。

 

 彼女は仕向けられたのではなく、自分で選んだのだ。

 孫黎は思い出した。

 自分も国の為に何かしたいと思って、望んだ。



「…………周瑜……」



 聞いた今でも信じられない。

 彼が、もうこの世にいないなど。

 父である孫堅が死んだ時、彼女はこれと同じような感覚を覚えたような気がした。

 決して失われないはずの人が失われてしまったという、深い悲しみが。


 嗚咽が漏れる。


 幼い頃から兄と本当に一緒にいたのに、いつしか孫黎は周瑜が苦手になって、

 ……きっと話したいことの十分の一も、周瑜とは話せないままになってしまった。


 あの人は生粋の軍人だったのだ。

 戦いながら生きて、戦って死んだ。

 守られながら生きて来た孫黎と、ものの見方が同じであるはずがない。


(遺されたみんなは)


 平気でいるだろうか?

 孫堅が死んでから文字通りあの二人が孫呉の先頭に立ち、導いて来たのだ。

 その二人を同時に失って彼らは恐れ、迷っていないのだろうか?


 呉の地に残して来た者達の顔が過って、彼女は尚更辛かった。


 趙雲は泣き崩れている孫黎を見下ろしていたが一礼して、出口へと歩き出す。

 そこにいた衛兵に小さい声で目を離さずにいろ、と命じた。

 衛兵はすぐに理解したように頷いた。

 彼女が自ら死ぬようなことがないように。


 立ち去ろうとした時。



「――待って」



 趙雲は振り返る。

 孫黎が立ち上がり、薄暗い部屋の中からこちらを見ていた。


「わたしを、白帝城に連れて行くと言ったわね。

 それなら、連れて行って」


「……奥方様」

 彼女はまだ涙を流していたが、声は震えても力は籠っていた。


「もう、心は決まった。

 孫呉の姫として死を与えられるのなら、私はそれを受けるわ。

 でも、もうこの暗がりでこれ以上、自分を責めて生き永らえたくない。

 今すぐに連れて行って」


 趙雲はしばらく押し黙ったが、やがて頷いた。


「分かりました。私が白帝城にお連れします」


 趙雲は言って、そのまま孫黎を部屋から連れ出した。

 彼女はすでに虜囚の身なのだから縄で縛るのが普通ではあったが、趙雲はそのまま彼女を用意していた馬車に乗せ、僅かな護衛を伴い成都の王宮を発った。


 馬車の中で孫黎は膝を抱えて、顔はずっと伏せていた。

 まだ泣いているのだろうと思う。

 趙雲は馬車に並走させながら、一度城の方を振り返った。

 城の最上階の一画に、明かりが灯っている。

 遠目だが、窓辺に人がいるように見えた。


 恐らく劉備だろうと、彼は思った。



◇   ◇   ◇



陸遜りくそん



 呼ばれて、陸遜は振り返った。

 そこに呂蒙りょもうの姿がある。

 彼は部屋の中ほどまで入って来ると、見回した。


「おお、随分片付いたな!」


 陸遜は微笑む。

「はい。もうそこの荷を解けば、使えるようになると思います」

「すまんな。こんなことまで手伝わせて」

「いえ。手が空いていたので構いません。呂蒙殿は江陵こうりょう軍の引継ぎもあるのですから、お忙しいと思います」

「すまん。俺はどうも要領が悪くてな。自分の耳で直接引継ぎをしてもらわないと、状況が把握出来ん」

「今は少しの油断もならない時ですから。

 慎重になるのは良いことだと思います」

「ありがとう」

 すまなそうにしていた呂蒙は笑顔を浮かべた。

「いえ……ここに置いた書物は、……お読みになるのですか?」


「段々と時間が取れればな。俺はまだ、学も足りん。

 付け焼刃ではどうにもならんのは分かるんだが、やらないよりはマシだ。

 それに時間がない時間がないと言っていても、時間は増えん。

 少しでも時間を見つけて、読めればな」


 陸遜は棚に並べた本の一つに触れた。

「……仰る通りですね」


周瑜しゅうゆ殿などは、のんびりと書物を読んでおられるところも見たことが無い。

 それであの博識だった。

 やはり、幼い頃より自分がどうなるべきか、為すべきことをしっかりと見据えて、理解しておられたのだろうな。

 才能以前に、あの方は積み上げた土台も違う。

 周瑜殿のように、などというつもりは元より無いが、命を預ける兵からしてみれば、俺は周瑜殿ではないから、などと言ってはおられぬからな」


 陸遜は、瞳を瞬かせた。

 呂蒙はあまり否定的な言葉を言ったり落ち込むところを見せない人ではあったが、彼の口からそういう言葉を聞くと、やはり周瑜の後任という責務は重いと感じていることが分かる。


 ――にいる誰も、周瑜のようになれなどと軽々しく言う者はいないだろう。


 魯粛ろしゅくと呂蒙は、周瑜に推挙されたのだ。

 逃れ難い使命であることと、いかに重いことかは【赤壁せきへきの戦い】と、それ以前の周瑜の姿を知っている者ならば、全員理解出来る。

 

 建業けんぎょうでも江陵でも、着任した呂蒙は現場の兵士や将校たちから労われた。

 それでも呂蒙は自分を戒めて、少しでも周瑜との差を埋めようとしているのが分かった。

「陸遜?」

 じっと自分を見ている陸遜に気づいたのか、呂蒙が首を捻る。

「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」

 陸遜は慌てて首を横に振った。


「いえ、――すみません。私も、目の前のことで手一杯だったので、

 呂蒙殿は……御立派だなぁと、思って……」


 呂蒙が目を丸くする。

 数秒後、彼は大笑いした。

「あっはっはっは!」

 笑われて陸遜はすぐ、自分が変なことを言ったのだと自覚する。

「す、すみません。変なことを言いました」

「いやいや。別に言ってない。

 そうか、ではお前にこれからも立派だと思われるよう、頑張って精進せねばな」

 呂蒙はおかしそうに笑っていたが、陸遜は恐縮している。

「りょ、呂蒙どの」


「おっ。呂蒙、なに爆笑してんだよ」


 振り返ると、甘寧かんねいが入って来るところだった。

  

「楽しそうでいいなぁ、こっちの城は」


 この江陵の地には三つの城がある。

 三つといっても、揃って防衛線の意味を含んでいるからごく近場だ。

 お互いの城を、目視出来る距離にある。

 江陵方面軍、総大将である呂蒙が着任した城はこの長江の川沿いに向かって、最も高台に建てられた【賦知ふち城】である。

 甘寧は水軍調練を任されていることから、着岸出来る港が最も近い【黄雅こうが城】だ。

 ここからも見える。


「呂蒙、俺もこの城に部屋が欲しい」 

「駄目だ。お前の部隊は人数が多い。こっちに来るとゴチャゴチャする」

「俺の部隊とかはそのままでいい。俺だけ来る」

「駄目だ。お前のとこは新兵が多い。上官がそうしょっちゅう場を外していては、求心力に関わるし、兵も不安がる」

 甘寧は顔を顰めた。

「何でおれがガキどもの面倒みなきゃいけねーんだよ。

 修錬はちゃんとしてやってんだからいいだろうが」


「だーめーだ。将という者はな、戦場だけで奮えばいいというものではないぞ甘寧。

 普段からの部下との絆があってこそ、部下も戦場で、将の命令に命を賭けてくれるというものだ。……というかそんなこと俺が言わんでもお前は誰よりも分かってるだろうが」


「別にほとんど隣の城なんだからいいだろォ」

「ならん。お前はどうせここに来たら陸遜に構い倒して仕事に支障をきたすに決まっておる」

「んだよ~! 陸遜! 分かってねえこいつにお前から言ってやれよ!

 俺はお前の仕事の邪魔なんか一回もしたことねえよな!」

「……えっ、と……んん……どうだったかな……」

「陸遜てめー!」

 陸遜としては「いえ、いつも邪魔しに来ます」と言わないだけ気遣ったつもりだったが甘寧は怒って陸遜の首に腕を掛け、ぐぎぎぎと締めに掛かって来る。

 勿論戯れの手加減は十分したものだったから、陸遜はこの人だけは本当にいつもと変わらないなぁ、などと逆に少し尊敬してしまった。


「呂蒙殿【黄雅城】から前任の守備隊長が……」


 淩統りょうとうが顔を覗かせ、そこで陸遜を押し潰しながら首に腕を掛けている甘寧を見つけると、彼は片眉を吊り上げ、同時に探った懐から何かをシュッ! と投げた。


 迷いなく飛んだそれが、グサッ! と思い切り甘寧の額の中央に命中する。

「おわっ!」

「わっ!」

 あんまりにも綺麗に命中したので、陸遜も驚いて声を上げた。

「いてぇな淩統てめーっ! 今なに投げやがった⁉」


「短剣だよ短剣。便利だろ?」

 

 淩統は懐に仕込んであったらしい手の平に収まるほどの小さく簡素な刃を取り出してみせた。

「てめぇなんてモン投げてくんだ!」

「うるせぇな……だから逆さで投げてやっただろうが。ゴチャゴチャ言うんじゃねえよ」

「何が逆さで投げてやっただ逆さじゃなかったら俺の額大量出血だろ! 

 てめぇホント……馬鹿だろ⁉」


「誰が馬鹿だ。だから前からそうやって陸遜様に絡むのやめろっつってんだろ。

 建業の王宮は甘めに見てやってたが今は遠征先だ。

 そういうふざけた言動見つけたら、これからドンドン投げてくからな」


 いてーっとまだ赤くなった額をごしごししている甘寧の額を撫でてやりながら、陸遜は床に落ちた短剣を拾い上げる。

「本当に真ん中に命中しましたね」

 呂蒙が腕を組み、頷いている。

「そうだったな。淩統。お前は弓の腕前も相当だと殿から聞いているぞ。淩操りょうそう殿もそれは弓の名手であったというし、やはり血かな?」

 父を誉められ淩統は少しだけ、嬉しそうな顔をした。

「いえ……」

「そうなのですか。私も、馬、剣、弓くらいはきちんと心得ておかなければならないなと思っているのですが……。弓はまだ、どちらかというと不得手です」

 淩統は目を瞬かせる。

「そうでしたか? でも……修錬場ではお上手だったと思いましたが」

「修錬場の的は、動きませんから」

「淩統に教えてもらえばよい。陸遜。やはりこういうものは、要領を得ている人間に教わった方が、上達も早いぞ」

「えっ!」

「えっ」

 淩統と陸遜が同時に驚いた。

「でも……それはご迷惑では……」


「いえ! 全然迷惑などではないです。

 むしろそんなことでしたらどれだけでも……いえ、あの……俺も新兵を調練していますし、――そう! 弓も教えていますから。

 よろしければ、その時に一緒に教えて差し上げます」


「うん。陸遜は俺の補佐官として着任しているからな。

 部隊を今回、近衛以外連れて来ておらんだろう。

 いざという時に、俺や淩統の軍も指揮出来るようにしておくのはいいことだぞ。

 戦場は何があるか分からん。出来るだけ兵士たちと親交を持っておくのはいい」

 なるほど、と陸遜は頷いた。

「では次の調練の時に、ご一緒させていただいてもよろしいですか?」

「はい。喜んで。陸遜様なら、きっと上達も早いでしょう」

 淩統は内心飛び上がっていたのだが、それを押さえるように後ろ手を組み、表面上は落ち着いた様子で微笑んで見せた。


「陸遜。俺だって弓の名手だぞ。教えて欲しいなら何で俺に言わないんだよ」


 不満気に立ち上がって甘寧はそんなことを言った。

 まだ額の中央が赤くて拗ねるように言うものだから、子供のように見えて陸遜は少し笑ってしまった。

「はい。貴方が弓の扱いも上手なのは知っています。

 でも、いちいち教えたりするのは面倒で嫌かと思って……」


「嫌じゃねーよ! お前になら全然教えてやんのに!」


「いつも何でも面倒臭がってるからいざという時こういうことが起こるんだよ。残念だったな甘寧さんよ」

「淩統! てめー!」

「お前たちはまったく、建業にいる時と何にも変わらんなぁ」

 呂蒙が明るく笑っている。

 陸遜は、先ほどまで少しだけ疲れているようにも見えた呂蒙が笑顔を見せたので、少し安心した。

「そうだ。守備隊長が来たんだったな、淩統」

「あ、はい。二階の軍議室にお連れしました」


「そうか。すまん。

 ――陸遜、今日はもう適当に切り上げてよいぞ。多分軍議は明日になる」


「はい。

玲矢れいし城】の守備隊編成表は完成しましたが、今夜提出した方がよろしいでしょうか?」

「おお、もう出来たか。助かる。そうだな、それも明日の軍議に持って来てくれるか」

「かしこまりました」

「甘寧。副官が優秀だと仕事が捗るなぁ。淩統も陸遜も文武両道ゆえ、本当に助かる」

「そうかよ。陸遜を俺の副官にくれ」

「絶対やらん。」


「呂蒙! てめー!」


 呂蒙が笑いながら歩き出す。

興覇こうは。お前は本当に実戦が無いとだらけるなぁ。

 退屈させて悪いが、もう少ししたらこちらも随分落ち着く。

 そうしたらまた飲もう」

 呂蒙が淩統と出て行くと陸遜は、はたと淩統の投げた短剣を手に持ったままだったことに気づく。

「返すのを忘れてしまいました」

 今追っても十分追いつけると思うが、陸遜は小さく息を付く。

「明日も会いますから、その時でいいですね」

 隣の甘寧を見上げる。

 甘寧はそっぽを向いていた。

 陸遜は笑ってしまった。

「……退屈してるんですか?」

「してる」

 ぶっきらぼうに返して来た。


 呂蒙の言う通り、甘寧は実戦の緊張感が無いと途端にだらける所があった。

 ここは開戦していないとはいえ一応半分戦場だから、まだそれなりの緊張感は持っているようだが、この開戦するのかしないのかも分からない状態というのが彼の場合、良くないのだろう。

 甘寧は剣を振るってれば気分が乗って来る性格をしているので、兵達の修錬でいい加減なことをするような人ではないと、それは分かっていたが大抵甘寧は退屈し過ぎるとろくなことをしなくなる。


「……それなら甘寧殿、もし今からよろしければ、遠駆けに付き合っていただけませんか」


 甘寧が振り返った。


 建業からおよそ二週間の道のりだった。

 船は違ったから会うことも出来なかった。

 江陵に着いて甘寧が頻繁にこちらに顔を出すようになり、陸遜は甘寧の顔が見れて単純に嬉しかったが、ここは戦場なのだからいざとなれば前線に立ち、指揮を執らねばならない甘寧の集中を妨げてはいけないと思って、自分からはあまり余計な話などはしないようにしていたのだ。

 

 だが、甘寧自身が退屈だというのなら、遠慮はいらないだろう。


 甘寧とゆっくりと話したかったという気持ちは否定しないが、陸遜はまだ着任後この地の付近の地形や状況などを確認出来ていない。

 早めに自分の目で確かめたいと思っていたのだ。


「付近の様子を、見ておきたいのです」


 陸遜が言った途端、甘寧の瞳が子供のように輝いた。


◇   ◇   ◇


「おまえなぁ……そんなこと考えてたのかよ……」


 馬を軽く走らせながら夕暮れの林の中で陸遜りくそんが打ち明ければ、甘寧かんねいが呆れた声で返す。


「お前はそんなことに気を回さないでいいんだよ!」


 走行中の馬の上から頭をわしっ、と押さえつけられ盛大にかき回される。

 陸遜は慌てて手綱を握り締めた。

 馬が鳴いて、脚を緩める。

 一瞬で鳥の巣のようになった髪を何となく直しながら、陸遜は溜め息をつく。

 追い抜いて行った甘寧も馬を止め、ゆっくり戻って来た。


「俺もお前も昨日今日の付き合いじゃねーだろ。

 俺が戦の前に、お前にそんな話しかけてくんなとか言ったり、空気出したことあるか?」


 陸遜は首を振る。

「……一度もありません」

 確かに甘寧はそういうことが全くない。

 戦から戻って来て何となく気が昂るので、独りになりたいというようなことは幾度かあったが、戦の前は本当に一度もない。

 出陣する直前の朝まで、彼はいつも通りなのである。

 だろ、と甘寧は肩を竦めた。

「お前ちょっと気張り過ぎだぞ。孫策そんさく周瑜しゅうゆがいなくなったから、気を引き締めたい気持ちは分からなくも無いが、やりすぎはやめろ。その方がなんか調子が狂うぜ」


「甘寧殿は本当に、全く変わりませんね……」


 陸遜が溜息をつくと、甘寧が笑った。


「場数。場数が違う」

「……はは……」

 陸遜がようやく、綻ぶように笑う。

 甘寧は彼にしては優しい表情でそれを見遣った。

 ゆっくりと、並んで、馬を歩かせた。


「……そういえば、ありがとうございました」


「ん?」


「先程、来てくださって。

 実は呂蒙りょもう殿が、少し沈んでおられたように思ったんです。

 多分疲れだとは思うのですが……。

 私はあまり力になれなくて。

 どうしたらいいだろうと思っていたら貴方が来て、

 貴方と話していたら、呂蒙殿は少し気が紛れたようでした」


 甘寧が笑った。

「人間、そんなもんだろ」

「そうでもないですよ。甘寧殿は、側にいると人を安堵させたり、笑わせて下さるところがありますから。誰にでも出来ることではないと思います」

「そうかぁ?」

 首を捻りながら、しかし甘寧は思いついたようにニヤリと唇を歪ませた。

「そうかそうか……周瑜の死に沈んで一カ月まともに外に出れないくらいの繊細な所を持つ軍師さんには、やっぱり俺という副官が必要だな」

「それとこれは別です」

 すぐに返されて、甘寧は顔を顰めた。


「なんでだよ」

「甘寧殿は駄目です」

「なんでだよ!」

「なんでだよといわれても」

「俺は少なくともあの虞翻ぐほんとかいう文官よりお前を和ませる自信があるぞ」


「………………だから困るんですよ」


「あ⁉」

 思わず振り返った陸遜の顔が赤いのは、横から差し込む夕暮れの光に照らされたからというわけではないのだろう。

 陸遜はふい、と横を向いた。

「おい、陸遜……」

「――もう少し北上しましょう! あまりゆっくりすると、陽が落ちてしまいます」

 逃げるように馬を駆らせていった陸遜に、呆気に取られて甘寧は数秒後、吹き出した。


「……いや、お前もそんなに変わってねえと思うけどな」


◇   ◇   ◇


 ――――……コンコン。


 扉が鳴った。


 少し遠慮するような叩き方で分かる。陸遜りくそんだ。

 扉を開けるとやはりそこに立っていた。


「――陸遜?」


 彼は簡素な部屋着姿で、だが腰に二つの剣を佩いている。

 きちんと武装しているのに脚が裸足だった。


甘寧かんねいどの……、」


 もう幾度覗き込んだか分からない。

 琥珀の瞳。

 これは色んな輝き方をする。

 宝玉の輝きなど一つしかないが、陸遜の瞳は色んな輝きを放った。


 射貫くような鋭い輝き。

 子供が笑うような、明るい輝き。

 涙を飲み込んだような静かな輝き。

 やさしくこちらを見つめる、穏やかな輝きも。


 ――これは何度か見たことがある。

 不安げな光。


(雄弁だよな)


 心が瞳に顕われる。

「入れよ。……どうした?」

 陸遜を部屋に入れ、扉を閉める。


「あの……、」


 陸遜の顔を覗き込む。

 彼は唇を中途半端に開いて、言葉を探しているようだった。


 言いたい言葉なんか、山ほどあるんだろうな。

 甘寧には分かった。


 孫策そんさく周瑜しゅうゆが死んで、建業けんぎょうで盛大な葬儀が行われた。

 陸遜は呂蒙りょもうの側で忙しそうにその準備に奔走していたが、甘寧には彼が何かから逃れるかのように、わざと忙しく振る舞っているのが分かったのだ。

 陸遜という青年は、自分の心の内を表に曝け出すということが極端に下手だった。

 今まで生きて来た中でそうしてはいけないと、彼自身が思い込んで自分を戒めて来たということもある。

 だが同時に彼は想いを飲み込んで苦悩を受け入れて、自分の中で上手く消化することも出来る人間だった。

 大概の時、彼は一人で悩み、一人で立ち上がって来る。


 でもそう出来ない時は人を頼れと、甘寧は陸遜に出会ってから何度も言ってきたつもりだった。


 一度、それで潰れかけた陸遜を知っていたからである。


伯言はくげん?」


 覗き込まれて、陸遜は目を閉じた。

 まるで悪いことをした子供が親に咎められて、それを白状するような表情だった。


「……少しのあいだ、……ここの部屋で、寝泊りをさせていただいてもいいですか……?」


 俯いた陸遜のつむじを見下ろす。

「ああ」

 あっさり返った答えに、陸遜は驚いたように甘寧を見上げる。

 見上げた陸遜の柔らかい栗色の髪を、甘寧は大きな手で掻き回した。


「なんつー顔してんだお前は……それは、俺がふざけんなそんなこと許さねえとか言うと思ってたって顔か?」


 陸遜は慌てて首を横に振った。

「……いえ、そんなことは……」

「でもすげぇ驚いた顔したじゃねーかよ」

「いえ、…………」

 立ち竦んでいる陸遜に甘寧は息を付いた。

 腕を伸ばして、彼を抱き寄せる。


「――戦場でお前のこと怒鳴ったのは、……悪かった」


 腕の中で、陸遜の身体が竦む。


「でも勘違いすんなよ。

 周瑜の死を悲しむなとか、そういうこと言ったんじゃねーからな。

 龐統ほうとうのこと、お前に全部背負えって言ったわけでもねえ。

 俺はただ、嫌だったんだ。

 あんな所でお前が立ち止まって泣いてんのが。

 あんなからす野郎如きの為にお前が戦場で立ち尽くしてんのが、無性に腹立ったんだよ。

 それはお前がそんな奴じゃねえって思ってるからだ。陸遜」


 腕に力を込めた。


「お前はあの程度の野郎に止められるような奴じゃねえってな。

 実際、そうなった。

 だからもうあのことはいいんだ。

 もういい加減、俺のことも許せ」


 背を優しく撫でると、陸遜は首を振った。

「……いえ……許すなど……、

 ……あの時、あんな風に声を掛けていただいたのは、良かったんです。

 私は、……本当に自分を見失ってしまっていたから……」


 そうか。

 甘寧は笑って頷く。そのまま陸遜を抱き上げて、寝室へと連れて行った。



◇   ◇   ◇


 眠れなくなることがある、と陸遜りくそんは言った。


 赤壁せきへきで失ったものが多すぎてあまりの多さに、……欠落の大きさに、立ち尽くす。

 立ち尽くすと、脚が震えた。

 だから立ち止まりたくなくて、忙しいふりをし続けてる。

 日中は不必要にも走り回っているから、大丈夫なのだと。

 でも夜に寝台に入ると、色々なことを考えてしまう。

 そうすると疲れているはずなのに眠れなくなって、

 眠れないと、また色んなことを考えてしまうのだ。



「……そばに、……いてほしいんです」



 掻き消えるような声で言った。


 幼い頃から、陸家の当主として、陸遜りくそんは誰かに与える立場だった。

 庇護や、命令や、強さといった拠り所を。

 だから彼は弱みを見せられなかったのだ。

 彼の側には誰かしら必ず人がいたが、それは彼を慕ってそうしているわけではないことを、誰よりも陸遜が理解していた。

 だから側にいてくれなどと、誰に対しても言えなかったのだろう。

 

 甘寧かんねいは側にいて欲しいんだろうなと察していたことはあったが、こうして言葉ではっきりと陸遜にそう乞われたことは、彼であっても初めてだった。

 その初めての言葉を咎め、断れるわけがない。

 いや……断るはずがないのだ。


 陸遜は甘寧の部屋に籠っていた。


 共にいたが、はっきりと彼の心が陰に籠り、甘寧の言葉さえ受け付けたくないというような空気を纏うこともあった。

 彼は後に、その時のことを甘寧に詫びた。

 その一月、嫌だったのではないかと。

 甘寧は笑ったのだ。


 嫌などとは一度も思わなかった。


 陸遜が自分の身体に深く突き刺さった矢を、自分一人で抜こうとして、

 抜いて、傷を癒そうとしているのだということが分かったからだ。

 苦しみや悲しみに耐えて、何とかそれを乗り越えようとしている。

 一人の人間がそうしているのを、こんなにもじっくりと側で見ることは初めてだったから、言葉は悪いが面白いなと甘寧は思ったほどだ。


 この一月は陸遜が部屋にいるので甘寧はあまり夜、出歩かなかった。


 一緒にいたからといって何か共に話したわけではない。

 陸遜がこの一月に求めたのは言わば、不安になりたくないのだというような、単純なものではないからだ。

 陸遜は、孫策や周瑜の死、赤壁で背負い込んだものの重さに、慣れたいと思っているのだ。


 逃げるような人間ではない。甘寧はそれは分かっていた。


 一月の間逃げも隠れもせず、取り繕いもせず、

 悩むだけ悩んで、重さを感じて、

 後悔も、悲しみも、全て出し切ってしまいたかったのだろう。


 あくまでも一人で向き合って、そしてどうしても駄目だったり、そういう戦いに疲弊した時にすぐ手を伸ばす場所に、甘寧にいてほしいと願った。


 甘寧が部屋で一人月見酒をしていると、時々陸遜がやって来て側に座った。


 甘寧の肩や背に少しだけ額や頭を預け、押し黙る。

 酒を勧めると陸遜は小さく首を横に振ったが、

 甘寧が触れようとすると怒らず、身を委ねて来た。


 悩んでいたと思うし、その悩む様は間違いなく、今まで見せたことのない姿ではあった。


 だが甘寧はこの一月の陸遜の姿を見ても尚、彼が変わったり、悪しき面を見つけたということは無くそういう悩み方も、ひどく彼らしいなと思っただけだったのだ。


◇   ◇   ◇


 陸遜りくそんは自分を変わったと思ったのだろうか?


 甘寧かんねいは全く変わっていないと思うから、その違いは面白い。


 林を抜けた。


 長江ちょうこうが一望出来る高台である。

 陸遜が崖の側に、馬に跨った姿で留まっている。

 夕暮れが赤く、水面を輝かせていた。


 ゆっくりと馬を歩かせ側に行き、陸遜の横顔を見ると、

 彼はその美しい長江の夕暮れに少しだけ唇を開いて、見蕩れたような顔をしている。


 風が涼しい。


 甘寧も心地よかった。



 しばらく二人でそこに腰を下ろし、輝く河の水面を眺めていた。

 やがて陽が沈み、スッ……、と黄金色に輝いていた辺りが静かになって行く。

 陸遜はようやく立ち上がり、辺りを見回した。

 そしてふと突き出したそこから、東の方を見遣った。


「どうした?」


 座ったままの甘寧が声を掛ける。

「いえ……、あのあたり……なんだか見覚えがある気がして」

「お前ってやっぱり頭いいよな。

 気が動転してる時でも、見るものはちゃんと見てんのが偉いしさ」

 甘寧がそんな風に可笑しそうに言ったから、陸遜はハッとした。


「……わたしが、――孔明こうめい殿を追って、崖まで追い詰めた所ですか?」

「ああ」


 陸遜は当時無我夢中だった。

 こんな所まで追って来ていたのかと、今初めて気づいた。

 逃亡した諸葛亮しょかつりょう龐統ほうとうは、ここまでやって来て河に飛び込んだのだ。

 そこまで思い出すと、全てが鮮明に思い出された。


 趙雲ちょううんの追撃、甘寧と再会した時のこと、

 諸葛亮しょかつりょうに斬りつけて、姜維きょういと刃を交わした。


 孫策そんさくの最後の姿。


 ――重ねるように、その死の報告を静かな気配で、背中で聞いた周瑜しゅうゆの姿を。


 胸がざわめき、鼓動が早くなる。

 脚が竦んだ。

 だが、それ以上に心が望む。


「……甘寧殿」

「ん?」

「あのあたりを、見に行っても構いませんか……?」

 甘寧には、陸遜の言った意図が分かったのだろう。

 彼は少しの間を作った後、「ああ」と頷いた。


◇   ◇   ◇


(……確かに、ここだ)


 陸遜りくそんは森の中に佇んだ。


 鮮明というわけではないが、一度通ったような気がする。

 俯くように下を見ると自分の靴のすぐ側に、別の靴の痕があった。

 陸遜はそっと、靴をその痕の隣に並べてみる。

 陸遜よりも大きな足跡だ。

 つま先の方が深く、土にめり込んでいる。

 土は緩く、他にも足跡が残っていた。馬の蹄鉄の痕もある。


 足跡を辿って行くとやがて前方に樹が倒れて、横切っていた。

 後ろから甘寧かんねいもやって来て、不自然にそこだけ一本、倒れている樹に手を置く。


「……陸遜。これ【光華こうか】か?」


 陸遜が甘寧を振り返る。

 陸家の家宝。

銀麗剣ぎんれいけん】の対の剣。


 滅多に陸遜はこのもう一つの剣を抜くことは無いが、

 抜いた姿を甘寧は幾度か見たことがある。


「どうして、それが?」

「いや、この斬り口。覚えたぜ」

 陸遜も剣は使うが、武芸のことでいえば知識も経験も甘寧の足元にも及ばない。

 

 ……あの時、この道を通ったのが甘寧だったならば、諸葛孔明しょかつこうめいを討ち取れたのだろうか……。


 そんなことが思わず過って、陸遜は小さく首を振る。

 過ぎたことをいつまでも後悔してばかりでは……前には進んでいけない。

「はい……」

「怒ってんなぁ」


 甘寧が中ほどから両断されている樹を見下ろし、そんな風に言って笑った。

 穏やかな陸遜がこれほど怒りを剥き出しにして剣を振るっているのは珍しい。

 不謹慎だろうが、つい、見てみたかったなあなどと思ってしまった。


 そのまま樹を跨いで、先へと歩いて行く。

 陸遜は少し遅れて甘寧の後を追った。


 やがて、森は開けた。



龐統ほうとう――ッ!』



 生まれて初めて感じたと思うほどの怒りと、憎悪。

 諸葛孔明を、追った。

 あれほど誰かの命を欲したのは初めてのことだった。

 周瑜しゅうゆの為に【臥龍がりゅう】の首を欲した。


 陸遜は、諸葛孔明を慕っていた。

 その首など少しも要らなかったが、周瑜が願ったから取りたいと思った。


(でもこの道を駆けていた時は)


 紛れもなく、自分自身の願いだった。

 周瑜の願いを果たしたいと。

 彼が願うなら【臥龍】の首でも曹操そうそうの首でも、夢中で狙いに行けた。

 あの時はそういう精神状況だったのだ。


(私の中の、あの方を慕う心が、……どうでも良くなって、諦めて……別の何か強い思いが、身体を支配したように)


 迎撃に現われた趙雲ちょううんに斬りかかった時のことも鮮明に思い出す。

 今思えば趙子龍ちょうしりゅうなど、陸遜が直接首を狙うのもおこがましいような首級だったが、あの時は自分の行く手を阻むなら誰だろうと打ち倒すという、強い決意に包まれていたように思う。


 何度考えても、あの時ここを通った自分は、自分ではなかった気がする。


 戦場でそんな経験をするのは、陸遜は初めてのことだった。

 陸遜は隣に立ってそこからまた、今はすっかり月の下になった長江ちょうこうの水面を見下ろす、甘寧を見上げた。


 ――自分の中にもあるのだ。


 あんな風に……まるで戦場の甘寧のように揺るぎない意志で、剣を振るうことを望む激しい魂、一面が。


「ん?」


 こちらを見る陸遜に甘寧が気付き、見落として来た。

 陸遜は首を横に振る。

「……甘寧殿は……、周瑜様が病のことを知っておられましたが、……どこで知られたのですか?」

 甘寧は腕を組んだ。

「ああ……俺は……」

 思い出して、彼は首を横に振った。

「知ったつうか……あいつが建業で一番最初にぶっ倒れた時に、俺がたまたま側にいたんだよ」

 陸遜は驚いた。それは初耳だ。

「いつのことですか?」

「あれは……呉蜀ごしょく同盟が成った頃だな。孫黎そんれいがもうしょくに行ってたから」

「そんな前から……」


 周瑜のあの様子から言ってかなり前から病魔は襲っていたと予想はしていたが、甘寧が赤壁開戦前に周瑜の状態を知っていたとは思わなかった。


「そういやあの時、孫策そんさくも周瑜の状態には驚いたみたいな顔してたな」


 甘寧は思い出す。

 周瑜が倒れて、それを助け起こした時に偶然入って来た孫策の顔だ。

 親友の身体のことは全く知らなかったようだった。

「孫策も片腕を失って軍務からは遠ざかってただろ。側にいたなら気づいたかもしれねえけど。……時期が悪かったな」

 甘寧はそこにあった小石を幾つか拾って、河に向かって投げた。


「……これは完全に、後から思えばだけどよ。

 陸遜、お前龐統ほうとうの件で南陽なんよう守備台に送り込まれただろ」


 陸遜はこく、と頷く。


「俺はあれも、ちょっと周瑜らしくねえ差配だなと思ったんだよ。

 ……いや、周瑜の、龐統に対する怒りはすげぇ理解出来たから、当時はさほどに思わなかったけど、今思うとな。

 お前にとって周瑜は厳しくて怖い印象かも知れねえけど、傍から見てるとお前はやっぱり周瑜に才能を買われてたし、眼は掛けられてた。

 お前が少しくらい失敗をしてもそれが戦場じゃなかったら、あいつは叱り飛ばすよりも、目を瞑って見逃すことの方が多かった。

 ――まぁ、アイツの場合お前は、自分の失敗を指摘されない方が堪える性格してるから、単にそっちの方がお前にはいい薬になると思ってやってたのかもしれねえけどよ」


 甘寧はそんな風に笑いながら言って、手の甲で陸遜の額を押さえるような仕草を見せた。

 周瑜の自分への温情を幾度も感じながら生きて来た陸遜は、思わずそんな風に斜に構えてみせた甘寧の考察に、小さく笑ってしまった。


「あのからす野郎の余計な行動のせいで、結果として孫策は軍務から離脱したからな……。

 ずっと一緒にやって来た周瑜にとって、曹魏そうぎとようやく大決戦って時期にあんなことになったから、ブチ切れたのは自然だと思ったけど。

 ……多分あの時から、あいつ体調おかしかったんじゃねえかな。

 お前への対処もらしくねえっていうか、あいつにしては余裕がねえ感じがした。

 孫策が戦線離脱して、あいつは一人で呉軍を背負い込んでた。

 自分の体調も万全じゃないから、尚更今倒れるわけには行かねえとか、独りで思い込んでたんだろ。

 そういうところに龐統なんかに全部、今まで上手くやって来たものを壊されて、そんであんな激怒したんだろうな」


 栗色の髪が、涼しい風に吹かれる。


「……孫策様も、同じようなことを仰っていました。

 周瑜様は呉の人間には温情を掛けるけれど、あの方は龐統のことを認めていなかった。

 呉の人間ではない、呉のことを想ってもない龐統が、自分の妨げになったためにあれほど怒ったのだと。

 そして私は、……愚かにもその龐統を庇ってしまった。

 あの時周瑜様に見据えられた時、私は強く失望されたことを本当にこの身で感じたのです。

 周瑜様に失望されてしまったことはとても辛かったですが尚更、南陽守備台で何か成し遂げなければならないと心に思えたのも、軽蔑にも似た、あの方からの失望を肌で感じたからかもしれません」


「おまえ、落ち着いてたもんな。建業けんぎょうを離れる時」

「はい……。やるしかないと、思えたからだと思います」


 甘寧はもう一度、手の中に残っていたもう一つの石を遠くに向かって投げた。



「………………お前は心を決めると、強いヤツなんだよな」


「え?」



 囁くように言った甘寧の言葉が風に消される。

「……いや。……だから南陽から戻った時は、周瑜がすげぇ嬉しそうだっただろ」

 目を瞬かせていた陸遜が優しい表情になり、頷いた。


「……はい。初めてこう、両手で抱き留めてよくやったと言っていただきました。

 とても感動しました」


 陸遜は笑ったが、甘寧は逆に苦い顔になる。

「アイツは……。たまーにそういうことすっからこっちは調子狂うっていうか、憎めねーんだよな」

 甘寧の言い方に、陸遜は声を立てて笑ってしまった。

「飴と鞭の使い方が上手い野郎だぜ」

「なんでそんなに嫌そうなんですか……」

 しばらく笑っていたが、それを収める。


「――……私が、周瑜様の御病状を聞いたのは、南昌なんしょうの城の呉蜀両軍の大軍議が行われた後でした。周瑜様が、黄蓋こうがい将軍に赤壁せきへきの火計を託すことをお話になられた、あの軍議のあと周瑜様に呼ばれたのです。諸葛瑾しょかつきん殿と、二人で……」


 甘寧が腕を組む。

「なんか覚えてるぜ。あれだ、お前があの蜀の姜維きょういとかいうガキと話してる時に、途中で呼び出された時だろ?」

「よく覚えておられますね」

 さすがに陸遜は少し驚いた。

「いや……」

「甘寧殿?」

「いや。覚えてたのは、ちょっと理由があってな」

「理由?」

「ああ……。お前あの時、妙な顔しただろ」

「妙な顔?」

「俺の顔を、初めて会った頃みてえな顔で見たんだよ。お前が。

 なんか迷子になった子供みてーな」

 

 甘寧と初めて会った頃は、陸遜は初めて戦場で指揮を執って間も無く、自分の総指揮で行われた戦で、甘寧の部隊を壊滅させてしまったことがあり、それを長い間気に病んで、軍師として、自分がどれほど出来るのか分からず、自分で信じることも出来ず、確かに迷っていた時期だ。


「あ……」

「調子がおかしかったの、周瑜の病気のこと知ってたからかと思ったけど、あの時その用事で呼び出されたなら、そのことじゃなかったのか」

「はい……、私が聞いたのはそのあとなので」

「んじゃお前なんであの時あんな子供みたいな顔で俺を見たんだよ」

「あれは……、その……、」

「うん」

「……、軍議で周瑜様が、黄蓋将軍にからの水軍を任せると言った時に、みんな怒っていたでしょう?」


「黄蓋のおっさんは大殿にも仕えた忠臣だからな」


「ええ……。わたしも、聞いた時は驚きました。生きて帰る見込みのない使命でしたから。

 でも、そう思ったのは一瞬のことで、……すぐに、やはり周瑜様はすごいことを考える方なのだと……、私には到底考えられなかった計略をお話になったので、そのことが……嬉しかったんです。

 でも黄蓋将軍のことを考えると、嬉しいなどと思ったことも罪のような気がして……、貴方もあの作戦を聞いた時、怒った顔をなさっていたでしょう……?

 戦場で実際に戦う将は、怒るのは当然です。

 だから、貴方と話したかったんです。

 私がそんな風に思ったと言えば、……貴方はわたしを怒ってくれるかと思って」


「おまえ……」


 甘寧が大きく片眉を吊り上げた。

 陸遜は叱られるのも覚悟だというような表情で目を閉じていたが、数秒後ぶはっ、と吹き出す音がして目を開けば、甘寧がしゃがみ込んで笑っていた。


「おまえなあ!」


 おまけに呆れた声だ。


「そんなことで……あんな真剣な顔をすんなよ! 

 なんか大事件がお前に起こったんじゃねーかって思うだろが」


 笑いながら、怒っている。

「…………そんなことと言われましても……私にとっては結構、大事件……」

 甘寧は完全に地面に座って胡坐を掻いた。

「勝手に深読みして心配してる俺が馬鹿みてーだろが」

「でも……」

「お前もあの時の孫呉が、蜀と同盟組んだって、曹魏そうぎとどれくらいの戦力差があったかは分かってんだろ? 味方も思いつくような計略で挑んだって、勝てるわけねーだろ。

 周瑜だって曹魏とある程度戦える戦力があれば、あんなとんでもねえ作戦なんか考えてねえよ。

 あれで孫呉が負けてたら周瑜の顔面ぶっ叩いてやってたと思うけど、勝ったからもうなんだっていいんだよ」

「……、」

 まだ不安げな顔をしている陸遜に、甘寧は深く息を付いた。


「……陸遜、ここに座れ」


「え?」

「いいから座れ。早く」

「は、はい。」

 陸遜は急いで甘寧がぽふぽふと叩いてみせた所にちゃんと正座をした。

 何かを言おうとしていた甘寧は草の上に正座をした陸遜にもう一度片眉を吊り上げて、今度は額を片手で押さえ、息を付く。


「…………お前ってホント、強いんだか弱いんだか、賢いんだか賢くないんだか……」


 呆れられてるのかな、と陸遜が甘寧の顔色を窺う。


「まぁ、どっちでもあんだろうけどな」

「……。」

「お前ってそういう所があんだよ。

 この前言っただろ。たまに俺でも眉を顰めるような戦場を臆することなく眺めてたり、戦場で敵だったらすげぇ腹立つような計略を実行出来るくせに、戦が終われば自分の恋愛一つもまともに上手く出来ねえし。

 剣もそれなりの腕してるなとか安心してたら、結構手傷負って帰って来るしよ。

 龐統ほうとうに邪魔されて諸葛亮しょかつりょうを取り逃がしたなんて子供みたいに泣きじゃくってたかと思ったら、俺が怒鳴ったらすぐに双剣引き抜いて飛んで行ったりするし」


 自分の欠点を上げられてる気持ちになり、陸遜は肩を竦ませて小さくなって行く。


淩統りょうとうの奴を改心させてすげぇなこいつとか思ってたら、

 龐統なんかを信じて痛い目見ただろ。

 孫黎そんれいの結婚の時も、同じようなこと無かったか?

 あいつが曹丕の正妻と会う時に、お前は甄宓しんふつに会いたいとか言った孫黎を自分が小馬鹿にしたんじゃねえかって、ミョーな罪悪感背負ったりして」


 陸遜は顔を上げる。

 確かに黄蓋の時のことと、孫黎の時のことは似ていた。

 陸遜の中には策略として物事を見た時に、それを有意義か有意義じゃないかを判断する頭と、一人の人間としてそれを善しとするかしないか、それを考える頭が同居するのだ。


 だが陸遜はそれは、誰しもあることだと思っていた。

 周瑜も凄まじい計略を編む一方で、戦場の駒とする兵士たちに良心が咎めることもあっただろう。

 呂蒙りょもうにも、魯粛ろしゅくにも、軍師には皆それはあるはずだった。


「確かにな」


 甘寧に話すと、彼も頷く。

「でも、お前ほど理想を追う奴は珍しい」

 彼は言った。

「悪く言うと、子供っぽい所なんだろうけどよ……。

 心が割り切れないっつーか……。

 軍師としては結構致命的だと思うけどな」

「……。はい……」

 それは理解出来る。

 軍師が戦場で心を割り切らないと、今回のようなことが起こる。

 理想を追いすぎて、陸遜は龐統を呉に残した。

 結果として、孫策が戦線を離脱することになった。


 軍師が心迷うと戦場で誰かが傷つき、誰かが死ぬ。


 陸遜はもう二度と、自分の愚かさや弱さの為に誰かが傷つき、死ぬのは嫌だと思った。


 それなら、心を見捨てるしかない。

 非情になってでも、全てを勝利に結びつける。


 ――だが心が揺れるのは。そういうやり方が間違いだと知っているからだった。



 陸家のことだ。



 陸遜は陸康りくこうによって当主の座を委ねられた。

 その陸康が孫策そんさくに討たれ、陸遜がその孫家に恭順しようと決めた時、陸家の者達の心は陸遜から完全に離れて行ったのだ。

 あとはどう取り繕おうとしても、優しくしようと、陸家の人間達は陸遜は非情な人間であるから信用するなという一点に凝り固まってしまった。

 今も陸家に戻ると、陸家の人間は陸遜に不信の目を向けて来る。


 迷いもなく慕ってくれているのは陸績りくせきだけだ。


 あとの人間は陸遜に対して信用ならない人間だという視線と、雰囲気を未だに見せて来る。

 結果として陸遜は何か決断を下す時も彼らの賛同を得る形ではなく、独断で何もかもを決めざるを得なくなってしまった。


 人の心が一度離れると、元に戻すことは困難なのだ。


 陸遜が周瑜を優れた軍師だと思ったのは、彼は味方も欺くような奇計をも編んだが、周瑜がそうした時に、例え何人かが不安に思った所で、大多数の人間が周瑜がそう言うのならと彼の元に団結を見せるような人だったからだ。


 勿論、周瑜の軍才のこともある。

 しかしそれだけではないのだ。

 周瑜には人の心を掴む魅力があった。納得させる何かが。

 人望があったのだ。


 陸家の前例を知る陸遜は、人心を手放すことが指揮を執るものにとっていかに愚かかが分かる。


 ――だから悩むのだ。


 理想と現実に挟まれた時に、現実を制する為に心を捨てて勝ちを得ても、

 理想を追って例え負けても、守れるものはあるのではないかと思ってしまうから。

 

「……陸家……。

 陸家なぁ……」


 甘寧が息を付いた。

「……まぁ、確かに……お前がそう感じて生きて来たなら、仕方ないのかもな」

「……。」

「俺が周瑜と揉めた時、言っただろ。

 俺は徒党を組んでた頃、俺のことが気に入らない奴は、勝手に船から降りてったんだよ。

 だから俺は他人の心なんかどうでも良かった。

 俺のやり方が心地良くて、俺が好きだって奴が周りに集まって、残って行ったから」


 甘寧の部隊には、彼の黄祖こうそ時代からの腹心やもっとその前の、水賊時代から行動を共にしている部下たちが大勢いる。

 彼はかなり紆余曲折を経て孫呉に降ったのに、これだけ部下が離れなかったのは珍しいことだと、呂蒙が前に言っていたことがある。

 陸遜もそう思った。


「お前と全く逆だよな」

 甘寧が陸遜を見て、苦笑する。


「お前は例え陸家の人間が嫌だと思っても、奴らを見捨てることは出来なかったし上手く付き合うしかなかった。当主って立場上な。

 上手く付き合えなくても、心が戻ってこないことが分かってても、それでも奴らを庇って、気遣ってやらなくちゃなんなかったんだからな……。

 嫌いな奴を好きな時に見捨てられた俺とは全く違う。

 お前は確かに陸家と付き合って来た遣り方とか、後悔したこととかが、今も自分の判断基準になってる。

 見捨てるか見捨てないか、その二つの選択肢が許される状況ならお前は迷わず、まず見捨てないことを選ぶ。

 周瑜や俺はもっとその辺りは臨機応変だ。

 場合によっては昨日見捨てなかったものを、今日見捨てたりだってする」


 陸遜は息を呑んだ。


「……お前が龐統ほうとうに対して見せた、執着は……」


「……。」

「きっと、陸家の連中に対するものと似てたんだろうな」

「……。」

「俺には全く理解出来なかったが、お前はあいつが傷を負ってると思ってた。

 だから見捨てられなかったんだ。

 あいつが呉にいたいと言ったなら、自分が庇ってそれを助けてやろうと思った」

「……。」

「周瑜や俺がそれをしなかったのは、だから不思議でも何でもねえし、……きっとお前の弱さでも愚かさでもねえよ。陸遜。

 周瑜が――どうしてお前に【臥龍がりゅう】の暗殺を任せたと思う?」


 びく、と陸遜の身体が震えた。

 それはずっと思っていたことで、気にかかっていたことだからだ。


「腕が立って暗殺の任を任せるんだったら、お前より適任は他にもいると思うぜ。

 俺もその一人だと思うしな」

「……、」

「なんでわざわざお前を指名したと?」

「……わたしが、諸葛孔明しょかつこうめい殿を慕っていたからではないでしょうか」

「え?」


「…………初めて会った時から、私は愚かにあの方を慕ってしまいました。

 諸葛孔明殿はそういう私を、優しく受け入れて下さっていた。

 周瑜様はそれを見抜かれて、私ならあの方が油断すると思って……」



「――陸遜。お前の力を信じたからだよ」



 陸遜は琥珀の瞳を見開かせる。


「お前は今まで周瑜に命じられて来たことは、全て遂行して来た。 

 失敗することや上手くいかないことはあったかもしれないが、

 その過程でお前が一度遂行すると決めたことは、どんな困難があっても、機転を利かせてやり遂げようとする、その姿勢をあいつは買ってた。

 俺や淩統も出来なくはないが、まぁ、あの戦いじゃ持ち場ってやつがあった。

 何にもなけりゃ、あいつだってもっと人選したと思うけどな。

 ……それに時間も無かった。

 何が何でもあの戦いで決着をつけなければならないことを、あいつは知ってた。

 周瑜が自分の体調に不安なんか抱えてなかったら――あいつは自分の手で【臥龍】を狩りに行ってただろうよ」


「……甘寧どの……」

「そういう奴だろ?」


 陸遜の手が、小さく震えた。

「お前は暗殺なんて一番似合わねえし、その適正もないと思うが。

 それを差し引いてもお前の剣の腕と、意志の強さを信じた。

 どうしても成し遂げなきゃなんねえことがあるなら、確かにお前だ」


「……でも、」

「ん?」

「…………私の強さを信じていたなら……周瑜様はご自分の病のことを、私に話して下さっていたはずなのでは?」


 陸遜の瞳が月の光を飲み込んで、静かに輝きながら甘寧の方を見上げた。

 怯えにも似た色が、そこに滲んでいる。



(……そうか。お前が上手く理解出来ねえのは、そこなのか)



「……周瑜様は仰ったんです。

 私に、諸葛孔明殿を斬らせようとお決めになったのは私が、あの方にまだ出会う前、南陽なんようから建業けんぎょうに帰還し、少しして……龐統ほうとうが会稽の公務で功績を積んでいたので、もう一度私の副官として任命させてほしいとお願いしに来た時だったと。

 そういえばあの時周瑜様は突然、蜀に行って孔明先生に会ってみるかと私に尋ねられたのです。

 そのあとどうしてその時に最初から、こういう任を任せるつもりだったと言って下さらなかったのかと問い詰めてしまった時、周瑜様は私に、お前はこれから自分が喉に剣を突き立てる相手と無邪気に話せるような性格はしていないと言われました」


「……。」


「それこそ、私の弱さをあの方が危惧しておられた証なのでは?」


 甘寧の顔を見ていた陸遜は、どこか別の方向を見た。


「確かに周瑜様が倒れられた時、私は動転して、尋常ではないご様子に……私がやるしかないのだと、心は決めました。

 ……でもそれは、本当に追い詰められて……。

 そうか周瑜様は最初から、私に諸葛孔明殿を斬らせるつもりでしょくに送ったのだと。

 だから諸葛孔明殿にお会いできたことすら、周瑜様の御意志があってのことだったのだから、私が何かあの方に縁を感じて、……天から許されて、この戦乱の世にお会い出来た人なのではないかなどと思ったことも、全部が」


 突然甘寧が手を伸ばし、横を向いていた陸遜の頬に触れた。


 何かなと思い俯いた顔を上げると、甘寧が笑っていた。


「私の話……聞いていましたか?」

「んー、半分くらい」


 あまり聞く気はなさそうな声だ。

「まあ、本人に聞いてみなきゃ分かんねえけど」


 甘寧は手を放して腕を深く組む。


「お前の言ってることも周瑜が言ってることも、もし正しいならそういうことなんじゃねえの?」

「……そういうこと?」


「周瑜はお前の強さは見込んでたけど、自分が病気だと知ってお前が平静でいられるとは思ってなかったって。

 俺が思うに、周瑜もあの呉蜀同盟結んでる間に、考え方がちょっと変わったんじゃねえかな……。

 お前は諸葛亮しょかつりょうを斬るのを、嫌がってた。

 でも周瑜がお前に斬らせるって決めたなら、あいつならきっと病のことお前に話してたんじゃねえかな。お前が強いとか弱いとかじゃなくて、逃げ道無くすためにきっと自分の病すら、あいつは武器にした気がする。

 ……お前に斬らせるつもりでも最初からあの大戦の最中、そうさせると決めてたかは分かんねえよ。

 あいつは最初は、もっと後のことを想像してたのかもしれねえし。

 自分がもっと生きてお前が【臥龍がりゅう】を斬るのを、見届けようと思ってたのかもしれねえ。

 お前の成長を待つつもりだったのかもな。

 ただ、時間が来た。

 それが分かった。

 その時に、あいつはイチかバチかでお前の土壇場の強さに懸けたんだよ」


「……。」


「お前は周瑜の期待に十分応えた。逃げ出さなかったからな。

 それだけでも、あいつは喜んでたと思うぜ」



 そうだろうか。


 陸遜は目を伏せる。

 そうであったかを、周瑜に尋ねたかった。


 自分はほんの少しでも、周瑜の重荷を軽く出来ていただろうか?

 あの大戦に赴いた周瑜を、支えていただろうか?



(いくら問いかけても、もう答えは出ないけれど……)



 甘寧の身体に腕を回した。

 彼は陸遜を抱き寄せてくれた。


 逃げずに立ち向かえば、

 立ち向かう心を忘れずにいれば、


 ……戦う心は、再びこの身に宿る。


 後悔。

 臆病。

 疑心。


 戦う意思を失わせる、全てのものを否定して。


(わたしに、戦う心を思い出させてくれるものだけを信じて)


 ……信じて剣を取れば。



◇   ◇   ◇



呂蒙りょもう殿、おはようございます」


 陸遜りくそんは軍議室で一人、図面に見入っていた呂蒙に話しかけた。


「陸遜。早いな。おはよう」

 江陵こうりょう方面軍の将軍が揃う軍議なので、陸遜も軍服に身を包んでいる。

 美しい、白い軍服にまだ少し目を眇めるようにして、振り返った呂蒙が笑みを浮かべた。

「呂蒙殿こそ……いかがなされました?」

 まだ軍議の招集時間には随分早い。

「うん。緊急の報せが入ってな」

「緊急の報せ?」

「また軍議で皆に話すが……密偵からの情報では、白帝城はくていじょうにどうやら趙子龍ちょうしりゅうが入城したようだ」


 陸遜は息を呑んだ。

 蜀の趙子龍が派遣される意味は、三国の全ての者が共通に理解出来る。

 劉備りゅうび趙雲ちょううんに対する信頼は、義兄弟である関羽かんう張飛ちょうひとは全く別の領域として揺るぎないものだった。


 必ず守り抜くという意志。


 もしくは――攻撃を仕掛けられた場合は、必ず迎撃に出て来るという意志の表われ。


 緊張を帯びた陸遜の肩に、呂蒙が手を伸ばす。


「だが、正式に趙雲の軍勢が呼び寄せられたわけではない。

 案ずるな。陸遜。

 江陵こうりょうは守りの戦だ。

 赤壁せきへきとは、全く違うものになろう」

 呂蒙が落ち着いた表情と声で、そんな風に言った。

 自分を落ち着かせるためにそう言ったのだと察して、陸遜は唇を引き結び、頷いた。

「はっ!」


 すぐに、庭の方から声がして来る。

 呂蒙と陸遜が覗き込むと、案の定甘寧かんねい淩統りょうとうが肩を突き合って、やって来た。

「なんだお前らまで。随分早いではないか」

「俺は今日機嫌がいいから早起きだ。

 こいつがなんか早朝修錬とか気障きざなことしてやがったから連れて来た」

「早朝修錬のどこが気障なんだよ……つーか、なんで朝早く起きてこの野郎のツラなんか見なきゃなんねえんだ……何の罰だよ。早起きの罰か?」

 淩統は怒っているというより、すでに諦めているらしかった。

「なんかあったのか?」

 甘寧が窓に頬杖を付く。

「おはようございます、呂蒙殿。陸遜様」

 淩統は呂蒙と陸遜に丁寧に一礼する。


「うん。今、陸遜にも話しておったのだが。

 白帝城に趙雲が現れたらしい」


 聞いた途端、甘寧が目を輝かせた。


「おっ! ちっとは手応えのありそうな奴が出て来たじゃねーか。

 あいつは一回ぶちのめしてみたかったんだよな~」

「調子に乗って返り討ちにされなきゃいいけどねぇ」


 淩統も、修錬で少し乱れた髪を直しながら、涼しい声を響かせる。

「おお、今返り討ちとか聞こえたがてめーのでけぇ寝言か? 淩統」

「趙雲の軍勢を打ち破れば、白帝城も落とせるかもしれませんね。

 あの城は高台にあり囲いも堅牢です。長江を臨む、いい拠点になるかもしれない」


 呂蒙が笑う。


「見てみろ、陸遜。これが呉の武将のあるべき姿だ。

 淩統なんぞ、もう落とした後のことを考えておるだろう」


「はい……そうでした」

 陸遜もくすくすと笑う。

 物怖じしないこの二人を、自分も少しは見習わなければなぁと思った。

「なんだよ。陸遜怖いのか?」

「いえあの、怖いというわけでは……」

「一回剣折られてんだから、警戒して当然だろ」

「んでも赤壁でぶつかった時は【銀麗剣ぎんれいけん】【光華こうか】折れなかったじゃねえか。

 いい剣だよな~。舐めてんのか! って思うくらい華奢なのに見た目よりずっと頑強なのがいい。賊時代だったら狙ってたかもなあ」

「お前は何なら今も賊時代だ」

「心配すんな陸遜。あんな遠目の優男俺が片手一本でぶっ飛ばしてきてやるからよ。なんならあいつを船の舳先から吊るして大漁旗掲げて口笛吹いて戻ってきてやらあ」

「どっから来んだその根拠のない自信……」


「根拠はある! 俺だ!」


 自分を親指で指し示した甘寧に、淩統が頭を押さえるような仕草をして首を振り、呂蒙が腕を組んで笑っている。


「……でも甘寧殿の言うことも一理あります。

 自分自身を信じられなければ、敵に挑んではいけませんから」


 ふっ、と音がする。


「今日はいい表情をしているな、陸遜。

 しばらくあった、憑き物が落ちたような顔をしているぞ」

 

 陸遜は呂蒙の顔を見遣った。

 呂蒙は優しい眼差しで、陸遜を見下ろしている。

 彼の頭を大きな手で撫でた。まるで子供にそうするように見えた。

「呂蒙殿……」



「それでこそ、甘興覇かんこうはを連れて来た甲斐がある」



 何もかもを見透かされたように言われ、陸遜は赤面して俯く。

「……いえ……、その……、もうしわけありません……」

 庭でまた、蹴り合いながら揉め始めた甘寧と淩統を悠然と見下ろしつつ、呂蒙は明るく笑った。


「謝ることは無い。陸遜。

 俺もお前も軍職にある。

 世が平穏になればあるいは、剣を取らんでいい日は来るかもしれんが、

 西に【臥龍がりゅう】に、北には曹魏そうぎを抱え、南もまた情勢不安だ。

 雲がやって来て雨が降る気配が分かるように、

 雨が止んで、光が差し込む気配も分かる。

 剣を取らないでいい日もまた、近づいて来れば分かるものかもしれん。

 だから光が差し込む気配が来るまでは、我々軍人は夢中で戦うしかないんだろう」


 陸遜も、背筋を伸ばした。


「――はい。」


「甘寧と、よく話をしておけ。陸遜。――淩統ともだ。

 周瑜しゅうゆ殿は、幼い頃から孫策そんさく殿と話を重ねてきた方なのだ。

 だから戦場で不意に孫策様と別れなくてはならなくなっても、あの方はあんなにも強いままでいられた。

 あれだけ側で働いてもお前は今、もっと周瑜殿と色々な話がしたかったと溢れて来るだろう?」


 陸遜は隣の呂蒙を見上げる。陸遜は小さく頷いた。


「俺も同じだ。亡くなった今は特にな。あの方ともっと色々なことを話し、教えていただきたかった」


 ぐっ、と陸遜は唇を噛み締める。

 隠し切れない幼さが、見て取れた。

 ……だが陸遜はこれでいいのだ。

 自分の弱さ、幼さを自覚すれば人は強さを望む。

 

 まだ何かが足りなくて、

 どこか危うい。


 それでも何故か、陸遜は自分に何かを期待させる。


 周瑜も恐らくそうだったのだろう。


「幼い頃から共にいない限りは、今からどれだけ話しても、話し過ぎたということはない。

 別れる時になるべく、もっと話したかったなどと後悔しないよう――周囲など気にしないでいい。自分の為に、自分に力を与えてくれると思える者と、夢中で話しておけ」


 陸遜の琥珀の瞳に静かに光が灯る。

 まるで息吹を吹き込まれたかのように。


 先の大戦で甘寧は龐統ほうとうの離反で諸葛亮しょかつりょうを取り逃がし、

 立ち尽くす陸遜を、戦場で叱り飛ばしたという。


 呂蒙はその場にはいなかったが、陸遜に同行していた諸葛瑾しょかつきんからその話は聞いた。

 甘寧自身も言っていた。



 ――――絶望しない人間なのだと。



『長く戦いの中に身を置いてたから大抵の人間も、人間のすることも――見て来た。

 狡賢い奴も、優しい奴もいたし、

 色んな負けも、負ける人間も。

 負けて臆病になる人間なんかほとんどだし、臆病じゃなくても負けが込んで来ればどんな人間でも気に病んで来る。

 それで戦えなくなって、陸に戻った奴もいる。

 目を逸らして戦い続けて、結局水の上で死んだ奴も。


 けどあいつは、昨日は負けて死にそうな顔してんのに、

 数日後に様子を見るとなんか、心が元に戻ってんだよな。

 最初は無理してそうしてんじゃねーかなって思ったけど。

 どうもあいつは、そうじゃねえ気がする』


 瞳で問う呂蒙に甘寧が酒を注ぎながら一瞬考え、頬杖を付いた。


『周瑜が倒れた時、あいつが死ぬかもしれねえって一番最初に考えた時、俺は陸遜が心配だった。

 あいつにとって自分を導いて守ってくれる、光みたいな人間が死ぬのはこれで二度目だ。

 一度目は陸康りくこう

 周瑜がもし死んだらこいつは一体どうなっちまうんだ? って不安でな。

 けど、実際今それを目の当たりにして、少しずつ何かを自分の中で消化してるあいつを眺めてると、

 ……本当はこの世の誰も、何も、陸遜を絶望なんかさせられねえんじゃないかって思うことがある』


 陸遜が葬儀のあと、甘寧の部屋に籠っていることを呂蒙は彼から知らされていて、知っていた。


 独りでどうにかなる人間など、この世にはいない。

 だが、たった一人でも支えがいてくれることで、

 凄まじいほどに強くなれる人間というのが、この世にはいるのだ。


 呂蒙にとって周瑜もまた、そういう人間だった。

 自分自身は、誰か一人をまだそんな風には思えず日々もがくばかりだが。


『俺は、ああいう人間は今までに見たことが無い』


 苦笑したようだが陸遜を想う、甘寧の表情は優しい。




『何が起こっても、決して絶望しない人間っていうのは』




 早朝の白霧を切り裂いて――陽が射し込む。


「そうすることで、お前の心も、きっとたくさんの光で満ちる」


 陸遜は呂蒙に横顔を見せた。

 幼かった表情が差し込んだ光に照らされて白く滲み、一瞬ひどく気高い、深い心を秘めた人間のもののように変化する。


 その横顔は、……少しだけ周瑜に似ている気がした。


 多くの言葉を交わし心を通わせその存在を重んじ合い、そうしていると、もしかしたら人は想いも魂も伝播して似たものになっていくのだろうか?


 だからこそ呂蒙は陸遜には、甘寧や淩統と、もっとたくさん言葉を重ねてほしかった。

 彼らの強さや明るさや、少しのことでは揺らがない魂が、陸遜にも宿ればと思うからだ。


 ふと、陸遜の幼さや弱さを時々不安に思いながらも、こういう表情にも惹かれるということは自分は、もしかしたらこの自分に与えられた分不相応な重責を果たすために、今、陸遜という存在を――強い彼を、自分自身が欲したのかもしれないと呂蒙は考える。


 だから陸遜には強くなってほしいし、彼に強さを与える者には側にいてやってほしかった。


 前方を強い瞳で見据えた陸遜の横顔に、しばし呂蒙は見蕩れた。

 やがて、不意に陸遜がこちらを振り返る。

 例え誰であろうと触れることの出来なそうな、強い纏いが消え去り、陸遜は幼い顔で微笑った。


「……ありがとうございます。呂蒙殿。

 心に、刻みます」


「何を刻むって?」

 殴り合いの喧嘩をしていた甘寧と淩統が、

 温かな陽が差し込んで馬鹿馬鹿しくなったのか、戻って来た。


「なんで呂蒙お前そんな顔赤いんだよ」

「ん⁉」

「ほんとだ。平気ですか、呂蒙殿。今日の軍議恐らく長くなりそうですよ」

 淩統も首を傾げて来る。

 この二人はこんな時だけ団結しやがって、と呂蒙は苦々しく思った。


「……べつに、体調は万全だ。陽が射したから暑くなっただけだ」


「す、すみません。気が利かず……冷たいお茶でもいただいて参ります」

「あ、いいですよ陸遜様……そんなことは副官のわたしが」

 我に返ったように慌てて部屋を出て行った陸遜を、一呼吸遅れて窓から身軽に部屋の中に飛び込んで来た淩統が追っていく。

 甘寧はどあ~~~~っと虎のように思い切り大欠伸をしている。


「ちぇっ、なんだよ~。呂蒙が風邪でも引いて寝込んだら今日の軍議中止になるかと思ったのによ~」


 庭の壁に凭れかかってそんな風にぼやくから、子供かお前は! と呂蒙は吹き出してしまった。



【終】



 

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