第2話【星は流れて】



 白帝城はくていじょう



 南郡なんぐんにごく近い、しょくの防衛要所である。


 深夜、龐統ほうとうは城の高い位置にある自分の部屋の、窓辺に腰掛け空を見上げていた。


 月が無い。

 

 星は輝く。


 彼は腕を深く衣の中に隠して、組んだまま、眠ることも無くずっとそうしている。


(幾度見上げても、星は見えん)


 彼が言う『星』は空の星では無い。

 空の星が描く軌道によって映し出される、占星術の『星』だ。

 彼が探しているのは、諸葛孔明しょかつこうめいの星だった。


 彼と諸葛亮しょかつりょうは、奇妙な縁がある。


 幼い頃に、生まれながらに、魂を分け合って生まれた相手だと、占い師に言われたのである。

 それは讒言などではなく、龐統自身、ある時からそう感じるようになった。

 孔明こうめいとは、【ついの星】なのだと。

 

 諸葛孔明と龐統は、八つ歳が離れていた。

 龐統が普通の人間のように無邪気に、自分の明日を自由勝手に夢見る子供でいられたのは、八つの時までだった。

 諸葛亮がこの世に生まれたその瞬間、何か自分に不思議な力が宿ったのが分かった。


 自分は普通の人間ではないのだと、だから何かを成さねばならないのだと、突き動かされるように学んだ。


 彼はこの歳になるまで、自分と諸葛亮は【対の星】なのだと、信じ続けてきた。


 そして彼はいつか孔明と会った時、彼を屠って、長らく自分を『影』に仕立てて来た諸葛亮の呪縛から逃れ、自由になることを望んでいたのだ。



 ――――だが……。



 戦場で諸葛亮と邂逅した時に、龐統は彼の死を強く感じた。

 空に凶兆の赤い星が輝いていた。

 それは諸葛亮の『星』の側で妖しい光で満ちていた。

 まるで食らいつくそうとするかのような、危険な光。


 それに気づいた時、龐統は動いた。


 動きたいと願ったのではない。――突き動かされたのだ。

 彼は諸葛亮しょかつりょうを近しく思っても、親しみを覚えたり、守ってやりたいと思ったことは一度もない。

 先だっての大戦で、龐統は諸葛亮の命を救った。

 救った今でも、揺らぎなくそう思っている。


(奴を守ってやりたいなどと)


 諸葛亮の呪縛から逃れる為に、死を望んでいたのだ。

 だがあの時、龐統は無我夢中で突き動かされるように諸葛亮を助けていた。




から去れ龐統ほうとう。どこへなりとも行くがいい』




 怒りに燃える、琥珀の瞳。



『そして私のいる戦場には二度と姿を見せるな。

 次にお前を戦場で見つけたら、その首を必ず飛ばしてやる。

 私を裏切ったからじゃない。

 ――貴様は最初から、孫呉の敵だったからだ。』


 最初から、呉の敵。


 呉の敵である諸葛亮を、お前は助ける運命だったのだと、あの琥珀の瞳は見据えて来る。

 彼は龐統の裏切りに怒ったのではない、運命の相手を知っていながら離れることを望み、望みながらもいざとなったら、抗うことも出来ず、呆気なく運命の轍に落ちた、龐統の弱さを批判したのだ。


 諸葛亮の為に命を賭けれることを、自覚しなかった龐統を。


(俺は、孔明の命を奪うことが、願いだった)


 八歳の時、諸葛亮がこの世に生まれたことを感じ取ったその時から、いつかいつかこの存在を屠って、自分自身が自由に、望むように生きれるようになりたいと願っていた。

 あの時諸葛亮の命を救ったのは、龐統自身にさえ、説明の出来ないことだったのだ。


 自分の手を握り締める。


(俺はただ、俺のこの手で、奴を屠りたかっただけだ。

 他の人間に、奴を殺されるなど、我慢がならなかっただけ)


 何故ならそんなことはあり得ないのだから。


 龐統の光であり、影である諸葛亮ならば、彼の命を救い、奪うのも、龐統であるべきだった。

 何故なら諸葛亮にとっても龐統は光と影であり、命を救い、奪うものであるべきだから。


(だが……)


 星は動いた。


 地上の大きな脈動が、天に響き、天の運行にすら影響を及ぼしているのだ。

 

 星は地上より、遥かな時間と、遥かな高みで動いているが、その星とて、死ぬことはある。

 

 ――――予期出来ぬ動きをすることがあるのだ。


 諸葛亮の星は動いた。

 それは龐統の予期出来なかった動きだった。

 龐統の【対の星】だった彼は、そのわだちから一人抜け出し、別の星の宿星を歩き始めてしまった。

 残された龐統は、元通りに居続けることさえ出来なかった。

 諸葛亮が動いたならば、龐統も動かざるを得ないからだ。



(また俺は、孔明の力に引きずられて生きている)



 望んだわけではないのに、天がそう、自分を生かす。

 

『……それほど宿命の相手なら、何故共に歩もうとしないのです?』


『光と影、天と地、白と黒……同じ轍を歩む者だというのなら他の人間よりも親しみを抱いていいはず。なのに何故殺そうとするのです?』



 お前には分からない。


 龐統は陸遜に言った。



『己の血を分けた兄弟よりも近しい他人が存在する気味の悪さを。

 ……選び取る道が、実は自分で選んだものではなく、……見知らぬ人間の単なる対の行動でしかないと分かった時の絶望も』



 龐統ほうとうは陸遜に全てを語る気はなかった。

 偶然巡り合っただけで、あれはなんの因縁もない人間だ。

 龐統の世界は、ほとんどが悪いことだったが、良くも悪くも諸葛亮以外の人間が存在しない。

 かつてはそこに、家族だけは存在させたいなどと思ったこともあったと思うが、家族さえ、所詮自分を理解出来ないのだと分かった時、龐統は家族を捨てた。

 

 だから龐統も、陸遜りくそんを常に自分の下に置いた。

 

 彼がどんな人間であれ、どんな夢を抱いていたとして、何の興味も無かった。


 

『……呉では、孫伯符そんはくふが戦死、呉に帰還後、周公瑾しゅうこうきんが病没したらしい……』



 劉備りゅうびが、重々しい口調で言った。

 

 それは、今では三国中で【赤壁せきへきの戦い】と呼ばれる大戦後、成都せいとの王宮で、将軍職に就く武将たちが全て招集された、大会議での冒頭のことである。

 

 ざわ、と会議場全体に驚きの波が広がった。


 龐統はその中にいて、一人、その不思議な波を奇妙に思っていた。


 蜀の将軍たちは口々に、今までの孫伯符の呉における輝かしい戦功と、それを常に支え赤壁の戦いでも総指揮を執った周公瑾の姿に敵ながら、と称賛を送っている者もいれば、孫堅そんけん亡き後若くして孫呉を導き、そして三十代の若さで早世した二人を思い、泣いている者までいた。


(敵のことではないか)


 龐統は思った。


 仮に孫策そんさく周瑜しゅうゆの双璧が、それほどのものだったのだとしたら、蜀にとっての脅威が二つ無くなったと、喜ぶべきではないのか。


 立派な男達だったと微かに声を震わせた劉備にも、龐統は言い難い違和感を覚えたのである。


 孫策は、龐統の記憶にはあまりない。


 だが周瑜は覚えている。

 烈火の如き気性の軍師だ。


『お前のように自分のことだけしか口に出来ぬような愚か者は、結局は大局において人の為には動かぬ』


 彼は最初から、龐統の本質を見抜いていたようだ。

 一貫して孫呉にお前は必要ないという態度を緩めなかった。

 龐統を取り立てたのは陸遜である。

 他の者の話では、陸遜は周瑜に師事を受け、弟子同然だったという。

 彼が周瑜の意にそぐわぬものを、一度は南陽へ転戦させられながらも、側に置き続けたのは、今回が初めてだったという。


 呉の武将の為に涙を流す劉備から心を遠ざけ、側の孔明に視線をやる。

 彼は嘆いては無かったが、周瑜の死に、深く目を閉じていた。

 やはり彼は龐統の存在など忘れたかのように、こちらに注意を向けることも無い。


 それが真実なのだ。


 彼は今や劉備をその星の拠り所とし、劉備と共に涙を流し、敵である相手の死に心を悼めるようになったのだ。



 龐統は騒ぎが鎮まらない軍議室から、一礼して退出した。




龐統ほうとう殿』




 長い廊下を歩き続けていると、後方から名が呼ばれた。

 そこに、若き蜀の軍師が立っている。

 孔明の側に仕えている青年だ。

 龐統は辛うじて名を思い出した。姜維きょういだ。


『……なんだ』


『殿のおられる大会議の最中に席を立つのは止めていただきたい』

『おれがいる必要のない場だと思っただけだ』

『随分冷たい物言いをするのですね。貴方は短時間とはいえ、呉に仕えていた。周公瑾しゅうこうきんには恩義があるのではないのですか?』


『恩義?』


 龐統は眉根を寄せる。


『そう。恩義です』


『そんなもの、俺はない。誰にも持たぬ』


 姜維は龐統を見据えた。


『この際言っておきますが、貴方のことをまだ快く思わない者達も蜀にはまだ多くいることを忘れないで欲しい』

 こつ、と姜維は歩き出す。

 龐統を追い越して、背を向けた。

『特に今は、呉に対して不信が募っている所ですからね……。

 私は孔明先生が、貴方はしょくに裏切りの牙を剥くようなことはないとおっしゃるので、貴方を疑うのは止めています。

 ですが、貴方がもし少しでも不審な行動を起こせば、その時は、容赦なく斬るということも忘れないで下さい。


 周公瑾しゅうこうきんは、恐ろしい男でした。

 単純な軍術の使い手というだけではない。

 あの男は人を動かす、力があった。

 あの孫呉の最も重鎮たると言っていい黄蓋こうがい将軍に囮役を飲ませてなお、計略を実行させるだけの忠誠心さえ、与えられる。

 陸遜も、あの男に命じられて孔明先生の命を狙ったのです。

 あれほど他愛ない子供のように孔明先生に懐いていたのに、周瑜に命じられただけで陸遜は牙を剥いた。

 貴方も少なからず、周瑜しゅうゆの側にいたということは、何かしらの影響を受けていないとも思えぬ』


『おれは周瑜には忌み嫌われていた。言葉などまともに聞いたことも無い』


 姜維きょういは振り返る。


『……そうですか。ならいいのですが。

 陸遜りくそんはどうです?』


 龐統は火傷のあとのある顔を姜維に向けた。僅かに、姜維は目を細めるような仕草をした。


『貴方は呉では陸遜の副官として仕え、あの戦いにも副官として参戦していました。

 あの者に情けを掛ける気はありませんか?

 次に戦場で会えば、その首を、迷わず斬ることが出来ますか?』





【私のいる戦場には二度と姿を見せるな。

 次にお前を戦場で見つけたら、その首を必ず飛ばしてやる。

 私を裏切ったからじゃない。

 ――――貴様は最初から、孫呉の敵だったからだ。】





 憤怒と憎悪に満ちた目が、見据える。

 与えられた言葉の意味を、幾度も幾度も思い出して、龐統は考えていた。


 

『俺は自分の意志で呉にいたのだ。去ることはいつでも出来た。

 奴に恩義など無い。

 奴もそのことは承知していた。

 あれは、次の戦場で俺を見つけたら、首を飛ばすと言っていたぞ』


『龐統。私は、陸遜をさほどの者とは見ていません。

 しかしあの者を指南した周公瑾は恐るべき才でした。

 その息吹が掛かっているうちは、注意は必要ですが……所詮、死人の記憶などは時間と共に消えゆくもの。

 陸遜に纏いつく周公瑾の影はいずれ消え去る。

 そうなった時には、陸遜には何も残らない。

 そうなれば排除するのは容易いはずです。

 

 ですが、今は注意が必要ですよ。


 奴が孔明先生に斬りかかったのは事実なのですから。

 赤壁の記憶も新しい今、陸遜が次は貴方の首を飛ばすと言ったからにはあの者は必ずそれを実行するでしょう』


 姜維は龐統を見た。


『貴方はしばらく戦に出ずともいいように、私から孔明先生にお願いしてみます』


『構わん。無用なことだ』


『龐統。貴方と孔明先生の因縁は知っています。【臥龍がりゅう鳳雛ほうすう】――、よもやそんなことになるとは考えたくありませんが、貴方が呉を裏切ったように、蜀もまた裏切るようなことがあれば、陸遜の手に掛かる前に、私が貴方を斬ります。

 そのことは、努々ゆめゆめ忘れないようにしてください』




 龐統は瞳を開いた。


 もう一度、夜空を見上げる。

 周瑜と陸遜の、深い師弟関係は目の当たりにした。

 自分が裏切った時の、それを予想もしなかったような陸遜の驚いた表情。

 愚かだが、何故そんなにも自分を信じ切れたのか……心底不思議な、琥珀の輝きだった。

 

 驚きから、その瞳の奥から揺らめく炎のように怒りが滲み出して行くのも、見た。



 周公瑾が死んだ。



 今、あの琥珀の瞳は悲しみに沈んでいるのか。

 ……怒りに満ちているのか。


 それとも他の、表情をしているのだろうか。


 見上げる満天の星。

 人のように心を持たない星の輝きは、曇ることが無い。


 星は今日も、静かだった。



◇   ◇   ◇



「あ……」



 星を見上げていた陸遜りくそんは、星が流れたのを目で追った。


 波の音がする。


 この辺りは浅瀬が近いため、夜間の進軍は控えることになった。

 なんとなく、吹き付ける風が建業けんぎょうのものと変わった気がする。


 流れた星は消えた。


 何故消えたのだろう。


 燃え尽きたのだろうか。

 遠く、見えなくなったのだろうか。


(それとも)


 ……遠い旅路の果てにどこかに辿り着けたのだろうか。



 ザザン……



 波が船に打ち返す。


 あの星の群れの向こうで、周瑜しゅうゆ孫策そんさくに辿り着いただろうか……。


 考えて、戦場で感傷に浸るのは控えなければならないと、陸遜は自分を諌めた。

 腰掛けていた木箱から立ち上がり、甲板をゆっくりと歩く。


 もうすぐ江陵につく。

 蜀はどう出るだろう。

 派兵をして来るだろうか。

 

 だとしたら、誰が出て来るだろう。


 蜀は赤壁では大きな犠牲を出してはいない。

 主に騎馬将として名を馳せる将軍たちは、健在だ。


 こちらは編成を急いだとはいえ、決して新兵ばかりというわけではない。


 周瑜があの決戦を経てなお、呉軍の兵を残してくれた。

 


(あの方はすでに赤壁せきへき後の世界を見据えていた)



 だから陸遜に、諸葛亮しょかつりょう暗殺も命じたのだ。

 諸葛亮を周瑜が殺めるべきと考えたのは彼の人柄や、言動が悪意に満ちているからというわけではない。

 敵国の軍師である以上、脅威になるから斬ろうとした。


 ――周瑜しゅうゆの願いを果たしたい。


 陸遜はそう思い続けていた。

 これからも、思い続けようと思う。


 ……諸葛亮のことは、今も敬愛している。


 あの人はきっと自分の私欲などではなく、劉備りゅうびの大志に惹かれ、ようやく自分の眠れる力の使い道を知ったのだ。

 建業けんぎょうに来てその国に仕えることで、陸家で心を殺して生きていた自分が、存在理由を見い出せた。そういう陸遜は何となく、そのことが分かった。


 彼は自分を憎んでいるかもしれない。

 次に会った時には裏切者が、という目を向けられるかもしれない。

 だがそれは仕方ない。

 現世では道が交わらなかった人なのだ。……そう思うしかない。


 自分に【臥龍がりゅう】がいつか、討ち果たせるだろうか。

 ……それとも、自分もいつか誰かに討ち取られるのだろうか。

 討ち取られるとしたら、


(……それは一体、誰なのだろう……)


 ちくり、と胸を指すように司馬懿しばい紫闇しあんの瞳が思い出された。

 

 それに愛剣を叩き折ったしょく趙子龍ちょうしりゅう

 あの揺るぎない黄玉の瞳もまた、戦場で何度か会い見えているが危険な牙を持っていると思う。


 自分が死ぬ時、世界は今よりも戦の気配が去っているだろうか?

 

 穏やかな死に際になるのだろうか?

 それとも、苦しいだろうか?


 二十歳になったばかりの若者は星空を見上げて、そこに問いかける。


 側にあった木箱に、もう一度ゆっくりと腰を下ろした。


 周瑜しゅうゆと孫策は、穏やかな死だったのだろうか。



『陸遜、……泣くな』



 孫策そんさくは最後に、優しい言葉を掛けてくれた。

 血に塗れ凄まじい傷を負っていたが、自分はまだ戦えるから安心しろと、死に際まで陸遜を鼓舞しようとしてくれた。

 周瑜が少しでも長く生きるようにしてやってくれと、最後まで願った孫策の死に顔は、穏やかで優しかったと思う。

 

 陸遜は、周瑜の死に顔を見なかった。

 

 ……見れなかったのだ。


 彼に対する罪悪の念が強すぎて、周瑜の死に顔がもし悲愴でも、美しくても、優しくても、……見つめられないと恐れて、遺体と対面することが出来なかった。


 長く師事を受け、深い恩義がある彼の死を見つめられなかったことは、陸遜の心に深い影を落としたが、陸遜は喪に服した一月の間にいつか、周瑜が頷いてくれるような戦功を自分が上げれたと感じられた時は、その時は周瑜の墓前に行ってそのことを詫びようと思っている。



『……よし。』



 陸遜が周瑜に面と向かって文句なく褒められたのは、数えるほどしかない。

 彼はほとんどの場合、陸遜の仕事に対し何も言わなかった。

 敢えて言うとしたら眉を顰め、こんな程度かと叱責されることの方が多かったから、陸遜は周瑜に褒められることを望むのではなく、まず、何も言われないようにしようと心掛けるように努めた。


『よし。いいぞ、陸遜。よくやった』


 それでも時々、周瑜は陸遜を言葉に出して誉めてくれた。



『よくやった』



 南陽なんようから帰還した時は、初めて両腕で抱き留めて労ってもらった。


 周瑜はそういう、ひとだったのだ。


 あの人の死を見つめられなかったことは、いつか恩義で返したい。

 陸遜はこの一月でそんな風に考えるようになった。



 ザザザ……、



 波が静かにさざめく。


 今日は明るい、月の光が水面を輝かせている。




「陸遜様」




 後ろから声が掛かった。

 少しぼんやりしていた様子の陸遜は、一拍おいてから、振り返る。


淩統りょうとう殿」


 甲板の暗がりに、淩公績りょうこうせきの長身が見えた。

 

「すみません。驚かせてしまいましたか?」


 彼はそこで立ち止まって、振り返った陸遜に声を掛ける。

 陸遜は小さく微笑った。

「いいえ。すこし、夜風に当たっていただけです。

 淩統殿は……」


 この船は江陵こうりょう方面軍、総大将呂蒙りょもう乗船の船だ。

 他の武将は隣接する別の船に乗り込んでいて、この船には呂蒙軍の兵士たち、総大将の近衛軍、その副官である淩統の麾下の兵士たち、そして呂蒙の補佐官として配属されている陸遜の部隊。その副官に連れて来た虞翻ぐほんと、彼に従う文官たち数名のみだ。


 他の船は二つないし、三つの部隊が共に分かれて乗り込んでいるが呂蒙、淩統、陸遜の部隊は本陣・第一軍とされ戦場では大きな一つの部隊なので、一つの部隊だけが乗り込んでいるのはこの船だけであり、幾分雰囲気もゆったりとしている。


「私も船室に籠るのがあまり好きではないので、仕事が早く終わったから少し夜風に当たりに」


 自分と同じだと陸遜は柔らかい表情で笑った。

 それを、声を掛けたことに対する拒絶ではないと受け取った淩統は、止まっていた所からゆっくり歩き出して、側にやって来た。

 陸遜と同じように、そこに置かれていた木箱に腰を下ろす。


 船の外を見る。

 今宵は月が綺麗だ。


「淩統殿は船が苦手ですか?」


 ん? と淩統が陸遜を見る。

「船室に籠るのが好きでないと言われたので……」

「ああ……。いいえ。船の上は好きですよ。

 私は建業けんぎょうに来る前は地方を転戦していたので、移動手段も船が多かった。

 慣れていますし」


 そうか、と陸遜は頷いた。

 確かに淩統は船の上に慣れている雰囲気がある。

 無論、甘寧かんねいほどではないが。


「――まぁ、どこぞの水賊上がりほどじゃあないですけど」


 丁度同じことを言われて刹那、陸遜は瞳を驚かせた。

 淩統は向かい合った所で、微かに微笑んでいた。

 その顔からすると、陸遜の思考を先読みしたようだ。

 彼が思った通りの反応をしたので、笑ったのだろう。


 淩統の笑った顔は勿論、陸遜を嘲るようなものではなかった。


 淩公績りょうこうせきは建業に着任して間もなく、父親の仇である甘寧との仲が深刻になり、

 戦場でその不和が混乱を招いて、結果としてその戦いで陸遜が死傷を負った頃から、

 自らを改め甘寧に対する怒りを飲み込み、いつしか陸遜の側で助力をしてくれる人になって行った。

 その戦いの前にも顔見知りではあったが、今ほど親しくはない。

 

(淩統どのは変わられた)


 彼はその時々で陸遜と共に出陣はして来たが今回ほど長期の遠征で、これほど間近に働くことになるのは、初めてだった。

 この江陵方面軍の遠征がいかなることになるかは蜀の出方次第で分からないが、これから本格的な梅雨の時期になる。

 雨が酷ければ、戦況はあまり動かないことが多い。

 少なくとも夏。

 動きが無ければもしかしたら全軍ではないかもしれないが、幾つかの部隊は江陵防衛線に着任することになるはずなので、中には年内に、建業には戻らない者もいるかもしれないと陸遜は読んでいた。


 長くなるかもしれない。


 それは、どうすればこの遠征が短くなるかということを考えた時に、蜀が再度の同盟を提案して来るか、開戦して勝敗が付くかのどちらかだと思ったので陸遜は自然と、今回の遠征は長くなりそうだと考えていた。

 蜀が万が一再度の同盟を提案して来ても【臥龍がりゅう】が蜀にいる限りは再度の同盟はしないという孫権そんけんの強い意志がある。

 開戦する可能性はあるが曹魏そうぎが沈黙した今、赤壁ほどの熾烈な戦闘は互いに消耗し魏を喜ばせるだけなので、短期決戦になるということはあるまい。


 蜀もそう考えるはずだと迷いなく陸遜はそこまで考えて、そう思う理由に孔明の姿を思い出した。

 真っ直ぐに人を見つめる、澄んだ濃緑の瞳を。

(……あの人がいるならば、そんな愚かなことはしない)

 そんな風に、命を狙った今でも諸葛孔明の人柄を信じている自分がいる。


(分からない。もしかしたら、私を殺すのはあの人かもしれない)


 陸遜は先程は思いつかなかった自分の命を奪う可能性がある者の中に、孔明の名を刻んだ。

 

 不思議と、悲愴感はない。

 あの真っ直ぐな魂の人に討ち取られるのなら、それも幸せかもしれない。

 

(無論、ただでこの命を渡す気は微塵も無いが)


 

「……陸遜さま?」



 急に押し黙った陸遜に、淩統が声を掛ける。


「あ……すみません、」

「考え事ですか? 軍師どのというのはいつも何かを考えていなければならなくて、大変そうだ」


 陸遜は笑った。

「いえ。違います。考えていたのは、貴方のことです」

「え?」

「淩統殿は、とても変わられたと思って」

 陸遜は立ち上がる。

「……覚えておられますか? 

 初めてこういう風に貴方と向き合って、話した時のことを」


 淩統も立ち上がり、ゆっくりと甲板を船尾の方へと歩き始めた陸遜の後ろをついていく。


「――恐らく、私が貴方に、戦場の持ち場を替えてくれないかと頼んだ時じゃないでしょうか」

「はい」

 陸遜は頷く。

「初めてしっかりと話をしたのはあの時でしたけど、その前にも、軍議などで顔を合わせたことはありました。軽い挨拶くらいでしたけど……」


「……あの頃の自分のことは、未熟すぎてあまり思い出したくないな……」


 振り返ると淩統が額を押さえて苦い顔をしている。


「あの時も、貴方には本当に失礼な頼みごとをしてしまった。

 建業に着任して間もなく、甘寧と顔を付き合わせることが多くなって。

 ……奴への憎しみが強く胸にあったから、それを出さぬように自分を戒めて……いつもイライラしてた。暗かったでしょう、俺は」


 陸遜は笑った。


「淩統どの」


 数歩彼は戻って来て、淩統の肩のあたりに触れた。


「そんなことはありませんよ。

 あの時貴方と話す前から、私は貴方のことを知っていましたが、私の貴方の印象は暗くなどありません。

 貴方のお父上のことは私は存じ上げませんが、呂蒙殿や周瑜様も貴方の真っ直ぐな御気性はお父上に酷似されているとおっしゃられていました。

 淩操りょうそう殿は忠義に厚く、勇猛果敢な方と聞き及びました。

 若い兵の面倒もよく見られ、常に淩操殿の軍は兵の士気が高かったと……。

 きっとそこにおられると戦場であろうと、味方を不安にさせぬような明るい魂を持っておられた方なのでしょう。

 貴方はその御子息。

 私は貴方を見て、貴方のお父上がどういう人であったのかを少しですが、想像できるような気がするのです。


 当時の、甘寧かんねい殿のことは、……致し方ないでしょう。


 人は誰しも痛みや悲しみを負った直後は、それに耐える為に慎重になります。

 ……わたしもそうでしたから、よく分かります」


 淩統の脳裏に、桃の花びらの舞う中で、俯いている陸遜の横顔が思い出された。


「陸遜様……」


「私があの日、貴方と話すまで貴方に抱いていた印象は、とても明るいものですよ。

 今は甘寧殿とのことを心で整理なさって、あの頃の貴方の印象が戻って来たとも思いますけど……でも、違うようにも感じる」


 淩統は陸遜を見下ろした。

 長身の淩統が正面で見下ろすと陸遜はかなり、顔をこちらに上げる。

 月の光が差し込んで、琥珀の瞳が輝いていた。

 陸遜は優しい表情をしている。


「貴方は近頃、あのころとは違う顔で笑うようになった」


「……そ……うですか……? 自分では、あまり、……分かりませんが」

 淩統が自分の顔の輪郭を確かめるように触れたので、陸遜は小さく笑った。


「こちらを、勇気づけてくれるような、温かい笑い方をされるようになりました」


 微かに息を呑んだ。

 それは、貴方に対してだけなのだと、彼自身は分かっていたからである。

「……いえ……」

「特に龐統ほうとうが来たあたりから、よく私にその顔を見せてくれるようになりました。

 ……きっと、私が未熟な真似ばかりをするから、心配して下さったのでしょう?」

「……。」

「龐統のことは、皆が彼を仕官させない方がいいと言っていたのに、私が意固地になり建業に留めさせてしまったことですから。

 甘寧殿にも、とても叱られましたし」


 甘寧でも陸遜を叱るようなことがあるのか、と淩統は少し驚いた。

 とはいっても、あの男が陸遜を怒鳴り散らすという図が全く思い浮かばない。


「……陸遜様、」

「はい」


 淩統は一瞬迷った。

 彼はその名は、もう出さない方がいいと思っていたからだ。

 陸遜の傷が深くなると思っていたから。

 だが陸遜があっさりとその名を出したので、本当は言いたかったことを言っておこうと決意する。


「陸遜様、龐統のことですが……。

 結果はどうであれ、……奴は、諸葛亮しょかつりょうに関わらない所では優秀な文官として徹していました。

 俺は、呉を裏切り、貴方を苦しめた奴は許す気はないです。

 ……無いですが。あの男は決して心が邪悪で、邪心を持っていて、裏切ったわけではないということは、……分かっているつもりです」


 陸遜が淩統を見上げる。


「奴の動機は、俺には理解出来ませんが、それでも悪人ではないことは分かります。

 だから貴方は、奴の善意に賭けた。

 結果として、その心は届かなかったかもしれない。

 奴は呉を去り、蜀に降った。

 奴は最初から蜀に、……諸葛亮の側にいるべき存在だったんです。

 帰るべきところに、帰った。

 ただそれだけのこと。

 しかし奴の心の内は貴方だけではなく、きっと建業の誰でも、予測など出来なかったはずです。

 周瑜殿でさえ……。

 周瑜殿が龐統を嫌ったのも、奴が呉に対して愛着も忠義も持っていなかったから。

 呉の為に働かない人間だと思ったから取り立てなかっただけのこと。

 貴方は、呉にいたいという龐統の願いを聞き届けた。

 孔明の軛から解放されたいという願いを、信じた。


 俺は、誰も信じてくれずとも、たった一人でも、強く信じてくれる者がいることで救われるということもあると思うんです。


 だから貴方のしたことは、きっと間違いじゃない。

 龐統にも……何かがきっと届いているはずです」


「……届いていたとしても、彼は【臥龍】の側に行くしかなかった。

 そうではないとしても彼は、そう信じた」


「呉に来ないまま孔明の元に行ったら、龐統は孔明を殺していたかもしれません。

 呉に来て、あの戦いの中で孔明の危機を感じ初めて奴の中で、自分が何を成すべきか分かったのかもしれない」


「……本当に大切なものに、彼は気づいたんですね」


 陸遜は視線を流し、海の向こうの夜空を見上げた。

「俺は……、

 ……わたしは、貴方がただ一人龐統の心を救う為に動いたと、そう思いますよ。

 そういうことは今回はそうならなくてもきっと別の時に、別の誰かを救うようなことですから、……だからこれ以上、奴のことで自分を責めないで下さい」


 少しの沈黙のあと。



「――――……淩統りょうとう殿」



 そこに立つ淩統の元からは、風に吹かれて騒ぐ陸遜の表情までは見えなかった。


「私は、次の戦場では龐統を殺します」


 淩統は陸遜の後ろ姿を見つめた。

 彼の話す、言葉を。


「……ここにいた時は彼が心から誰かと共に、生きて欲しいと願っていました。

 でも、もう生は願いません。

 敵になったのですから。

 もし、次に戦場で会い見えた時は――死を願います。

 ――いえ。

 死を与えてみせる」


 微かに、握り締める陸遜の手が震えた。


(この人はこうやって)


 震える陸遜の手を、淩統は両手で包み込んでやりたかった。

 それは自分の役目ではないと思ったから、ぐっ、と拳を握り締めて堪える。


(斬る時は、心を定めて)


 自分なら、裏切者がの一言で龐統をむしろ喜んで斬り捨てただろう。


 ……陸遜という青年は、こうして人の命を強く見つめる。


 生きる者も、

 殺める者も、

 

 同じ大切さで。


 陸遜の幼い頃を淩統は知らないが、何故彼はこれほど若いのにそんなことが出来るのだろうと不思議に思った。

 話に聞く育ての親だったという陸康りくこうが、盧江ろこうで孫策に攻められる前にその城から陸遜を逃れさせ、生き延びさせたからなのだろうか?


 自分を守って、死んでいった者がいる。

 自分を生き延びさせてくれた者がいる。


 彼はそう思うから、奪うことにも慎重になるのだろう。

 単なる武人の生業と割り切らず――。


 だがそれは、とても辛いことだと思う。


 楽なのは、割り切れた方が楽なはずだ。

 淩統もそうしている。

 自分は武人だから、戦場で殺すのが仕事なのだと。

 今殺した男に、息子がいるのかもしれないなどといちいち考えていては、こちらの精神が持たないのだから。


 龐統が呉にいた時は、斬らなかった。

 しょくに降った今は、斬ることに躊躇いはない。


 そう思うことで淩統は龐統を、呉にいる時に殺しておくのだったという考えから、自分を切り離すことが出来た。


 敵味方が入り混じる。

 ……この戦乱の世では仕方のないことだ。

 味方なら守る、敵なら斬る。

 そう、信じるだけ。


 だが淩統はあえて楽な方に考えようとしない陸遜の不器用さが、とても好きだと思った。


 こういう人を戦場で一人、死なせてはいけない。

 彼が強く思ったのはそれだけである。  


「……わたしがもし今、……間違っていることを言っていると思うのなら……そう言っていただけると助かります」


「陸遜様」


 淩統は陸遜の隣に立った。

 星空を見上げる。


「なにも間違ってはいません。」


 陸遜が淩統の横顔を見る。


「貴方は【臥龍がりゅう】を討ち取るつもりでおられる。

 では【鳳雛ほうすう】の首は、俺に討ち取らせて下さい」


公績こうせき殿……」

「奴は貴方を裏切ったんじゃない。を裏切ったんです。

 ならば俺が殺したところで、因果は同じ」


 だから。


「……だからどうか、何もかもを一人で背負い込まないで下さい」


 この遠征に発つ前甘寧も、そんなことを言ってくれた。

 独りになるなと。

 周瑜の為に生きて、周瑜の為に死ぬなと。

 淩公績も甘寧と同じ心で、自分を独りにさせまいと寄り添おうとしてくれている。


 ありがとう、と陸遜の小さな声が聞こえて淩統は少しだけ安堵した。



(もうすぐ戦地に着く。心に刻み込もう)



 彼らの与えてくれた優しい言葉を。

 周瑜の苛烈な死に際ではなく、いつか穏やかな心で彼の元に、戦勝の報告に行く時のことを。

 

 忘れてはいけない。


 独りになってはいけないことを。

 死に執着し過ぎれば、きっとこの首は逆に討ち取られる。

 この一月心が不安と痛みで、仕方がなかった。


 あの苦しみを、甘寧に負わせてはいけない。


(しっかりと目を開いて)


 目の前の物事を見つめるのだ。

 そして周囲で動いてくれる者達のことも、決して忘れてはいけない。

 呂蒙りょもうを支える為に、自分はここに置かれたのだ。

 戦の責任を一身に担う彼のその重荷を少しでも共に背負ってやることが、ここでの自分の使命だ。

 

 蜀に消えた龐統よりも、呂蒙の命が軽いなどということは絶対にない。


(死に取りつかれてはいけない)


 孫策や周瑜にはしてやれなかったことを。

 心を定めれば、呂蒙にはきっと出来る。


(その為に、私が今ここにいる)


 遠い星空を見上げながら、陸遜は誓った。



【終】

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