記念すべき人類初の火星料理
技術コモン
火星に降り立つ日
火星の地平線が、曇り一つない空に赤い輪郭を描いていた。
地球からおよそ半年の旅路を経て、有人探査チームはついにその表面へと降り立った。
推進制御を終えた着陸艇〈アレースIV〉が火星の砂塵を巻き上げると、
艶のない赤土が視界の隅々まで染まり、窓外の世界はまるで酸化鉄でできた幻のようだった。
「外部環境、安定。気圧良好、放射線レベル問題なし」
最初に声を発したのはシステム担当のショーン・ミラーだった。
アメリカ西海岸なまりの低音が、無機質な船内に重く響いた。
誰もがその報告を待っていた。誰もが、待ちわびていた。
ユウタ・タカミはゆっくりと深呼吸をした。
宇宙服の内部にはフィルターを通った空気が流れており、
人工的な匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
だが、彼の胸を満たしているのは別のものだった。
――これは、夢の果てにある現実だ。子供の頃、図鑑で見た火星の写真。
その頃はまだ、こんな日が来るとは思わなかった。
「隔離モジュール、リンク完了」
カルロス・ヒメネスの声がモニタ越しに聞こえる。
「外部設備と気密接続、確認済み。3時間の初期隔離プロトコルを開始する」
スペイン出身の厳格なリーダーが、冷静に任務を遂行していく。
その背後では、微かに唇を噛むエミリア・カーターの姿があった。
食品化学者として彼女が扱うのは、栄養ではなく“文化”だと常々言っていた。
火星で人間が料理をする――その事実の重みに、彼女は誰よりも早く気づいている。
隔離期間の開始とともに、クルーたちは自らの専門設備の確認作業に入った。
ナタリア・グリエンコは無言で発酵培養槽の初期データを確認し、
ショーンは調理システムの電力計測を繰り返す。
だが、ユウタだけは、一瞬立ち尽くしていた。
モジュールの一角、植物プラントの気密扉を前にしていた。
彼が火星行きのクルーに選ばれた理由は、単に植物学者であったからではない。
地球の温室で何千もの試験を繰り返し、重力のない空間でも、
閉鎖された人工光の下でも育つ植物
――「スペースバイオ植物」の育種を成し遂げたのが、彼だったからだ。
「行ってくるよ」と独りごちて、扉のパネルに手をかけた。
消毒処理のあと、数秒の沈黙。やがて重々しい気圧音とともにドアが開く。
眼前に広がったのは、地球とは似ても似つかぬ“緑”の風景だった。
LED光に照らされたラディッシュの葉が、薄い緑色で揺れていた。
ミズナの列は規則正しく育っており、根元には培養水が循環している。
クロレラの培養槽には濃緑の液体が満ち、トマトの枝はすでに結実していた。
ユウタの胸が、熱くなった。
「よく、ここまで……」
言葉の続きはなかった。誰に向けたわけでもない。
だがこの植物たちは、明らかに応えていた。
地球から遠く離れたこの赤い惑星で、人類の“生命支援インフラ”として機能しているのだ。
「ユウタ、こちらカルロス。初期栽培の安定性を確認したら、記録をお願いする」
「了解。問題なさそうだ。……皆、生きてるよ」
「了解」無機質な返答にも、カルロスなりの感慨が滲んでいるように感じた。
通話を終えると、ユウタは一株のミズナにそっと手を伸ばした。
火星に到着してから、最初に触れた“生き物”。
その葉先にわずかに触れた瞬間、微かに水分を帯びた質感が指先に伝わった。
地球と同じ空気はない。だが、植物は息づいている。
――ここは、生きられる場所だ。
その確信が、静かに、しかし力強く彼の中に根を張った。
やがて定刻が来て、クルーたちは再び一室に集まった。
隔離解除を待つ間、簡易ミーティングが開かれる。
「火星に到達した今、私たちは人類史上初の“火星の料理”を作るチャンスを持っている」
エミリアがそう切り出したとき、
ユウタは彼女の目がただの栄養管理ではない輝きを帯びていることに気づいた。
「文化としての料理。その第一歩は、もう始まってるのかもしれないな」
そう応じた自分の声に、ユウタ自身が少し驚いた。
赤い地に降り立った日――
それは、人類が新たな食文化を芽吹かせる、始まりの朝だった。
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