第2話 早朝の甘くないひととき

 早朝、王宮の東棟の廊下は、人を寄せ付けない気配が漂っている。リアーナは文官の制服に身を包み、ある場所に向かっていた。仄かなカビの匂いと遠くからわずかに聞こえる話し声が、孤独感を増す。


 王宮の中でも、書庫や倉庫が多い東の棟。役人が集まる南の棟とは違いひっそりと静まり返っているが、人目を盗んで移動するリアーナにとっては好都合だった。


 冷たい空気に響く足音が、異様に大きく聞こえる。悪いことをしている訳ではないのに緊張感が漂うのは、上司の心証を良くしたいという浅はかな思惑のせいだろう。


 同じ形の扉が並ぶ廊下。他と何も変わらない一枚の前で、歩みを止める。ここは、リアーナの上司の執務室だ。彼はこの王国において重要な役割を担っているが、扉には部署名はおろか、彼の執務室だとわかるものはない。


 鍵のかかった扉の前、少し凹んだところに寄りかかった。


 リアーナの所属している部署は表向きには存在しない。主な仕事は、陰謀を防ぐための諜報活動や、王族から依頼された調査活動だ。

 人に見せられない書類なども多く、鍵は上司が管理している。リアーナは彼が来るまで、息を潜めて待った。


 南の方角から、聞き覚えのある足音が聞こえた。甘めのフローラルの香水も香ってくる。

 

 リアーナは寄りかかるのをやめ姿勢を正すと、その人物の方へ体を向けた。

 カチッと剣を掴む音がする。後ろに控える護衛が、急に現れたリアーナを警戒したようだ。


「あぁ、リアーナちゃんじゃないか~」

 朗らかな声で、張り詰めた空気が一変する。

「皇太子殿下。この度はお子様の御誕生、おめでとうございます」


 リアーナは頭を下げる。この王宮内は身分よりも実力が重視されるとはいえ、王族は別格だ。

 皇太子殿下の後ろに控える護衛がリアーナの顔を確認し、剣から手を離した。


「やぁ、ありがとう。やっと落ち着いたところだよ。テオは、まだかい?」

「そろそろかと思っておりますが、……あぁ、いらっしゃいました」


 後方からよく知る足音が聞こえる。皇太子殿下に似ているが、少しだけ踵を擦る癖がある。香水も同じフローラル系だが、弟君であるテオドール様の方が少しだけ爽やかな香りだ。仄かに薫る程度のうっすらとした香りが、リアーナの好みだった。


「相変わらず耳がいいね。あぁ、来た、来た」


 振り返ると、遠くの角を曲がってくるテオドール様とその護衛の姿が小さく見えた。銀色の短い髪は少し固そうで、深い紫色の瞳は涼しげ。誰が見ても、皇太子殿下の弟だとわかるだろう。


「兄さん! おはよう! 今、開けるよ。リアーナも」

 早足で近づいてくると、テオドール様は一瞬だけリアーナを見た。


「テオ、早いね~」


──いやいや、皇太子殿下の方こそ。


 居住スペースから来たテオドール様と違って、皇太子殿下は執務室側から現れた。既に一度、執務室へ行っていることを考えれば、ずいぶん早い時間から仕事をしていたはずだ。


「兄さんの方が早いだろ。身体には気を付けてくれよ」

 テオドール様もリアーナと同じことを思ったらしい。


 「とりあえず、そこに座っていてよ」と、招き入れる。リアーナは最後に入り、カーテンと窓を開け始めた。


「お気遣いなく~。それにしても、お熱いことだね。こんな早朝から、逢い引きかい?」


「えぇっ!! そんっ、ごほっ、ごほっ!!」

 リアーナは咳込んでごまかした。兄弟水入らずの会話に突っ込みを入れてはならない。


 『そんな訳ないでしょ』と心の中で訴えるが、皇太子殿下はリアーナに向けてにこりと微笑むのみ。


 『早く否定してよね』とテオドール様を見れば、頬を赤くして口をパクパクと動かしている。


「あっ、あっ、逢い引きではないよ! リアーナは、たまに掃除に来てくれるんだっ」


──逆に、そこまで慌てると、怪しいですよ。


 テオドール様に婚約者はいないのだから、誰と逢い引きしても問題はない。今回の場合は、きっぱりと否定すればすむのだ。


「私は、テオに幸せになってもらいたいけどね~」


 拭き掃除をしながらリアーナが盗み見れば、テオドール様は難しい顔で考え込んでいた。


「俺の幸せは、この国の平和だから」


 テオドール様の声は、どこか固い響きがある。


「また、また、真面目だなぁ~。テオだって、好きな子くらいいるだろ?」


「いや、そっ、そんなっ!! いるわけないだろ!?」

 音を立てて立ち上がったテオドール様を、皇太子殿下が微笑ましそうに見ている。


 その時、テオドール様と目があった。


──こんなタイミングで目があると、ドキッとしてしまうじゃない。

 それにしても、純粋すぎるのよ……。


「ふ~ん。本当かなぁ~。リアーナちゃんとは、仲いいんだろ?」

 皇太子殿下の探るような声色。


 リアーナは平民だから、テオドール様のお相手には相応しくない。それをわかっていて、からかっているのだろう。


「兄さんは、何のために来たんだよ!」


──テオドール様……。ちゃんと否定しないから、からかわれるんですよ。


 心の中でため息をつきながら、リアーナは扉へ向かう。仕事の話になりそうなら、聞かない方がいいと思ったのだ。会釈をして部屋を出ようとすると、「リアーナちゃんは、いてくれて構わないよ」と皇太子殿下に止められた。


「廊下に出ても、聞こえちゃうんだろ?」


 リアーナは、聴覚と嗅覚が異様に優れている。生まれつきではない。ある事件をきっかけに、そうなってしまった。


「少し早いですが、潜入先に向かいます」


「ははっ。まだ、早いんだろ? 掃除をしていってやってくれ」


 皇太子殿下はテオドール様とリアーナを見比べて、ふわりと微笑む。弟のために頼むよ、とでも言いたそうな雰囲気だ。


 リアーナは棚の上の拭き掃除を再開した。


「セレーニャ港からの報告はまだかい?」


 皇太子殿下の声が、冷たく固いものに変わった。テオドール様の表情も一変する。


「ルーカスからは、変わったことはないと。ただ、全ての荷物はチェックできないそうです」


 急に育て親の名前が出て、リアーナは驚いた。二ヶ月ほど前に、「出掛けてくる」と言い残していなくなった。仕事で出掛けたのだろうからと特に詮索しなかったが、行き先はセレーニャ港だったようだ。

 リアーナは少しだけ羨ましく思う。セレーニャ港は我が国最大の貿易港で、賑やかな街だ。調査でも構わないから、一度は行ってみたいと思っていた。


「そうか……」

 皇太子殿下の声が沈んだ。


「なにがあったのですか? まさか、また?」


「あぁ。真っ昼間の大通りで、短剣をもって暴れた男がいる。13人が刺され、そのうち7人が死亡した。取り押さえられても、訳のわからないことを叫ぶばがりで手がつけられない。調べてみると、幻覚作用のある薬を常用していたらしい」


 皇太子殿下は、苦々しい顔で一気に吐き出した。


「またですか!? グランディア帝国からの輸入品を疑っているんですよね」


──それで、セレーニャ港か。


 グランディア帝国は、ベルメリア王国の西隣にある超大国だ。我が国もけして小さな国ではないが、グランディア帝国は我が国の3倍ほどの大きさを誇る。貿易もさかんで、様々なものが取引されていた。


「あぁ。大量の輸入品に紛れ込ませていると思っているんだがな~」


「そんなもの国内に持ち込んで、どうするつもりなんでしょう?」


「金になるからか、国家に仇なしたいのか、いまのところ不明だ。どちらにせよ、国内に持ち込ませないためには、根本的な改革が必要になりそうだな」


「ルーカスには、戻るように伝えました。詳細は、その後でお持ちします。セレーニャ港には、誰か代わりに向かわせましょう」


「あぁ、こちらにはルーカスがくるのか。歴代最強の元宰相がなら、こちらとしては心強いが、セレーニャ港の方も頼んだぞ」


 皇太子殿下には、何か政治的な手腕が必要なのだろう。ルーカスは歴代で最長の期間、宰相を務めた男だ。訳あって、爵位は返上してしまっているが。


「それから、女中の方もな」

「そちらは、リアーナが」


 リアーナが慌てて頭を下げると、「あぁ、適任だね」と言ってもらえた。


 皇太子殿下が腰を上げると、普段の朗らかな雰囲気に戻っていた。

「じゃあ、そろそろ行くよ。二人の時間を楽しんで~」

 手をヒラヒラとさせながら、部屋を出ていく。

「だからっ、そんなんじゃなくて!! リアーナは、掃除をしに来ただけだから」


 部屋を出る直前、皇太子殿下はクスッと笑った。


 リアーナの潜入先はこの王宮だから、少し早くきて簡単に掃除をするくらい訳もない。だから、たまにこうして早朝からきていたのだ。


──テオドール様の心証を良くするためとはいえ、彼が嬉しそうだから続けているのだが……。


「あの、リアーナ。兄さんの言ったことは、気にしないでくれ」

 テオドール様は照れたように側頭部を掻いている。


「少しも女っ気がないことを、心配してらっしゃるのではありませんか?」


「ブホッ」


 リアーナが咎めるように言えば、テオドール様の護衛をしているコンラッド・シュトラウスが吹き出した。

 皇太子殿下がいるときには真面目な顔で、壁か家具かと思うくらい微動だにしなかったのに、いなくなった途端にこれだ。


「クックックッ」

 まだ笑っている。


 テオドール様とは乳母兄弟だが、こちらは見た目どころか性格ですら、全く似ていない。


 テオドール様は剣の腕もさることながら、勉強熱心で豊富な知識を持つ聡明な方だが、コンラッドは椅子に座っていることが苦手だと公言している筋肉バカである。テオドール様が書類仕事をしている後ろで、鍛錬用に重くした剣の模造品を振っているのだから、リアーナはいつも呆れてしまっていた。


「テオドール様が婚約者を決めないのは、色々考えてのことだと、わかっていますよ」

 リアーナは、コンラッドに言い返す。


「それだけだって、思ってるんすか!?」

 コンラッドは深い藍色の瞳を丸くして、大袈裟に驚く。「こう、色々あるじゃないっすか!?」と身を乗り出して、テオドール様に「コンラッド!!」と低い声で止められている。


「いいじゃないっすか~!」

 チラチラとテオドール様を盗み見しながら、楽しそうな声をあげる。


 この男は、本当に貴族なのかと疑うくらい粗雑だ。王宮内は身分よりも実力が重視されるとはいえ、やはり平民への当たりは強い。その点、コンラッドはいつもこの調子。平民のリアーナにとっては、ありがたい存在ではある。


「他に、何かあるんですか?」


 コンラッドは、テオドール様をチラリと見て肩を竦めると、「俺より頭いいんすから、自分で考えるんっすね~」と、知らない素振りをする。わざとらしく視線を避けているようだが、少しニヤニヤしていてリアーナは腹を立てた。


「なによ。コンラッドさんったら」


「リアーナ、そろそろ行かないと遅れるぞ」

 テオドール様のため息混じりの声が聞こえる。


「あっ!! ヤバっ! じゃあ、失礼します!」


 テオドール様の執務室から飛び出すと鍵の開いている書庫に飛び込み、女中の制服を取り出した。


 この服で早朝に執務棟を出歩いていると、目立ってしまうのだ。


 白いブラウスに袖を通すと、小さなボタンをはめていく。青いフレアスカートから茶色いロングスカートに履き替えた。


──調査が進むといいのだけれど。


 荷物は書庫の見えないところに押し込んで、誰にも咎められないぎりぎりの速さで、女中の集合場所に駆け込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る