王子殿下の秘密諜報員は、まだ恋を知らない~潜入調査と17年前の事件~
翠雨
第1章
第1話 暗闇に差し込む一筋の光
ドスン!!
衝撃と共に、激痛が走る。
突き飛ばされて、小さな身体は尻餅をついた。
逃げるように後ずさりすると壁に当たる。じとっと湿った冷たい床が、ざらざらとまとわりついて寒気が走った。
カビ臭い淀んだ空気に思わず息を止めた。
ガシャン! と扉が閉まり、鍵の閉まる音が響く。
もう大声を上げる気力も残っていない。声を上げると、先程の男が蹴り飛ばしに来るのだ。
身体の痛みに涙が滲んだ。
──お父様! お母様! 助けて……
心の中で助けを求めても、何も変わらない。嗚咽が男に聞こえてしまわないように、身体を小さくした。
逃げ出したいのに、目隠しをされて後ろ手に縛られていては、ここがどこなのかもわからない。
──怖い! 怖い! 怖い! 怖い!! でも、死にたくない!!!
些細な音ですら聞き逃さないように、耳を澄ませた。
扉の外だろうか。男の息づかいが聞こえる。
遠くからもう一人近づいてきて、こそこそと話し始めた。
「しばらく、閉じ込めておけってよ」
「この嬢ちゃん、事が済んだら用無しなんだろ? それなら、俺に切らせてくれよ。人を殺してみたいんだ」
「さすがに、それは、まずいだろ」
くぐもり声だったが、明瞭に聞き取ることができた。
「別に、誰にも咎められやしねぇよ。お貴族様も、こうなりゃ、何にも怖くないなぁ~」
ゲラゲラと気味の悪い笑い声を上げた。
──死にたくない!!
乱暴な男を止めて欲しいと願っても、もう一人の男はそれ以上咎めることはなかった。
しばらくすると、規則的な息づかいに変わる。片方の男は寝てしまったようだ。身体を起こして辺りを窺うが、目隠しされていては得られる情報は少ない。
カビの匂いに混じって、土の匂い、男達の汗の匂いがした。
──何か、他にわかることはないだろうか。何でもいいから。
耳と鼻に意識を集中していると。遠くの方でたくさんの人が動いているような気配がする。喧騒が少しずつ移動して、近づいてきた。
「なんだ?」
寝ていた男が、目を覚ました。
「ここか!! リアーナ嬢!」
「おっ、おまっ、こっ、公爵様!!」
鍵が開けられて、誰かが近づいてくる。
──だれ?? 怖い!!
「リアーナ嬢! 大丈夫か?」
腕の拘束が解かれ、目隠しが外される。目の前にいたのは、いつもとは全く違う表情をした公爵様だった。彼とは領地が隣同士で、何かと家族ぐるみの付き合いがある。いつもは近寄りがたいほどに険しい顔をしているのに、リアーナを覗き込むその目は悲しそうで、何か決意に満ちていた。
「とにかく、怪我の手当てを」
──この人は、信頼できる……。
公爵様は幼いリアーナを抱き抱えると、外に向かう。リアーナが閉じ込められていたのは、石造りの小さな小屋だった。庭仕事の道具を保管しておくような小さなものだが、長年使われていなかったのか蔓におおわれている。
「このお屋敷って、どう・・・」
「公爵様が、怒って・・・」
「もしかして、俺らも・・・」
「静かにし・・」
様々な方角から色々な声が混ざりあって聞こえて、思わず耳を塞いだ。
頭の中がかき混ぜられるようだ。
「リアーナ嬢、どうしたんだ?」
大きな声でわめく男達の汗の匂い。
女性達がつけている、香水の匂い。
踏みつけられた、草の青臭い匂い。
屋敷から漂う、肉の焼けた匂い。
よく嗅ぐ匂いも混ざりあえば悪臭となって、思わず鼻を塞いだ。
胃の中がひっくり返りそうだ。
「リアーナ嬢?」
この不快感を、どう伝えたらいいのかわからない。
「耳が……痛い。鼻が……痛い」
公爵様は部下に命令を下し、リアーナを医者に見せた。聴覚と嗅覚が異様に発達してしまったらしい。医者は、極限状態に置かれたためと説明したが、納得しているような顔ではなかった。
この時、幼いリアーナは、自分が置かれた状況に気づいていなかった。
「リアーナ。昼間はここで、勉強するんだ」
次の日、まだアザが残るリアーナが連れていかれたのは、明るくて上品な雰囲気の部屋だった。静かで、中庭に咲く花の香りが心地よい。
跳ねるような足音と、それを追いかける荒々しい足音が、どんどんと近づいてくる。楽しげな声がすると、リアーナは耳を塞いだ。
「あれ? お前、だれ?」
「あれぇ? でも、誰だって、いいだろ?」
輝く銀髪に紫色の瞳の年上の男の子と、その子より大きな青い瞳に金髪の男の子が、入り口からリアーナを覗き込んでいた。
「はっ!!」
ガバッと起き上がり窓を見ると、まだ日が昇る前だった。
「嫌な夢を見た……」
全身じっとりと冷や汗をかいている。あの日の記憶は、乗り越えたはずなのに……。
──まだ早いけど……。
リアーナは布団から抜け出すと、身支度を始めた。
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