風が、来た。
瀬戸 奈由真
ただ、そこにいた。
わたしの春が終わった。
あの眩しい時間はまるで夢だったみたい。
ひとときの熱に浮かされたわたしは、たくさんの人に見つめられ、言葉をかけられ、写真まで撮ってくれて、それがずっと続くものだと思っていた。
でもそれは、ほんの短い間のこと。
気がつけば、誰も来なくなった。
声も、影も、足音も、なにも。なにも無い。
わたしはここにいる。
何も変わっていないのに。
ほんの少し、飾りを落としただけなのに。
どうしてみんな、急にいなくなってしまうの?
誰かがいるときはあんなにうれしくて、誰もいない時はこんなにも苦しい。
自分はもう終わってしまった存在なのだろう。
まるで、ここにはもういないみたい。
わたしは今、透けている。
誰にも見えていない。
誰か気づいて。
わたしは、ここにいるのに。
寂しい。誰か。誰か。
「不思議だな。」
それは、不意に向けられた言葉。
わたしを見上げる小さな少年。
「僕、こっちの方が好きかもしれない。」
彼はひとりごとのようにぽつりとささやいた。
わたしを見て、わたしに声をかけてくれた。
身体がざわめく。透けていたわたしを救いだしてくれたのは、嬉しそうに見つめてくれていた人でも、写真を何枚も撮っていた人でもなく、私より小さな少年。
「緑のワンピース、素敵でしょう?」
震えていたかもしれない。喜びと、感動と。けど、風が強かったからきっとそのせい。
「風が、良く似合うよ。」
見透かされたかのような言葉。どきりとしたわたしのことは露知らず、彼はにこりと笑い、わたしの傍にすとんと腰を落とした。
「これ、わたしのお気に入りなの。でもね――これを褒めてくれたのはあなたが初めて。」
「君は、こんなにも綺麗なのに。なのに、誰も見ようとしないなんて。酷いよね。」
みんなが見てくれていたのは、あのときだけ。
一番きらびやかで、わかりやすくて、笑顔を引き出しやすいわたしだった頃。
それなのに、彼だけは違った。
まるで今のわたしを肯定するように。
飾り立てた姿ではなく、何も持たない今のわたしを。
彼はまっすぐな瞳で見つめてくれた。
「君は今も、強く、美しいのに。」
寂しかった。悔しかった。もう誰も見てくれないんだと、心の中で諦めていた。でも、待っていて良かった。
ぽた、と音がした気がした。
もしも涙を流せるなら、きっと今―――。
ああ。今日の風はなんて暖かいのだろう。
次の日。
五月の暖かい陽が昇った時だった。
柔らかい風と共に、彼は現れた。
また来てくれた。それが心から嬉しかった。
「ねえ、今日はね、図鑑を見てたんだ。」
「ライチョウ、すごいんだ。真っ白で。」
彼は、動植物が好きらしい。静かに耳を傾けるわたしに、楽しそうに話しかけてくれる。
「でもね、ずっと真っ白なわけじゃないんだ。雪山にいる鳥で、雪に溶け込むために冬は白くなるんだって。夏は茶色くなるんだ。」
「すごいよね。姿を変えて、季節に溶け込んで、生きている。」
彼はまるで自分の事のように笑っている。
「でもね、どっちの姿も綺麗なんだ。茶色も、白も。変わるってすごいことなんだって思った。」
「君も、そうだよね。」
ライチョウの白い姿ばかりが注目されがちだけど、彼はどちらも素敵だと言っている。
わたし、あなたのそういうとこ好きよ。なんて言葉は恥ずかしくて口には出せないから。
若葉を揺らす風の音が、わたしの言葉をそっと包みこんだ――ということにしておこう。
「また明日も来てくれる?」
「また、明日も来るよ。」
胸の奥がぽっと暖かくなる。それは、陽射しでも、風でもなく、もっと静かで、でも確かに。わたしの中に小さく灯った何か。
来てくれるんだ。それだけで、わたしはどれだけ嬉しいか。きっと彼は知らない。
透明になったあの時間がどれだけ苦しいか知っているから、今がうれしくて、幸せでたまらなかった。
「じゃあ、また明日。」
「また明日。…待ってるわ。」
明日が来ることが、こんなにも楽しみになるなんて。
心なしか、周りの景色さえも輝いて見える。
「彼ってば、まるで魔法使いみたい。」
ふふっと笑ったわたしのひとりごとは、誰に届くでもなく、風にまぎれてそっと溶けていった。
雨上がりの空はまだ少し雲を引きずっている。
葉の先に溜まった雫が、一滴ずつ落ちていく。
いつもより濃い土の香りと、重たい風。
雨ばかりのこの季節がやってきた。そう思って、胸が静かに震えた。季節がめぐっても、彼は変わらずやってくる。
「やっと晴れたね」
「ねえ、今日の話してもいい?」
彼はそう言って濡れた草を手のひらで払ってから腰をおろす。
もう何度も聞いた言葉。だけど、その言葉が今日も聞けたことが嬉しい。
「もちろん。今日は、何の話をしてくれるの?」
「今日は、サバンナの話を読んだんだ。」
「すごいんだ。地平線がずっと伸びていて、そこにキリンやシマウマ、ライオンに、ハイエナ。たくさんの命があって、それぞれが生きている。」
「青い空と、強い陽射し。乾いた風。」
まるで、見てきたかのように彼は語っている。
声が弾んでいて、その瞳は、いつもより遠くを眺めていた。 わたしも行ったことのないサバンナという場所。あまりにも広い空は、雲さえも小さく見えるだろう。陽の光に揺られ黄金に輝く草原は、さぞ美しかろう。ライオンの低い咆哮に、一斉に舞い上がる鳥達。
見てみたい。行ってみたい―――。
「でも、僕は多分そこには行けない。」
どこか諦めているような憂いている声に、わたしの中で、静かに何かが凪いだ。
「病院の先生も、遠いところは無理かなって。」
病院の近くのこの場所。彼からほのかに薬の香りがするのを気がついてはいた。やはり、彼は通院しているのか。
雨上がりの湿気た風が少しだけ強くなって、彼の髪を揺らした。
つられてわたしもさらりと揺れる。
彼が病院に通う理由が、ちょっとした怪我ならいい。でも、どこにも包帯も絆創膏もない。悪いところは内側にあるのだろう。
「だから、行けないから想像するんだ。図鑑とかテレビとか見て、頭の中で組み立てる。」
彼は、どこが悪いのだろう。悪いところは治療をすればちゃんと治るものなのだろうか。 治らないものに侵されているのであれば―――。
「そうすれば、風の香りも、草の音も、乾いた土の手触りも、痛いほどの陽も。見える気がするから。」
なにかの病気なの?その一言は言えない。 あまりにも無神経すぎているから。
彼がふっと笑って、自分が考え込んでいることに気がつく。彼の話をきちんと聞かなくては。
「深海も好きなんだ。暗くて静かで、少し不気味だけど。自分が小さくなるような感じがして、なんか――。いいなって思うんだ。」
「それって、すごく素敵ね。」
彼が話してくれるのは、わたしも知らない世界で。わたしは彼の話を聞いて、勝手に一緒に旅をしている気持ちになる。
「あなたの言葉が、わたしを連れて行ってくれるのね。」
風が吹いて、彼の肩にぽたりとひとしずく落ちてきた。
「風が来た。――どこから来たんだろう。今日は、南の風かな。」
わたしと彼は風に吹かれ、ただぼうっと――。静かに時の流れを楽しんだ。
「今日はね、カミキリムシの話をしようと思って。」
草の香りをまとった風と、彼は一緒に現れた。
わたしに会いに来てくれるということは、まだ病院にも通っているということだろう。もしくは入院をするようになったのだろうか。
朝から鳴き止まない蝉の声。うんざりしていたけれど、それでも、彼が来てくれてなんだかそれすらも楽しめそうで、わたしは嬉しくなってしまう。
蝉の声を縫うように、彼は話す。
「見た目はちょっと怖いけど、実はすごいんだ。暗い木の中で、何年もずっと外に出るのを待って生きてる。――光が来ると、信じてる。」
彼の声が、いつもより空に溶けている気がした。
「なんか。そういうのってすごいよね。」
「長い間眠っていて、やっと羽が生えて外に出るんだ。まるで、何かに選ばれたみたいに。」
彼の言葉に静かに耳を傾けるが、心当たりがある虫の特徴に悪寒が走る。
「それって、長い触覚のアゴの大きなあの虫のことかしら?……わたしあの虫すごく怖くて苦手なの。彼らも一生懸命生きてるって分かってはいるんだけど……。」
熱く語ってくれた手前すごく言いにくいが、こればっかりは、どうしても好きにはなれない。
「ああ!君は苦手だよね!そうだ。ごめんね。」
「もし、君のそばで姿を見つけたら、僕が他のところにカミキリムシを移動させてあげるよ。」
大きく笑いながら言う彼は、すごく心強い。
「ありがとう。そうしてくれると助かるわ。」
重く湿った風がふたりを撫でた。
まとわりつくような、熱を孕んだ風。
季節が進んでいる。命が燃えている。
「今日は、ちょっとだけ喉が渇くな。」
そう呟いて、彼は空を見上げる。
眩しそうに目を細める表情が、どこか遠く感じて、思わず漏れた心の声。
「お願い。無理はしちゃだめよ。」
彼は、小さく息をついて、そして笑った。
その笑顔に、わたしは何も言えなくなる。
この時間が永遠ではないことが――。
分かってしまうようで怖かった。
だから今はまだ。風のせいにして、目を閉じた。
空は、澄みきっていて、深く、青い。
見上げるたびに、何か大切なものが奪われていくような、そんな青。堂々と立ち上がっていく入道雲と、世界を満たしているかのような蝉の声は、夏本番を迎えた事を知らせている。
強い陽射しが傾き、涼しさを含まなくなった風が少しだけ軽くなった時間。彼は日傘をさして、ゆっくりと歩いて来た。
「今日は一段と暑いね。」
「ほんとうに。ここまで来るのに大丈夫だった?」
「もう、汗が止まらないよ。」
彼の息遣いが荒い。よほど暑かったのだろう。
それでも、彼はいつものようにそっと腰をおろし、息を整えて話始めた。
「植物ってさ、太陽がないと生きていけないんだ。」
「当たり前のことかもしれないけど、僕そういうのすごいと思ってて。自分で歩けなくても、どこにも逃げられなくても、じっと根を張って、ちゃんと空を向いて生きている。」
「―――そんなこと、あまり考えた事が無かったわ。」
静かな風が通り過ぎていく。
「ひまわりとか、すごいんだ。太陽を追いかけるみたいに動くって。」
「君も、太陽に似てる。」
わたしの中で何かが弾けた音が聞こえた。
わたしが太陽?そんなわけがない。誰かの心を照らすような力なんて、とうの昔に失くしたと思っていた。
今はただ、あなたのそばに在るだけ。
光を求めながらも、何も生み出せずにいる。
――それでも。
「そばにいると、あたたかい。明るいって言うより…そうだな。僕が、生きてるって思えるんだ。」
言葉の意味を咀嚼する前に、風に揺られ、葉が揺れる音がした。
あなたはいつも、不思議なほどわたしが欲しい言葉を差し出してくれる。
まるでその言葉は、わたし自身ではなく、わたしがここにいることを肯定してくれているようで。
心が震えた。
そんなふうに言ってくれるあなたが、わたしは眩しくて仕方がない。
「…よっぽどあなたの方が太陽だわ。」
「でも――。ありがとう。」
風がそっと揺れる。
それは、あたたかい風だった。
夏の終わりはいつも、音もなく忍び寄る。
まるで、夢の続きを思い出すような感覚。
蝉の声が聞こえなくなり、風が少しだけ冷たくなった。葉の端がほんのりと色を変え始めている。
その日、彼はいつもより少しだけ遅れてやってきた。
声は変わらないのに、咳が混じる。
揺れる肩が、少しだけ細くなった気がした。
「季節が変わってきたね。」
そう呟いた彼の横顔は、どこか物憂げで――。
それでも、風に揺れたその笑顔は、やっぱりいつもの優しさがあった。
「この前ね、コノハムシについて調べたんだ。」
彼は、少しだけ咳き込んでから、わたしの方へ笑いかけた。
夏の終わりの光が影をつくる。
「葉っぱそっくりの虫。風が吹くと、それに合わせて身体を揺らすんだって。本当の葉と見分けがつかないくらいに。」
「コノハムシ……。見たことないと思ったけど、どこかで会ってるのかもしれないのね。もしかしたら、今もいるのかも。」
「―――いいなって思ったんだ。」
「変わっていく季節の中でひとつだけ、そこに溶け込もうとする命があるっていうのが。」
風がふわりと吹いて、彼の髪を揺らす。
色づいた葉も、コノハムシも、きっと揺れた。
「人間ってさ、そういう風にはなれないのかもね。」
「季節に逆らおうとして無理したり、どんどん急いだり。」
彼は逆らおうとしているのか、急いでいるのか。分かってしまうのが怖い。
「人間って、ちょっとせっかちなところがあるものね。」
「――どこに向かっているんだろうって怖くなる時がある。」
またひとつ、咳が微かにもれる。
けれど彼は、それを隠すように、空を仰いだ。
「君は、変わるけど、変わらないよね。」
「変わらないってすごいことだよ。」
わたしを変わらないなんて言う人、あなたぐらいよ。そんな野暮なことは、口にはしないけれど。
葉がひとつ落ちた。
いつの間にか、色が深くなっている。
ひんやりとした風と柔らかい光が彼を包んだ。
季節がまた一歩進んだのだと、教えてくれる。
変わらない、と言ってくれたあなた。
でも、その背中はほんの少しだけ遠く感じた。
そのことが、わたしには――
少しだけ、怖かった。
かすかに木の香りをまとった風。
それは、夏にはなかった香り。
緑だったものが赤へ、黄へ、橙へ―――
まるで、季節の記憶を、ひとひらずつ手放していくようだった。
光も変わった。
夏の陽射しがまっすぐに降り注いでいた頃とは違い、今はどこか斜めに差し込んでくる。
長くなる影が、静かに時の流れを告げる。
鳥の声が少し減った。
空気の中に沈黙が増えてくる。
めくりめくる日々の中、彼はゆっくりと歩いてきた。
「今日は…シダの話、しようかな。」
その声は、いつもより小さくて、掠れていた。
「シダは、花が咲かない植物なんだ。」
「だけど、古くから生きていて…。太陽の陽が届かない静かな森の中でも、ちゃんと息をしている。」
「太陽がなくても生きている植物もいるのね。知らなかった。」
語る声はやはり掠れている。
でも、その瞳はいつものように輝いていた。
「目立たなくても、咲かなくても。それでもそこにちゃんといる。それってすごいことなんだと思う。」
そっと吹く風がわたしと彼をそよそよと揺らす。冷たい風。風の音に包み込まれ、まるで世界にわたしたちしかいないかのように感じる。
「そういう存在に救われる生き物ってきっとたくさんいるよ。」
「じっと僕の話を聞いてくれる。僕は、君に救われてるんだ。」
誰にも見向きもされなくなって、意味の無くなったわたし。あなたは、そんなわたしを見つけて、何度も素敵だと言ってくれた。
今日も、小さな声で命の話をしてくれる。
わたしは、何ひとつ返せていないのに。
それでも、あなたは――わたしの存在を。
ここにいるということを。何度も、何度も確かめるように言葉をくれた。
―――だったら。
彼の思いを信じるように。わたしもわたしを信じてみてもいいだろうか。
咲かなくても。実を結ばなくても。
わたしは誰かの、彼の救いになっているのだと。
「信じるわ。」
彼がいる。
わたしが、ここにいる。
ただそれだけで、
たしかに――
世界は今日も続いている。
糸のような細い風が木々を撫で、 ひとつ、またひとつと枝から葉が零れ落ちていく。
赤や黄色で埋め尽くされた地面が、土の色に溶けてゆく。
鳥の声はもうほとんど聞こえない。
草も花も、風の音に身を任せる。
季節は、たしかに進んでいる。
静かに、何も告げることなく、ただ前へと。
それでも、彼は来てくれる。
カーディガンを羽織り、咳き込みながら歩いてきた。 腰をおろし、潤んだ瞳を隠すように、下を向く。
「風ってさ、いいよね。」
「どこにでも行ける。どんな場所でも、通り抜けられる。誰にも止められない。」
地面に落ちた枯葉が風に吹かれ、カラカラと動いている。
目で追いながら、彼はつづけた。
「僕、風になったら、世界中を旅したいんだ。」
「サバンナも、森の奥も、氷の上も、火山のふちも。深海にも行きたいけど…その時は泡になって行こうかな。」
「僕は、全部見てみたい。」
「世界中の動物達を。強く生きる、植物達を。」
細い肩を震わせ、彼は強く咳き込む。
その声には、悲しみも恐れも無かった。
ただ、本当に夢を語る時の声。
息を整えて空を見る瞳は、無邪気だった。
少し前から、同じ服でここに来ることが増えた。彼は隠しているのかもしれないけど、呼吸が少し荒くなっていて、胸の上下が目立つようになっている。ここにも決まった時間に来て、決まった時間に帰るようになった。
―――彼は入院しているのだろう。
風になったら、自由になれる。
その言葉の奥にあるものを、わたしは気づいて
しまう。
――分かりたくない。
けれど、わたしは静かに風に身を任せた。
「…とても、素敵な夢ね。」
風がひとつ、ふたりの間をすり抜ける。
「風になったら、真っ先に君に会いに来るよ。」
その声は、いつもと同じだった。
少し掠れた、優しくて明るい声。
―――それが、なにより、切なかった。
朝から、雪が降っていた。
空は白く、世界は音を失っている。
辺り1面が少しずつ、柔らかく覆われていくようだった。
風は冷たいだけとなり、あたたかさを含んでいた頃の名残りは、どこにもない。
ここにいる。
わたしは、ここにいる。
それだけは変わらないはずなのに。
―――今日、彼は来なかった。
刺すような風だけが通り過ぎていき、ただ静かに雪が舞っていくのを見つめる。
何度も繰り返し確かめるように、彼の姿を探す。
しかし、眼前に広がるのは白い粒だけ。
遠くで、鳥の声がかすかに響いた。
それが慰めのようで、同時にとても遠いもののように聞こえる。
なんの鳥だろう。
彼に聞いたら、きっと喜んで教えてくれる。
鳥の名前と、生態と、ちょっと変わっている雑学まで。彼は楽しそうに話すだろう。
冬の冷たさが心までもを蝕んでいくようだった。
負けてはだめだ。
冬に負けてしまってはだめだ。
自分を奮い立たせ、じっと雪を見つめた。
「雪になっても、風になっても。あなたは、わたしを見つけてくれる?」
わたしの音さえも白い粒が吸収していく。
世界でひとりぼっちのような静けさ。
―――ああ、負けてしまいそう。
わたしは、胸の奥が静かに痛むのを感じながら、必死に涙を堪えるしかなかった。
降りしきる白が止み、世界の輪郭が優しく戻ってきたのは3日後のことだった。
雪が降っている間は、彼はここに来ることが出来ないらしい。
3日間。たったの3日間。
でも、酷く長かった。
雪の幕が閉じ、陽の光があたたかく包む。
今日は来てくれるかな。
ぽかぽかと陽に照らされ、心地良さに身を任せていると、ふわふわの毛玉のような彼が現れた。
「…あったかそうね。」
思わず顔が綻んでしまう。
彼に会えた喜びで、わたしはだらしない顔をしている事だろう。
「今日はね、ホッキョクグマの話をするよ。」
凍える空気のなか彼の笑顔だけが温度をもち、吐く息は白く、瞬く間に空気に溶けていく。
「ホッキョクグマって、実は毛が真っ白じゃないんだ。毛は透明で、中が空洞になってるから光が反射して、雪みたいに白く見える。」
彼は少し咳をこぼしながらも、楽しそうに続ける。空白の時間を埋めるように、わたしは一言も逃さないように彼の話を聞く。
「しかも、肌の色は黒。しろくまって言うのにね。実際は白いところなんてないんだ。そう見えるだけで。」
もし、ホッキョクグマに言葉が通じるとして、しろくまさんなんて呼びかけたら、彼らは自分達が呼ばれていると気が付かないのかもしれない。
くろくまさん。なんてのもちょっと違和感があるけれど。
「黒い肌で陽の光を吸収して、透明な毛で熱を逃がさないようにする。寒い場所で、体を温める役割がちゃんとあるんだ。」
自然の中にある合理的な進化は美しい。と前に彼が語っていた。
これも合理的な進化というものなのだろうか。
ホッキョクグマは、どのようにして黒い肌にたどり着き、透明な毛を手に入れたのだろう。
「そして、氷の上を歩いて獲物を探す時、その白さは完璧なカモフラージュになる。目立たないように、雪に溶け込むように―――」
ひゅっと音が鳴った。
風かと思ったが、それは彼から鳴っていた。
胸を押さえ、咳と咳の間で酸素を吸おうと必死に喉を鳴らす音。
わたしは、何もしてあげられない。
苦しそうに薄い肩が揺れているのに。
冷たい風に混じった彼の呼吸は、こんなにも荒いのに。
どうしたらいいのか分からない。
お願いだから、無理しないで。
つらいならここに来なくてもいいの。
あたたかくなったら、また来てくれたらいい。
おろおろと彼を見つめる。
「……ごめん、大丈夫。……続きを聞いてほしいんだ。」
それでも、潤んだ瞳をあげて、彼は笑う。
どうして―――。
どうしてそこまでして、お話をするの。
どうしてあなたは、いつも命の話をするの。
そんなことは言えない。
もうお話はやめて、今日は帰りましょう。
その言葉が言えたらどれだけ良かったか。
でも、それは彼に対する冒涜だとわたしは知っている。知識を語る瞳の輝きと、誇らしさで緩む顔を知っているから。
彼を大切に思う気持ちが交差して、なんて言えばいいか分からなくなって、結局はただ、彼の言葉に身を委ねることになる。
「まるで、雪そのものみたいに厳しい大地で生きているんだ。」
「―――僕は、どうしても願ってしまう。彼らが餓えることがなく、この世界から足跡を消さないように。」
わたしは冷たい風に吹かれながら、その姿を想像した。
年ごとに痩せ細る氷の領土に、ひとりたたずむ北の王。風と雪に導かれ、迷わず進む白い影を。
「3m近くある巨体は、世界最大の陸上肉食動物なんだ。実際に見たらすごい迫力なんだろうな。触ったら、どんな感触なんだろう。ごわごわしてるのかな。それともふわふわかな。」
息を整えながら空想に耽ける。
わたしも一緒に空想の世界へと向かう。
「わたしも触ってみたい。」
「けど、今のまま行ったら食べられちゃうから。風になった時、撫でに行こうと思うよ。」
あなたと一緒に風になってしまえたら、どれだけしあわせだろう。
彼とわたしで、自由になって世界を回る。
ライチョウも、カミキリムシも、コノハムシも。彼に教えてもらったもの、全部全部見てみたい。
サバンナの暑さを感じたい。深海に潜って、未だ解明されていない生物を探したい。
生きとし生けるこの世界の命を余すことなく、彼と撫でていけたなら―――。
「どれだけしあわせだろう。」
思わずまろびでた言葉は、彼に届いてしまったのだろうか。
「しあわせだろうな。」
その声は、いつもより掠れていた。
冷たい風がふたりを撫でて、枝先に積もった雪をさらっていく。
「―――じゃあ、また来るよ。」
息を整えて、彼はゆっくりと立ち上がる。
「待ってる。ずっと待ってるから。」
まだ、彼の話を聞いていたい。彼に会いたい。
お願いだから、わたしを置いて風にならないで。
わたし、もう少ししたらまた美しい姿になれるの。あなたは、今のわたしも綺麗だと言ってくれたけど。わたしも、あなたのおかげで今のわたしを好きになれたけど。それでも、わたしの1番の姿をあなたに見て欲しい。
「待ってる。」
去っていく小さな背中に差し出した言葉は、彼に届いていない。
それでも、どうか。
この願いが天に届きますように。
彼の姿が見えなくなって、はらりと雪が降ってきた。わたしの願いが届いたのか、はたまた無理だというお知らせなのか。
今はただ。彼がこの雪で凍えていませんようにと、静かに願った。
太陽が真上にある時間だけは、ほんの少しあたたかくなった。
吹く風はまだ冷たいが、新しい季節が来るというのを、世界が準備しているような気もする。
太陽が登り、そして落ちていく。彼が来なくなって何度繰り返されたか。
30回。いや、40回ほどになるだろう。
今日も、彼の姿は見えない。
透明な空気の中に、寒さだけが積み重なる。
―――もう、来ないのかもしれない。
そう思ったけれど、吹き抜ける風の高い音に耳をすませた時、微かに咳の音が聞こえた。
彼だ。彼が来てくれた。
久しぶりに見た彼は、頬は痩せ、足は震えていた。
どさりと倒れ込むようにいつもの場所へ座りこむ。否、倒れたと言ったほうがいいのかもしれない。
「―――久しぶり。」
ここまで来るのに体力を使ったのだろう。息を整えるのにだいぶ時間を要した彼は、頬が痩せても変わらない笑顔を向けてくれた。
「来てくれて、嬉しい。どれだけ嬉しいか、あなたに知って欲しい。本当に会えて良かった。」
涙が出そうだった。嘘ではなく、本当に。彼の声が胸に染みる。
「今日は―――リスの話をしよう。」
大きく息を吸った彼は、ゆっくりと息を吐きながらわたしにもたれ掛かる。
「わたし、あなたを支えてるから。大丈夫。ゆっくり話しましょう。」
「ねぇ、リスはね、ちょっと、忘れっぽいところが、あるんだ。」
息を吸って、吐く。一言喋る度に繰り返される行為に面倒だと感じることは一切無く、じっと次の言葉を待つ。
「木の実を、冬を越した後に、食べられるように、土の中に、埋めて、…隠すんだ。」
頬をぱんぱんに膨らましたリス達が森を駆け巡り、色んな場所に埋めていくのを想像する。
「でも、隠した場所を、忘れちゃって、そのまま、芽が、出てしまう、ことが、あるんだ。」
彼は、咳を堪えようとして苦しそうだったが、それでも尚楽しそうに話をしていた。
「でも、そのおかげで、また、新しい木が、育つ。そこに埋めた、リスが、いなくなった、後も、成長した木の実を、また、その子供達が、食べて、埋めていく。」
小さな声だった。わたしは彼を支えながら、その声に耳を澄ます。ひとつひとつの言葉が、どこまでも透明に響いていく。
「命は、繋がっていくんだ。」
「僕もね、そうなれたらって、思うんだ。誰かの中で、なにかの中で、生き続けられたら。」
風が揺れて、つられて彼が咳き込む。
背を丸め、胸を抑え、喉を鳴らす。
生理的な涙がぼたっと落ちた。
ひゅっと独特な音を鳴らしつつも、彼は息を整えようと必死だった。
「あなたがもし、いなくなっても―――」
「あなたの言葉はわたしに残ってるわ。」
命は、繋がっていくのだと信じたい。
「……そう、なれたら、いいな。」
彼はわたしに体重を預けたまま目を閉じた。疲れてしまったのだろう。体力の限界なんだ。
少しの間、彼は呼吸に集中していた。独特な音が鳴り止んで、彼はゆっくりと目を開けると、いつものまっすぐな瞳が世界を映し出す。
彼の目には何が映っているのだろう。
震える足で立ち上がる。
その姿は、風に揺れる細い枝のように心許なく、けれど確かに強さを宿していた。
「僕の、話を、聞いてくれて、ありがとう。」
「わたしの方こそ、いつも楽しい話をしてくれて、ありがとう。」
「もうすぐ、だよね。見たかったな。」
「見せたかった。」
「風になっても、会いに、来るよ。」
「……待ってる。」
掠れた声で、それでも笑顔を浮かべながら彼は言葉を紡いで。振り返ることなく、風の中へと消えていく。
その背中を追いかけることも出来ず、わたしはただ風に任せて桃色の蕾を揺らした。
そして、それから彼の姿を見ることはなくなった。
春になった。
わたしは、今年も満開の花を咲かせ、多くの人を笑顔にしていた。
たくさんの人がこちらを見ている。写真を撮って、美味しいものを食べて、愛しい人達と共に笑いあっている。
けれど、どこにも彼の姿はない。
あなたは、花を咲かせていないわたしを綺麗だと言ってくれたけど、花を咲かせているわたしも綺麗なんだから。
―――見て欲しかった。
賑わう人々の中心。それなのに、寂しい。
けれど、そんな思いをかき消すように、そっと春風がわたしを撫でた。
「とっても綺麗だ。」
彼の声が聞こえた気がした。
ずっと、春の風が嫌いだった。
風が吹いたら花びらが散ってしまう。
散ったわたしは、ひとりぼっちになってしまう。
お願い。まだ、散らないで。どうかもう少し咲いていたい。ひとりになりたくない。
そう思って生きてきたけれど。
彼が教えてくれた。
散ったわたしも美しいと、教えてくれた。
ひらひらと花びらが舞い落ちる。
ああ、春の風はこんなにもあたたかく、心地がいいのね。
柔らかなあたたかい風がゆっくりと通る。
―――彼が、来た。
風が、来た。 瀬戸 奈由真 @uni_miya
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