第2話 目覚めと崩壊

芹奈はあの夜から、毎日のように空を見上げるようになった。青空、曇り空、星空。天気に関係なく。屋上での出来事はまるで夢のようで、けれどもその余韻は確かに胸に残っている。


夕と名乗った彼。暖かくて、優しくて、だけど少しずつ消えていくような儚さを持った少年。


次に彼が現れたのは三日後のことだった。


放課後、芹奈はいつものように屋上へ足を運んだ。夕焼けが校舎の壁をオレンジに染めていた。風が吹いて、スカートの裾が揺れる。頬に暖かい風が吹いてきたとき


「来ると思ってた」


背後から声がした。振り返ると、そこに夕がいた。その姿は、あの日よりも少しだけ、透けて見えた。


「あの日より、薄くなってる。」


芹奈が呟くと、夕は笑って肩をすくめた。


「仕方ないよ。誰かを救うと少しずつ僕は薄れていく。今回はそれが君だっただけ。でも、それでいいんだ。」

「そんなの、よくないよ」


反射的にそう言っていた。芹奈は目を伏せる。胸の奥が締めつけられる。夕は少し目を細め、何かを探るように芹奈を見つめた。


「君は、覚えてるんじゃない? 昔、誰かに助けられたこと。」

「、、、え?」

「幼いころ。たぶん、5歳か6歳のころ。夜の道路で、一人泣いてた。」


その言葉に、芹奈の中で何かが引っかかった。脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。夜のブランコ。家を一人で飛び出して道路の真ん中で膝を擦りむいて、泣いていた自分。誰かが、隣に座って一緒にいてくれた。

そのときの声が、頭の中に蘇った。


『泣いてても、空は笑ってる。だから、大丈夫だよ』


芹奈は目を見開いた。


「わたし、、、知ってる。お姉さん、助けられた」


記憶が一気に洪水のように押し寄せた。その人の顔は、はっきり思い出せない。でも、温もりだけは今でも覚えている。大丈夫といいながら、ずっと手を握っていてくれた。夕はゆっくりと頷いた。


「君は、稀なんだ。SAVIORに助けられても、普通はその記憶は消える。そしてどんなことがあってもそれを思い出すことはない。でも君は、、、残っていた。」

「、、、私、変なのかな。」

「変じゃない。強いんだよ。強すぎるから、それに誰にも頼れずにいたんだろ。」



その言葉に、芹奈は涙をこぼしそうになった。

誰にもわかってもらえなかったこと。

誰にも届かなかった心の叫び。

けれど、今、目の前の彼だけは全部わかってくれている。



「君は、選ばれた存在かもしれない。、、、僕がいなくなったあとも、誰かを救うかもしれない。」

「、、、どういうこと?」


夕は言葉を飲み込み、静かに首を振りながら空を見上げた。茜の空は、夜へとその色を変え始めていた。


「それは言えない。でも、きっと君はもう気づいてる。救われるだけじゃなく、誰かを救いたい気持ちもあるってことを。」

芹奈は肯定も否定もせずまっすぐと夕も見つめた。


その日、夕焼けはやけに青白く見えた。





芹奈は家へ帰る途中、胸の奥に妙な違和感を抱えていた。記憶を思い出してからというもの、頭の中で何かがずっとざわついている。まるで自分の中に、他の誰かが目覚めようとしているような、不思議な感覚。

家の扉を開けると、キッチンから煮物の香りがした。


「おかえり、芹奈。今夜は芋と鶏の煮つけだぞ〜。」


たく兄の明るい声。いつもの笑顔。芹奈は笑い返しながら靴を脱ぎ、キッチンへ向かった。


「たく兄、今日も早かったんだ?」

「うん。バイトはキャンセル。ちょっと体調悪くて、」

「えっ、大丈夫なの?」

「冗談、冗談!芹奈が心配しすぎると、俺の心が先に風邪引くから!」


笑いながら言う兄に、芹奈も微笑んで見せた。けれど、ふと視線を落としたときにその手の甲に傷跡を見つけた。細く、浅く、だけど確かに“切った”ような痕。


「兄ちゃん、その手、?」

「ん? あー、これ。棚の角に引っかけたやつだよ。ドジだよな〜」


軽く笑ってごまかす兄。でも、その笑いは――どこか空っぽだった。

昔の兄の笑いとは、何かが違う。それに気づいていながら、芹奈は深く追及できなかった。


「そっか、気をつけてよね。」

「はいはい、気をつけます、お嬢様。」


その日の夕食も、何事もなく終わった。

けれど、芹奈の中にはずっと何かが引っ掛かっていた。


夜。部屋に戻った芹奈は、カーテンを開けて空を見上げた。雲がなく、空を見上げると星が綺麗に見えた。どこまでも広がる星空。その中に、誰かがいる気がした。


「夕、、もしかして聞こえる?」


暖かい風が、窓のすき間から静かに吹き込んだ。すると、ベランダにふわりと空気が揺れた。一瞬瞬きしたすきにそこに夕がいた。あの日と同じ、あの静かな目で。


「呼んだ?」

「兄の様子が、変なの。」

「お兄さんは心が少し、壊れかけてるかも。」


その言葉に、芹奈の胸がつまった。


「私がいるから。たく兄の荷物になっちゃってる。」

「違う。彼は、君を守るために“自分を壊す道”を選んだんだ。」




「どうして、、そんなの、誰も幸せにならないじゃん!!」

「そうだね。でも、人っていうのは、大切な人のためなら、そういう選択もしてしまうから。」


夕はそっと芹奈の肩に手を置いた。


「君は、お兄さんの痛みに気づける。それが、君の強さだよ」


その言葉に、芹奈の瞳から静かに涙が流れた。自分だけじゃなかった。

兄もまた、限界の中で“生きようとしていた。夕の姿がふっと揺らいだ。


「これが僕の最後の仕事かな、、、。


芹奈にはきこえないような声で発した言葉は空へと消えていった。


「私、自分でたく兄を助けられるように頑張ってみる!」

涙で頬を濡らしながらもにっこりとした笑顔を夕に向けると、夕も笑顔を見せてくれた。

「その願いは、きっと叶う。大丈夫。ほら星もたくさんだよ。芹奈を応援してるみたいだ。」




そのころ、静かに崩壊しかけているたく兄の声はこの空にも2人の空間にも届かず空へと吸い込まれていった。「えがお、えがおで。げんきに」

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