走れメロス(作:二階堂 玲)
三田村「……論理的な蓋然性は、私の解釈が最も高いと判断します」
(三田村の容赦ない一言に、一ノ瀬の魂が完全に抜け殻となった。そのカオスな状況を、二階堂玲は、ただ一人、冷静に見つめていた)
二階堂「……では、最後は私ね」
(彼女は、静かにノートパソコンを開いた。その仕草だけで、部室の空気が、ぴんと張り詰める)
二階堂「感傷も、空想科学も、もう十分でしょう。ここからは、論理の時間よ。私が提示するのは、奇跡でも、超能力でも、ご都合主義でもない。この物語の、唯一あり得る、そして最も残酷な『真相』です」
(二階堂は、その冷たい瞳で部員たちを一瞥すると、淡々と、しかし有無を言わさぬ力強さで、テキストを読み始めた)
***
走れメロス
作:二階堂 玲
目が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。
高い場所にある、小さな窓から、灰色の光が差し込んでいた。石でできた、ひやりと冷たい床の感触。重く、湿った空気。メロスは、熱に浮かされた頭で、ゆっくりと身を起こした。そうだ、私は、家を出なければ。妹の結婚式を、見届けるために。そして、あの男との約束を、果たすために。
彼は、よろよろと立ち上がり、数歩だけ歩いて、また硬い壁に突き当たった。狭い。この家は、ひどく狭い。彼は、壁際に置かれた桶の水を一口飲むと、再び、部屋の隅から隅へと、意味もなく歩き始めた。まるで、そうすることで、遥か先の故郷へ、一歩でも近づけると信じているかのように。
彼は走った。暗い家の中を、ひたすら、走り続けた。あと少しだ。あと少しで、愛する妹の晴れ姿が見られる。
どれほどの時間が過ぎたか。彼の脳裏には、のどかな風景が広がっていた。
だが、彼の行く手を、無情の濁流が阻んだ。ごうごうと、地鳴りのような音を立てて、水が全てを押し流していく。
「ああ、神よ!」
彼は、天を仰いで叫んだ。だが、彼が見たのは、青空ではなかった。苔むした、低い天井。そこから、ぽつり、ぽつりと、冷たい滴が、彼の額に落ちてきた。床には、いつの間にか、大きな水たまりができていた。
絶望的な渇きに、彼は、その水たまりに顔を近づけ、泥の混じった生温かい水を、夢中で啜った。不思議なことに、その水は、彼の乾ききった喉を潤し、再び立ち上がる力を与えてくれた。彼は、この天の恵みに感謝し、再び、見えぬゴールを目指して走り出した。
山道に、差し掛かったはずだった。木々のざわめき、鳥の声、それらが、不意に、荒々しい男たちの声と、金属のぶつかり合う音にかき消された。山賊だ。メロスは、身構えた。
「……誰だ」
重い扉が、軋む音がした。男たちが、何かを言い争っている。言葉は、よく聞き取れない。だが、その声には、紛れもない敵意がこもっていた。
「……私には、金などない。友との約束がある。道を開けてくれ」
彼は、扉に向かって、必死に叫んだ。しばらくすると、扉の下の、小さな隙間から、粗末なパンと、水の入った椀が、無造作に滑り込んできた。やがて、男たちの気配は遠のき、再び、静寂が訪れた。
メロスは、それを、山賊の気まぐれな情けなのだと解釈した。彼は、神に感謝し、その恵みを体に収めると、最後の力を振り絞って、走り続けた。
日は、既に、沈みかけているはずだった。
疲労と熱で、彼の意識は、ほとんど混濁していた。もう、駄目だ。間に合わぬ。私は、友を裏切り、人の道を踏み外した、卑劣な男として、生涯、蔑まれるのだ。
ああ、セリヌンティウス。すまない。お前だけは、私を信じてくれたのに。
彼が、完全に意識を手放そうとした、その時。
確かに、聞こえたのだ。
遠くから、大勢の人々の喧騒が。そして、その喧騒の中に、凛とした、決して忘れるはずのない、友の声が。
「……王よ。彼は、来ます。必ず」
その声は、幻聴ではなかった。あまりにも、生々しく、近かった。
メロスは、はっと目を見開いた。
そして、初めて、自分が今いる場所を、正しく認識した。
そこは、故郷の村ではない。野原でも、山道でもない。
四方を、冷たい石の壁で囲まれた、薄暗い、地下の牢獄。
天井の滴りは、ただの雨漏り。山賊の声は、見張りの衛兵たちの雑談。
そうだ。私は、王城を出た直後、捕らえられたのだ。王は、最初から、私を故郷へ帰すつもりなどなかったのだ。この三日間、私が走っていたのは、現実の道ではない。高熱にうなされた、悪夢の中の、ただ、堂々巡りの、絶望的な道だったのだ。
全ては、王が仕組んだ、残酷な罠。信実の力とやらを、あざ笑うための、悪趣味な芝居。
「……う……おおおおおおっ!」
真実を悟ったメロスの胸に、これまでの絶望とは比較にならぬ、灼けつくような怒りと、友への申し訳なさが、一度に込み上げてきた。
外から、刑吏がセリヌンティウスを呼ぶ声が聞こえる。もう、時間がない。
メロスは、残された、本物の、最後の力を振り絞り、牢獄の、古びた木の扉に、全体重をかけて、何度も、何度も、体当たりした。
ミシリ、と。蝶番が、悲鳴を上げた。
扉が、内側へ向かって、弾け飛んだ。
メロスは、転がり込むようにして、薄暗い通路へと飛び出した。階段を駆け上がり、地上へと続く扉を開ける。
目の前に、夕日に染まる、シラクスの広場が広がった。刑場は、目と鼻の先だ。
彼は、走った。この三日間で、初めて、本当の地面を、その足で踏みしめて。
人垣をかき分け、かき分け、叫んだ。もはや、声とは呼べぬ、かすれた、獣の咆哮のような声で。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
***
(二階堂、読み終え、ぱたん、と静かにノートパソコンを閉じた。部室は、完全な沈黙に支配されていた。それは、困惑でも、呆れでもない。ただ、あまりに完璧な論理の前に、全ての言葉を失った、畏怖の沈黙であった)
(最初に、その沈黙を破ったのは、四方田だった。その声は、震えていた)
四方田「…………うそ。……じゃあ、メロスは、村にも帰ってないし、妹の結婚式にも出てないし、川も渡ってないし、山賊にも会ってないし……。親友のために、一歩も、走ってなかったって……こと……?」
三田村「……なるほど。メロスが観測した一連の事象は、全て、被験者の脳内で生成された、虚偽のシーケンスだった、と。外部からの限定的な入力情報を、極度のストレスと発熱により、被験者の望む『物語』として、誤ってデコードした結果。……合理的です。欺瞞の設計としては、完璧ですね」
四方田「そんな……! そんなの、ひどすぎます! エモさがマイナスじゃないですか! 尊さが、ひとかけらも、ない……!」
(そして、今まで抜け殻のようになっていた一ノ瀬が、ゆっくりと、顔を上げた。その瞳には、悔しさと、そして、一人のミステリー好きとしての、純粋な感嘆の色が浮かんでいた)
一ノ瀬「…………玲。……あなたは……! メロスの、あの、気高く、美しい、魂の疾走を……! ただの、病人の見る、哀れな悪夢だというのね……! なんてことを……! なんて、ひどいことを……!」
(一ノ瀬は、わなわなと震えながら、言葉を続けた)
一ノ瀬「でも……! でもっ……! そのロジックに、悔しいけれど、一片の隙もない……! 伏線の張り方、どんでん返し……。ミステリー作家として、完敗だわ……!」
二階堂「ふふ。当然よ。物語とは、時に、最も美しい嘘で、最も残酷な真実を語るものなのだから」
(不敵な笑みを浮かべる二階堂。三者三様の、いや、四者四様の解釈が出そろい、文芸部の、長く、そして熱い一日は、ようやく、その幕を閉じたのであった)
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議事録担当・書記(四方田)追記:
というわけで、『走れメロス・リアリティショック・チャレンジ』、これにて閉幕! なんか、部長はすごい解釈でメロスを走らせて、私は愛で走らせて、宙ちゃんはワープさせて、副部長はそもそも走らせなかった、っていう……。もう、わけが分かりません!(笑) でも、めちゃくちゃ面白かったから、結果オーライかな! うちの部活、やっぱり最高!
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