走れメロス(作:三田村 宙)
四方田「愛こそが、この世の真理なんですよ!」
(一人、自らの解釈の完璧さに酔いしれる四方田。虚無の表情で机に突っ伏す一ノ瀬。そして、深い深いため息をつく二階堂。カオスと化した部室の空気の中、三田村が、静かにヘッドホンを外して口を開いた)
三田村「……次は、私です」
二階堂「……ええ、お願いするわ、三田村さん。もう、何が来ても驚かないつもりだから」
三田村「私の解釈に、情緒や奇跡は存在しません。あるのは、観測可能な物理現象のみです。メロスが間に合ったのは、彼が『走った』からではない。彼が、時空の構造を、ほんの少しだけ『書き換え』たからです」
四方田「え? じ、時空?」
一ノ瀬「(……時空……?)」
(机の下から、一ノ瀬の、か細く、絶望に満ちた声が聞こえる。三田村は、それを意に介さず、タブレット端末の画面をタップし、淡々とテキストの読み上げを開始した)
***
走れメロス
作:三田村 宙
目が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは、思考をクリアにするため、一度、深く息を吸った。彼の脳内は、ただ一つの命令文で満たされていた。『三日後、日没までに、シラクスの刑場へ到達せよ』。このタスクを遂行するため、彼は、己の肉体というリソースを、最適化して運用せねばならぬ。彼は家を飛び出した。
野を駆け、森を抜ける。メロスの思考は、極限まで純化されていた。家族の顔、故郷の風景、全てがノイズとして処理されていく。彼の意識に存在する座標は、二つだけ。『現在地』と、ゴールの『シラクス』。そして、その二点を結ぶ、ただ一本の、見えざる線。彼は、その線上を、最短距離で移動する、一つのベクトルと化していた。
彼の、その異常なまでの集中状態が、世界の物理法則に、ごく僅かな、しかし無視できぬほどの干渉を始めたことを、メロス自身は知る由もなかった。
路程の半ば。氾濫した川が、彼の行く手を阻んだ。物理的障壁。タスク遂行における、致命的なエラーだ。迂回、渡河、いずれの選択肢も、膨大な時間的コストを要する。
「間に合わぬ……!」
初めて、メロスの純化された思考に、『絶望』という強い感情の波が流れ込んだ。その瞬間だった。
彼の意識の奥底で、何かが、軋むような音を立てた。
世界から、色が消えた。音が、遠のいた。彼の網膜に映る景色が、まるで熱せられたガラスのように、ぐにゃりと歪み始める。
「な……!?」
彼は、強烈なめまいに襲われ、その場に倒れ込んだ。全身の骨が、見えざる力によって、内側から引き伸ばされ、圧縮されるような、名状しがたい感覚。それは、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
やがて、その奇怪な現象がおさまった時、メロスは、自分が川の対岸に立っていることに気づいた。鼻から、生温かい液体が流れていた。鼻血だった。激しい頭痛が、頭蓋の内側を殴りつける。
何が起きたのか、理解できなかった。神の気まぐれか、悪魔の戯れか。だが、確認する時間はない。彼は、己の肉体に起きた異常を振り払うように、再び走り出した。ただ、ゴールの座標だけを目指して。
山道で、数人の山賊が、彼のベクトルを遮断した。外部からの、敵対的介入。
「待て。有り金を置いていけ」
メロスの思考回路は、最短の解決策を導き出す。抵抗か、服従か。いずれも、時間的ロスが大きい。
どうする。どうすれば、この空間を、この時間を、最短で突破できる。
彼の、極限まで高まった意志が、再び、世界の理(ことわり)に干渉した。
ひも理論によれば、我々の住む三次元空間は、より高次元の空間に浮かぶ、薄い『膜(ブレーン)』に過ぎない。そして、極めて強大なエネルギーは、この膜を、僅かに、折り畳むことができる。
メロスの、親友を救いたいという、純粋で、強烈な意志のエネルギーが、その引き金となった。
彼の視界の中で、山賊たちの姿が、幾重にも重なって見えた。空間が、まるで紙のように、彼の前後で折り畳まれたのだ。彼は、ただ、まっすぐに走った。だが、彼の進む『まっすぐ』は、もはや三次元的な直線ではなかった。彼は、折り畳まれた時空の、最短経路――ワームホールを、無意識に駆け抜けていた。
山賊たちには、メロスの姿が、一瞬、陽炎のように揺らいだかと思うと、忽然と、自分たちの背後に現れたように見えた。彼らは、狐につままれたような顔で、あっけにとられるばかりであった。
メロスは、振り返らなかった。二度目の『跳躍』で、彼は、己に起きている現象を、朧げながら理解し始めていた。これは、奇跡ではない。己の意志が、世界をねじ曲げているのだ、と。その代償として、彼の肉体は、内側から悲鳴を上げていた。
日は、西の地平線に、その下半分を沈めていた。シラクスの市は、まだ遠い。
もはや、走って間に合う距離ではない。
メロスは、道端に崩れ落ちた。二度の時空跳躍は、彼の生命エネルギーを、ごっそりと削り取っていた。
だが、ここで終わるわけにはいかぬ。
彼は、己の残された、全ての精神力を、一点に集中させた。目標座標、シラクスの刑場。親友、セリヌンティウスの存在座標。
今度は、偶然に頼るのではない。意図的に、空間を歪ませるのだ。
「セリヌンティウス……!」
彼が、友の名を叫んだ瞬間、メロスの身体は、眩い光の粒子となって、その場から掻き消えた。ブレーンワールド間の、強制的な次元転移である。
シラクスの刑場は、群衆で埋め尽くされていた。日没の狼煙が、まさに消えようとしている。
その、空間の、何もなかった一点が、突如として、激しい光を放った。人々が、驚きに目を見開く中、光の中から、ぼろぼろになった一人の男が、地面に叩きつけられるようにして、出現した。
両の耳と鼻から血を流し、その目は、焦点が合っていない。次元転移の負荷が、彼の肉体を、崩壊寸前まで追い込んでいた。
だが、男――メロスは、よろよろと立ち上がると、磔にされようとしている親友の姿を、その目に捉えた。そして、最後の、最後の意志を振り絞り、叫んだ。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
***
(三田村、静かにタブレットの画面を消した。部室は、先ほどまでの生暖かい沈黙とは違う、冷え冷えとした、純粋な困惑に満ちた沈黙に支配されていた)
四方田「…………えーっと…………つまり……メロスは……親友に会いたいって、強く願いすぎて、なんか、ワープできる超能力者になっちゃった……ってコト……?」
一ノ瀬「(…………ひも……? ブレーンワールド……? メロスの、あの、人間的な苦悩が……高次元空間の、ねじれ……?)」
(机の下から聞こえる部長の声は、もはや、言葉にすらなっていなかった。ただ、理解不能な単語を、オウムのように繰り返しているだけだった)
四方田「なんか、すごいのは分かるんですけど……セリヌンティウスくんへの愛が、ただのワープの起動キーみたいになってて、エモさが足りません! これじゃあ、メロスがただの実験体みたいじゃないですか!」
二階堂「……はぁ……」
(二階堂、本日、何度目か分からない、深いため息をついた。その顔には、呆れを通り越して、一種の尊敬の念すら浮かんでいた)
二階堂「……三田村さん。あなたの解釈は、ある意味、潔いわね。『四十キロ走るのが無理なら、走る距離をゼロにすればいい』。それは、問題の解決ではなく、問題の『消去』よ。あまりにも、力業すぎるわ。それに、言っておくけど、ひも理論は、そういうことじゃないから」
三田村「……これは、可能性の一つです。ですが、部長の『ご都合主義』や、四方田さんの『観測不能な情念』に頼るよりは、よほど論理的な蓋然性が高いと、私は判断します」
一ノ瀬「うぅ……! とどめを刺された……!」
(三田村の、悪意なき、純粋な論理の刃に、一ノ瀬の精神は、ついに完全な沈黙に至った)
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