第19話: 毒と孤独。

四日前。


メルディアン家の屋敷は朝霧の中に佇んでいた。まるで凍りついた記憶のように。石造りの壁は沈黙を守りながら、すべてを見つめ、裁いていた。


二階の部屋では、イリア・フォン・メルディアンが広い寝台に横たわっていた。病の影が彼女の呼吸に微かな震えを与え、頬は蒼白に、唇は青く染まっていた。それでも彼女は背筋を伸ばし、目を逸らさなかった。貴族の血を継ぐ者にとって、痛みに屈することは許されない。


その部屋に入ってきたのは、父ロジャー・フォン・メルディアン。剣のようにまっすぐな男。その氷のような視線が、娘の上を冷たく滑った。


「イリア、病に伏すことは許されん。弱さは過ちだ。」


「はい、お父様。申し訳ありません。」

彼女の声は、囁くように静かだった。謝罪ではなく、習慣だった。


彼は近づくことも、触れることもなく、振り返ることもせず、ただ部屋を出て行った。


イリアは知っていた。ここでは涙は価値を持たない。ただ、結果のみが評価されるのだと。


続いて、母アンナ・フォン・メルディアンが入ってきた。父を映したような顔立ち。美しく、冷たく、無表情。彼女は銀の盆を机に置き、言葉もなく立ち去った。


またイリアはひとりになった。いつものように。



---


「お嬢様、紅茶をお持ちしました。」


静寂を破ったのは、優しい声だった。フレデリック・マカリスター。彼女の教育係であり、家庭教師であり、家族の友人。そして——裏切り者。


彼はイリアが信頼していた人間だった。物語を語り、本を与え、彼女が母から逃げる場所を用意してくれた。でも、それはすべて仮面だった。


その下に潜むのは、蛇の本性。


彼は「真実の眼(しんじつのまなこ)」という秘密結社の一員だった。アドルの森に潜むその教団は、世界の「歪み」を正すことを信念としていた。そして、彼らが最も忌むべき歪みと見なしていたのが、古代魔法使いの血統「始祖の血」であった。


三週間前、教団の探索者がイリアがその血を持つ者であることを突き止めた。


「ありがとう、フレデリック。入って。」

彼女は微笑んだ。弱々しくも、優雅に。


彼は完璧な礼儀で一礼した。


「お嬢様の健康は、私にとって何よりも大切なことです。」

そう言って、紅茶のカップを差し出した。


中には、わずかな悪魔の霊薬が混ぜられていた。それは即座に命を奪う毒ではなかった。魂を蝕み、意識の深層に潜り込み、内に眠る始祖の力を目覚めさせ、そして破滅へと導くものだった。


「昔話をひとつ…どうでしょう?」


「昔みたいに、ね。」

彼女はブランケットにくるまりながら、頷いた。


彼は話し始めた。遠い国の姉妹の物語。運命に引き裂かれた二人。イリアは静かに笑った。その笑みは短く、かすかだった。まるでそれが本当の安心かのように。


でも、毒は着実に彼女の内側へと染みこんでいた。ゆっくりと、だが確実に。


彼は待っていた。八年も待っていた男だった。



---


夕暮れ時、家が呼んだ治癒師が現れた。若い魔術師。掌に黄金の魔法陣を宿す者。


「どうぞ。」

イリアは小さく頷いた。


魔法陣が光を放ち、癒しのマナが彼女の身体を通った。しかし——毒は届かない場所にいた。肉体ではなく、魂の芯に。彼女の血がささやいていた。知らぬはずの言語で。誰にも教えられていない印で。


治癒師は深く礼をして去った。


イリアは窓辺に立った。


街は眠っていた。灯りが霧の中で揺れ、遠くで番犬の声が響いた。だが、この部屋はあまりにも静かだった。


「…マリアンナ。」

彼女の唇から名が漏れた。


思い浮かんだのは、かつての笑顔。素朴で、正直な瞳。


マリアンナ・ローズ。平民の少女。イリアにとって唯一、「貴族」ではなく「イリア」でいられる存在だった。


けれど、あの日——イリアは選ばなかった。友情よりも、心よりも、家の名を選んだ。


ローズ家は辺境へと追放された。生死も不明。


「もしあの時、君を選んでいたら……」

その言葉は震えていた。


イリアは膝をつき、枕に顔を埋めた。


声にならない涙が、静かに溢れた。



---


ドアの外にはフレデリックが立っていた。


微動だにせず、ただ彼女の声を聞いていた。


「……お嬢様。あなたは、自分が何者か知らない。だが、始祖の血が目覚めれば——」


彼は言葉を切った。


「その時あなたは、イリアではなく、“それ”になる。」


彼は夜の闇へと消えていった。背後には、変化の種だけが残された。



---


イリアは、まだ窓辺にいた。


暗闇の向こうを見つめていた。


そして、考えていた。


> 「この血が私のものではないのなら…

私は一体、何者なの?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る