さくら

のま

さくら

「おはよ〜。起きてよぉ〜」


 あたしはルイの頬をぽてぽてと叩く。


 窓からやわらかく差し込む朝の陽射しに、ルイの茶色い髪が透けていた。長いまつ毛がピクンと動く。眉根がかすかに寄せられる。なんだか泣き出しそうなルイの起きぬけの顔が好きで、あたしは毎朝じっと見つめてしまうんだ。早く起こしてあげないと、また遅刻しちゃうのに。


「ん?……さくら?」


 ルイは目を閉じたまま、腕を伸ばすとあたしを抱き寄せる。

 また間違えた。

 それは前のコの名前。あたしの名前は「すみれ」だよ。




 あたしがルイと暮らしはじめて何日か経った。


 最初はそんなつもりはなかったの。住所もないような、その日暮らしだったけど、自由気ままで結構気に入ってたから。

 初めて会った夜、ルイはあたしを見て「うちに来る?」とだけ言った。

 何、その口説き文句。と思ったけど、ルイの声がとても優しくて、つい、ふらふらーっと付いて行っちゃったんだよね。


 ルイの部屋はマンションの三階にあった。二部屋とキッチン。一人暮らしっぽい。

 けど、暗い玄関に入ったとたん、女の匂いがした。

 なんだ〜、彼女いるんじゃん。彼の匂いは気に入ったけど、彼女持ちはイヤだな。


「ああ、ごめん。何か匂いがするかな?」


 あたしは「うーん」って顔をしてたみたい。ルイは困ったように頭を掻いた。

 でもその表情かおは寂しそうで、あたしを引き止めた。


「でも、もういないからさ……」

「出て行っちゃったの?」


 ルイはあたしの質問には答えず、部屋の電気をつけた。彼がシャワーを浴びている間に、あたしは部屋を観察した。

 ヘタったクッション、柄が色あせた食器、ピンク色の歯ブラシ。グレーのソファの横で、それらが開いているダンボール箱に乱暴に詰め込まれていた。クッションに鼻を寄せると、玄関で感じた女のと同じ匂いがする。前の彼女の物かな。


「……死んじゃったんだ、さくら」


 顔を上げると、彼が髪を拭きながら、あたしを見下ろしていた。とても悲しそうな目で。


 その晩、あたしはルイのベッドには入らなかったけど、彼は何も言わなかった。前にも気分でいろんな人の家に泊まったし、そういうことも抵抗なかったけど、ルイは無理矢理抱きしめようとしたりはしなかった。

 翌朝も美味しい朝ごはんを出してくれただけで、ルイはスーツに着替えて出て行った。昨晩と同じスーツ姿だ。会社員ってやつなのかな。


 その日から、あたしはルイの家にいる。

 彼はあたしに「いろ」とも「出ていけ」とも言わない。あたしに何も干渉してこない。それが今まで出会った人たちと違っていた。


 あたしはしばらくグレーのソファーの上で寝起きしてたけど、3日目の晩、自分からルイのベッドにもぐりこんだ。

 半分眠っていた彼はあたしをそっと抱きしめた。背中をなでる手がとても気持ちいい。

 もしかしたら、あたしは「さくら」の代わりなのかなと思ったけど、彼の温もりとお日さまみたいな匂いに包まれてたら眠ってしまった。




「また間違えた」


 あたしは怒った。

 ルイがまたあたしを「さくら」と呼んだのだ。


「ん? どうした? 機嫌悪いの?」


 あたしもなんでこんなにイライラするのかなと自分でも思う。今までは誰がどう呼ぼうとあたしはあたしって気にもしなかったのに。


 ルイが無意識の時に呼んでいるからかもしれない。ぼんやりTVを見ている彼に近づくと、あたしを抱き寄せながら「さくら」と呼んだ。しかもそのことに気づいてもなくて、あたしが怒ってもなんで怒ってるのかわからないみたい。


 ルイはあのコを忘れられないんだ。わかってる。死んじゃったなら、なおさらだもん。でもそんなに想ってもらえる「さくら」が羨ましくなっていた。




 こんなのダメだ。あたしらしくない。

 そう思ったあたしは、ルイが仕事から帰ってきたタイミングで外へ飛び出した。


「おい? 待て!」


 彼の驚く声が遠ざかっていく。

 あたしは走るスピードをどんどんあげていった。


 そうだ。また、あのにぎやかな街へ戻ればいいんだ。

 その日の食事や寝床もなんとかなる。

 誰かに媚びるとか、可愛がられたいとか、あたしだけを見て欲しいとか。

 そんなの、本当にあたしらしくない。


 なのに、あたしの足は途中で止まった。


 気づけば公園にいた。夜だから、子供どころか誰もいない。

 遊具の下に潜り込む。狭いところは安心する。

 ルイの家なら、もっと安心なのに。


 わかってるのに、なんで飛び出してきちゃったんだろう。

 お腹もすいた。どうせならご飯食べてから出ていくんだった。


「ルイ! る〜い〜!」


 いつのまにか、彼の名前を呼んで、あたしは泣いていた。


 彼に会いたくてたまらなかった。

 抱っこして、優しく背中をなでて欲しかった。


「すみれ、すみれ〜!」


 あれ? あたしを呼んでる?


「すみれ〜‼︎」


 ルイの声だ!


「ルイ! る〜い〜っ!」


 あたしも叫んだ。


「……こんなところにいたのか」


 光を当てられて眩しかったけど、ルイが隠れてるあたしを見つけた。

 暖かい腕に抱き上げられる。お日さまみたいな匂いにホッとした。


「ごめんな。イヤだったんだろ? さくらの匂いが。さくらの物はちゃんと片付けたよ。ベッドもすみれのを用意したから」

「そうよ。ちょっと……わかってないみたいだけど。もう、名前、間違えないでよね?」


 「すみれ」は、あたしがあなたのところに来た日、つけてくれた名前でしょ。


 あたしはちょっぴり不機嫌なフリをして、ルイの腕の中で身じろぎする。本当は嬉しくてすごく機嫌がいい。だって今まではあたしが突然いなくなっても探しにまで来る人は誰もいなかったもの。


「おまえは何が好きなんだろう? さくらは白身の刺し身が好きだった。たしか、このまえ鰹節をのっけた魚肉ソーセージは食べてたよな?」


 あ〜、初めて泊まった日の朝、出してくれたごはん。


「うん。また、あれ、食べたいな。いつものも嫌いじゃないけど」

「ん? ん? そっか。また、出してやるよ。たまにね」


 返事をしながらあたしに顔を寄せたルイは、急にしかめっ面になる。


「……おまえ匂うな。今日こそ風呂に入れてやる。引っ掻くなよ」


 う〜、お風呂は苦手なの。

 でも我慢する。ルイと暮らせるなら、我慢するよ。


 あたしは白く、つややかな自慢の毛並みを彼に擦り寄せた。尻尾もピンと立っている。


 さくらが何色のだろうと、好きな食べ物があたしより上等だろうと気にしない。これから彼と一緒に暮らすのはあたし「すみれ」なんだから。

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さくら のま @50NoBaNaShi60

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