【第五十五章】 終止形(カデンツァ)

 沈黙が、講堂を包み込んでいた。

 古い木の梁が軋む音さえ、遠くに感じられるほどの沈黙だった。

 篠宮理玖は、椅子に腰を掛けたまま動かない。

 その顔に浮かぶのは敗北の色ではなく、どこか――安堵のようにも見えた。

「──ルカの声はね、俺の曲を“救って”しまったんだ」


最初の言葉は、溜息のように空気へ溶けた。いぶきは答えず、ただ耳を澄ませる。


「傷だらけの旋律。譜面の歪み。理論の隙間……そういう瑕(きず)さえ、あの子が歌えば全部、美しく聞こえた。まるで、俺が“本当に正しい音楽”を書いたみたいにね。そんなはずないのに」


 篠宮は、手元の譜面にそっと触れる。リズムを刻むように、机をトン、トンと鳴らす。


「それが、怖かった。あいつの声は“赦し”なんだよ。俺の未熟も、傲慢も、嫉妬さえも――全部を音で上書きして、何事もなかったように流していく」


 一拍、置く。


「俺は……そんなもの、聴きたくなかった」


 声が、ひときわ低く落ちた。


「だって、あの子の歌が存在する限り――“俺の曲”じゃ、なくなっていく気がして。

 もはや俺が何を作ったかなんて、どうでもよくなる。

 “あの声”のための前座になるんだよ、俺の旋律は。

 俺の名で書かれたはずの譜面が、ルカの声に“支配されていく”感覚が……」


 トン、と机を叩く手が止まる。


「……だから、壊した。“あの声”を、もう、響かせたくなかった」


 短く息を吐く。沈黙が、音よりも重く流れる。


「あんなに美しく、完璧で……

 俺の全部を、無力にする音なんて――

 存在してほしくなかったんだ」


 誰も言葉を挟まなかった。できなかった。

 篠宮はゆっくりと視線を落とし、まるで譜面の中に残響を探すように指先を滑らせた。


一拍置いて、言葉を継ぐ。

「でも……基盤のトリックを考えたあと、これは使えるかもしれない、と思ったんだ」


 講堂に沈黙が降りる。

「封鎖された旧講堂。誰も入れない空間。それが“事故”や“事件”じゃなく、“呪い”として語られれば……誰も近づかなくなる。この講堂は唯一、俺の曲が正しく響く場所だった。だから……壊されたくなかった」


 ぽつり、独りごとのように続ける。


 いぶきは小さく息を呑んだ。

 真壁とさやか、詩音と柘植も何も言わず、ただその場に佇んでいた。


「人ってのは、“説明できないもの”に出会ったときだけ、本気で恐れるんだ。“誰かの悪意”じゃなく、“この場所そのもの”に異変があると見せかける。……そうすれば、誰も踏み込もうとしなくなる。考えるのをやめる」


 重く沈黙が落ちたのち、篠宮は言った。


「ルカのときは、譜面から血が垂れたように見せた。アヤメのときは、像が血を流したように演出した」


 指先が机をなぞる。その手は、少しだけ震えていた。


「……すべては、“講堂に手を加えさせない”ためだった。修繕計画なんて名目で、アヤメは業者を入れようとしていた。文化財だ、音響だ、合理化だ――全部正しい。正論だ。でも……正論は、ときに最も非情な音を立てて過去を壊す」



 そこで初めて、篠宮は目を上げ、いぶきを見つめた。


「だから止めた。止めるしかなかった。アヤメを、未来を修復しようとするその手を、俺の舞台の外へと追いやった」


 そして、ふといぶきの方を見た。

 「……わかってるよ。みっともないって」

 篠宮は目を伏せ、小さく笑った。


「でもな――譜面ってのは、最後の和音で決まるんだ」


「どれだけ途中がぐちゃぐちゃでも……

 **終止形(カデンツァ)**さえ綺麗なら、人は納得する。

 ああ、ちゃんと終わったんだなって。

 音楽って、そういうもんだろ?」


 少しだけ、沈黙。


 篠宮はふっと視線を落としたまま、誰に向けるでもなく呟いた。


「講堂の“怪音”……あれ、ずっと毎晩のように鳴らしてたんだ」

 言葉の端に、乾いた苦笑が滲んだ。


「……中に人が近づかないようにするためにさ。“怖い場所”だと思わせれば、それで十分だった。誰も疑問なんか持たない。そう思ってた」


 一拍の間。

 篠宮の目が、足元へ落ちる。


「……旧講堂には、まだ俺の“痕跡”が残っていた。回収できたはずだった。俺なら、鍵も持ってたし、夜に忍び込むことくらい……わけなかった」


 そこで、ふと言葉を切る。空気が凍りつくような沈黙が落ちた。


「でも……できなかった。罪を回収するってことは、罪を“認める”ってことだ。もし誰かに見られたら終わりだ。……事件のあと、旧講堂には監視カメラがつけられた。学院が動いて、あそこを“二度と誰も近づけさせない場所”にしたんだ」


 篠宮の声が、どこか遠くを見つめるように揺れる。


「俺は、それが“救い”にも思えた。もう、二度と戻らなくて済む。……でも、それは同時に、“逃げ場を失った”ってことでもあった」


 俯いたまま、しばらく何も言わなかった。


「“あの音”を夜な夜な流しながら、俺はずっと、自分に言い訳してた。“まだバレてない。明日ならやれる”……って」


 深く、息を吐いた。


「……これが、俺の選んだ和声(コード)だ」


 誰にでもなく、たった今の自分自身に対する宣言のように。


「綺麗じゃない。和音としては、きっと濁ってる」


 言いながら、ふっと小さく笑った。


「でも、それでもいい」


 ひと呼吸。目を閉じるような静けさが、空気に沈む。


「俺の楽曲は――俺の手で、終止形を打つ」


 それは、償いではなかった。

 懺悔でもなかった。

 ただ一人の作曲者が、自らの楽譜に最後の音を置くように。

 篠宮理玖は、その声で、自らの旋律に幕を引いたのだった。

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