【第三十六章】 赤い糸の先に

 新聞部の部室には、まだ夕暮れの色が残っていた。

 蛍光灯の光がじりじりと鈍く唸り、小さく瞬いた。

 「……ねぇ、私、本当に幽霊を見たわけじゃないのに……どうしてこんなに怖いんだろ」

 ミユが両腕を抱えるようにして、コルクボードの前に立っていた。

 貼りつけた時間軸のメモに、赤い糸が二重に交差している。

 一方は、二週間と少し前の十月三十日の午前零時。もう一方は、十一月十五日の学院祭の午後二時。

 「“怖い”と“おかしい”は別物だ」

 いぶきは低く言いながら、赤ペンでひとつメモを囲った。

 「まず“おかしい”を潰す。感情はそのあとでいい」

 「潰せれば、だけどね」

 さやかがスツールの背にもたれながら、皮肉のように笑った。

 「じゃ、復習しましょ。時間順で、赤い糸からね」

 ボードの左側、0:00――

「十月三十日。ルカ死亡、旧講堂。血の譜面」

ミユが指差した。

「でも、シャッターが閉まってたのにルカが中にいた理由、まだ曖昧なままよね」


さやかが、ふと目を上げた。


「……そういえば、事件の当日。ルカ、“ペダルの調律がおかしい”って言ってた」


「私も噂で聞いた。『ペダルが重い』って」

ミユが頷く。


「それ、ルカさん自身が気づいたのかな? それとも……誰かに、そう言われた?」


 場が静まる。

 カーテン越しの陽が、わずかに部室の壁を照らしていた。


 いぶきが、思案するようにゆっくりと言った。


「もし、“講堂のオルガンに不具合がある”って、誰かに告げられてたとしたら……彼女はきっと確かめに行く」


 さやかがそっと息を吸い、呟くように続ける。


「つまり……呼び出されたのね。誘導されて、旧講堂へ」


 その言葉に、いぶきは静かに頷いた。


「“深夜に一緒に見てみよう”って、そんな誘い文句があったのかもしれない」


 ミユが不意に顔を上げる。


「でも、昼間に行けなかったの?」


 少しの沈黙。さやかが何かを思い出そうとするように、呼吸が静かに揃う。


「……あの講堂、事件当日は照明と音響の調整で業者が入ってた。生徒は立ち入り禁止だったのよ」


「ってことは……ルカが中に入れたのは、業者が帰ったあと、夜になってからってことですか?」


 ミユの推測に、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 やがて、ミユがもう一度ぽつりと声落とす。


「ルカ、あのオルガンが好きだったから。壊れてるなんて騒がれたら、使用中止にされるかもしれない。そうなる前に……こっそり、自分で確かめたかったんだと思う」


 理由は単純だった。けれど、それがどこか切なく響く。


「そうなると行けるのは――」


 ひと呼吸。


「……深夜」


 ミユの声が、かすかに震える。

 いぶきは、視線を伏せたまま呟いた。

「それが、仕組まれていた時間だったんだ」


 「さて、次は十四時。学院祭の日。石膏像の事件。アヤメさんが死亡」

 いぶきはその右にある写真を指でなぞった。


 いぶきがその右にある写真を指でなぞる。

 「イーゼルとテグス、それに血の細工は判明してる。でも――」

 「でも、仕掛けたのは誰か、って話になる」

 さやかが言葉を継ぐ。

 「それと、“なぜ”アヤメだったのか」

 ミユがふと口を開いた。

 「両方とも、動機が見えないよね……」

 答えはまだなかった。

 そのまま、いぶきが黄色の付箋を数枚、机の上から拾い上げてボードに貼りつけた。

 「じゃあ、物証。技術トリックと照らす」


 1枚目:カプセル印刷機

「使えるのは……アヤメさんがいなくなった今、真壁か、さやか先輩くらいだよね」

「――ただ、私は“触れる”だけ。造形のノウハウまでは持っていないわ」

「そう。でも、あのカプセルって、別に校内でしか作れないってわけじゃないよね。データさえあれば、外部の業者やネットプリントでも出力できる」

「……つまり、“使える人間”の枠に犯人を縛る意味はないってことか」


 2枚目:振動トリガー付き再生ユニット

「60Hzの低周波を自動で流せる自作機。展示台の下に仕込まれていた」

 いぶきの一言で、場の空気がわずかに揺れた。

「これは……貸出記録が存在しない。

 市販品でもなく、部品を組み合わせて“誰かが作った”形跡があった」


 組み立てた“意図”が、そこに滲む。


「しかも、反応条件は振動──」


 わずかに言葉が途切れた。次の声は、静かに落ちてくる。


「……まるで、密室の中に犯人がいたと錯覚させるために、ね」


 誰かが息を呑む音がした。沈黙が、事実の重みを際立たせていた。

 場の空気が一度、静まる。

 蛍光灯が「チリ……ッ」と音を立てた。誰もがその微細な音に、一瞬だけ視線を天井に向けた。

 「“封じの旋律”……あれって、何なんだろう」

 ミユがぽつりと言った。

 「旋律というより“鍵”なんじゃないかしら」

 さやかがコーヒーの缶を指先で回しながら言った。

 「“低周波が鍵穴、旋律が鍵”だ。つまり、音が扉を開けるって意味。譜面の血も、音が引き金なら説明がつく」

 「周波数で言えば、17Hz前後」

 いぶきの声は一段低くなる。

 「耳では聞こえない。でも、体には届く。

 もし、そのノイズを“鍵穴”とするなら――録音データをフーリエ変換すれば、鍵穴の“形”がわかるかもしれない」

 「やってみる価値はあるわね」

 さやかがうなずいた。

 「“終わりの鐘”まで、あと六日」

 さやかが口元に笑みを浮かべた。

 「ネタは揃った。鳴らすのは誰かしら?」

 「それを決めるのは、音だ」

 いぶきの目が鋭く光る。

 「……測りに行こう」

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