【第三十一章】 封じの旋律
「……譜面が、泣いたんです」
その言葉は、年老いた朝倉忠義の唇から、まるで封印が解けるように落ちた。
学院から徒歩十五分ほど、古い蔵を改装した住まい。いぶき、ミユ、そして新聞部のさやかは、厚い木戸の奥で、かつて神楽岡音楽学院の教師だった男から、ある“旋律”の話を聞いていた。
「二十年ほど前のことです。当時、私が教えていた音楽科の生徒のひとりが、旧講堂で古い楽譜を見つけたんです。誰が持ち込んだのかは分からない。ただ、彼女は……その譜面を“魅入られたように”練習していた」
朝倉は、かつての教え子を思い出すように視線を落とした。
「曲の名前は?」
いぶきの問いに、朝倉はかすかに首を振った。
「題名は記されていませんでした。“封じの旋律”――私たち教師の間では、そう呼んでいました。旋律自体はとても美しい。だが、なぜか“途中から音が歪む”……楽器や演奏者に異常がなくても、必ずどこかで曲が崩れ、音が狂い始めるんです」
「オルガンで弾いていたんですね?」
ミユが尋ねた。
「ええ。ある日、その生徒が突然、講堂を飛び出した。顔面は蒼白で、口を開くなりこう言ったんです――“譜面が、泣いた”と。何かが、譜面から、音を越えた“何か”を伝えてきたんでしょう」
「譜面には、血のような染みが残っていた……と記録にあったそうですね」
さやかがメモを確認する。
「はい。実際に私も見ました。赤いしずくが、五線譜の隙間をぬうように滲んでいた。でも、彼女の身体には傷ひとつない。……どこから出た血なのかは、ついに分かりませんでした」
いぶきは眉をひそめた。
「科学的に説明できますか?」
朝倉は苦笑した。
「だからこそ、私たちは“封じた”んです。その楽譜は金庫にしまわれ、封印されました。生徒には口止めがされ、彼女はその後、転校しました」
「なぜそこまで?」
朝倉の目がわずかに揺れた。
「音楽というのは、耳で聴くだけのものではありません。ある種の音は、“心”や“脳”そのものに直接作用する。私たちは、あの旋律が“誰かの意思を伝える”媒体ではないかと考えた。……いや、もっと言えば、呼び水なんです。何かを、引き寄せてしまう」
「それは……たとえば、“殺意”のようなもの?」
さやかの声に、朝倉は少し考えてから、静かに頷いた。
「音が人を狂わせる。それは神話でも、近代心理学でも語られている現象です。20年前の事件も、その“はじまり”だったのかもしれない」
いぶきはそこで、ピンときたように手帳にメモをとった。
「つまり、“封じの旋律”とは、旋律そのものがトリガーになる。演奏した者、あるいは聴いた者の“何か”を刺激し、それが異常な行動に結びつく……」
朝倉は答えなかった。ただ、視線の先、窓の外でゆれる木の葉を、何かの亡霊を見るかのようにじっと見つめていた。
沈黙の後、いぶきは席を立った。
「その楽譜、今も学院に?」
いぶきは資料閲覧室にあった譜面を思いあぐねる。
「……ああ。私の手を離れてからは、保管場所は知らされていません。ただ、あれが再び人の手に渡ることがあるなら――」
「“何か”がまた始まる」
いぶきが言うと、朝倉はそっと目を伏せた。
その“何か”の正体を知るには、まだ材料が足りない。
だが、確かに一つ、過去と今が地続きである証が、また積み上がった。
学院の“旋律”は、今もどこかで鳴っている。誰かの心を揺らす、その時を待ちながら――。
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